神と科学は共存できるか-273

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>テーブルにつかない相手.........、

「テーブルにつかない相手」を「相手」にするのは、実際なかなか難しいでしょう。
ドーキンスも「神は妄想か」の中で、「宗教的な読者が、本を閉じるときには無神論者になっているだろう」と言う予想を「なんと言うあつかましくもずうずうしい楽天主義か!」と自嘲?しています(16ページ)。
非科学的ビリーバーやその「教祖様」には、時に「おたっしゃでー」と言うしかないと私も思います。

    

 

問題は結局、国民(...と言うか、特に国境を考えなくてもいいのですが)の科学的意識の問題になるんじゃないかと、私は思うんですよね。
ビリーバーをテーブルに付かせて、仮に批判し説得できたとしても、或いは犯罪になって取り締まっても、もぐら叩きみたいに次から次ですからね。
水伝に限らず、霊感商法、集団結婚、オウム、近いところではスピリチュアル等など。或いは振り込め詐欺も。
結局国民の問題意識、批判意識、要するに考える力を高めることが、疑似科学や霊感商法などの存在基盤を塞ぐことになると思う次第です。遠回りのようだけれどもこれしかないと言うか。

その点で、細木数子だの江原啓之だの、提灯持ちをしているマスコミは特に罪が深いと思う訳です。
そして、その批判を躊躇させたり傍観させたり、或いはマスコミ側が自分の破廉恥な行為を正当化する要因として、NOMA的な不可知論が少なからず「貢献」しているのではないか、と、No-218で述べたのですが。

「重複しない」と言う形で、科学とそれ以外の「教導権」を、明確に線引きしてしまえば、それ以上は考えてもムダ、考える必要なしということになりかねません。
ダーウィンは『種の起源』の中で、自分に未だ分かっていないこと、説明が付かないことを、隠さず誠実に列挙しています。「不可知」でなく「未知」として。
未知は科学の進歩によって既知に置き換わって行きます。ダーウィンのかっての未知は今、相当の部分が既知になっています。

しかし一旦不可知としてしまうと、そこから先の探求の道を塞ぎかねません。これは不可知論一般の弊害として言われていることです。不可知とは「知ることは出来ない」と言うことですから。
「何ごとのおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」の世界と紙一重になってしまう訳です。
不可知論は普通、科学的知識に迫られての、非科学陣営の恐れとして表明されることが多いものです。よりによってグールドがNOMAなどと言う不可知論を主張することに、同じ進化生物学陣営のドーキンスは我慢がならなかったのでしょう。

横道にそれちゃいましたが、考える力を養うと言う点で特に日本では、科学の「基礎と連関」を大事にしない教育も問題有りと思っています。
おかげで日本人はどんどん「理科離れ」をし、考える力も低下しているそうですから。

うがった言い方をすれば、国民があまり考えないほうが政治はやりやすい。
昔「3S」などと言われたことが有って、スポーツ、セックス、スクリーンに国民の目を向けさせておけば、政治は安泰と言うことでした(勿論その一つひとつのSに何の罪も無い訳ですが)。
今、その3つは何なんでしょうね。

疑似科学や「霊能者」であっても、行政的な権力で規制することには問題が有るでしょう。
しかし理性レベルでの科学的な批判は必要です。少なくとも科学に携わっている方々は、No-260のちょちょんまげさんの言われるように、疑似科学への批判に二の足を踏まないで頂きたいものだと思います。

    

 

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このページは、雄が2008年2月 2日 11:24に書いたブログ記事です。

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