ヒト起源について-11

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RE mkさんへ

繰り返しますね。
事実に基づいた、新しい論点が有りましたら、コメントさせて頂きます。
それからこれはおまけ

>あー、オマケ。書籍が悪いとはいいませんけど、
>本って査読ないので、基本的に言ったもん勝ちなのですよね。
>特に「考え」の部分。

そうなんでしょうね。
でも、頭の中だけの空想物語よりいいと思っています。例えば.........、

>仮に、「チンプも実はかつて常時直立二足歩行を獲得していたが、後に二次的に二足歩行を失っていた」なんてことが明らかになったらどうします?

こんなおとぎ話よりはね。

>オイオイ......。それはただの喩えですよ?
>私自身がそんな論を主張しているとでも思ったんですか?

そう思っていました。
私に揶揄されたから「喩え」だなどと言い直しにかかっていますが、効き目が有ればそのまま通していただろうと.........。
ご都合主義者には良く見られる風景ですから。
そうでなく若し喩えだとしたら、それはそれでこんな時、「化石発見に至る底知れない苦労や、地道なフィールドワークに思いを致せば、怒りさえ感じる軽さです」。

    

 

そう言う人に、定義についての講釈を伺っても、あまり説得力を感じません。
定義に限らず、概念、言葉一般にはそれが形成されるまでに多くの内容が吟味されています。
定義を学ぶことは、その内容を学ぶことなんですね。定義をあやふやにする態度も、私からすればあまり感心しません。

勿論科学的定義も、当然変遷することは有り得ますよ。それはそれに含まれる内容(内包)が変わったときです。

例えば光は、最初「光線」でした。ニュートンによる粒子説の内容を反映した概念です。
しかしその後、特にヤングの二重スリット実験によって、波として考えないと説明がつかない現象がハッキリし、おそらくマクスウェルの方程式とも関連して「電磁波」になりました(電磁波は、可視光線だけの概念でなく、もっと広い内包に至りますが)。
今ではアインシュタインの光電効果などから、光線も復活し、電磁波と両方が使い分けられるようになっています。

「ヒト」の定義・概念も、今後の知見によってより豊かな内容を含むようになるでしょう。
しかし少なくとも現在、直立二足歩行という内包抜きにヒトを語ることは出来ません。

その意味から言って、喩え話にしても.........、
「チンプも実はかつて常時直立二足歩行を獲得していたが、後に二次的に二足歩行を失っていた」......なんて表現が、どう言うことか、お分かりになりますよね。

もう、本当に終わりにしませんか?
mkさんのお説はお説で、結構ですから。

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このページは、雄が2007年8月31日 07:47に書いたブログ記事です。

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