山の暮らし往来

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山登りとビール

20年程前の一時期、丹沢とか奥多摩で日帰り登山に励んだことが有った。一番の動機は、勿論頂上で飲むおいしいビール。
大体リッター缶を2本担いで登るのだが、最初このビールで大失敗をした。

山にクーラーボックスなど担ぎ上げる訳には行かないので、凍らせた缶ビールを持っていったら山頂で丁度飲み頃になるんじゃないか、と思ったのだが、これがトンだ大間違い。
一旦凍らせたビールは、それも温まらないように新聞紙などで包んでおいたものは、丹沢程度の低山を登る時間では半分も解けていない。

最初に缶を開けた途端、その貴重な解けた部分は、シューっと泡になって全て飛び出してしまって、後には凍ったままのビールのかたまりが缶の中でゴトゴトしているだけ。
このかたまりは、いくら逆さにしようが振ろうが、タクッ、タクッっとしか出てこない。
何の為に、ここまで担ぎ上げたんだ、って悔しがっても既にアフターフェスティバル。

それに懲りて2回目からは、登山用品の店で買った銀色の保冷袋に、スーパーなどで貰う保冷剤をビールと一緒に入れて持っていった。
この保冷袋、今は100均でも買えるが、NASAの技術が使われているとかでなかなか優れもの。以降、汗をかいた山頂で冷たいビールを呑む、と言う至福のひと時を過ごすことが出来るようになった。

 

    

 

多分?の、「生活道路」

それは兎も角………、
丹沢にも奥多摩にも「………峠」と呼ばれる場所が結構ある。有名なところでは丹沢の「ヤビツ峠」、奥多摩の大岳山に繋がる「馬頭刈峠」など。

ヤビツ峠はバス停になっていて、車でもバイクでも、或いは格好のサイクリングコースにもなっているが、昔は当然徒歩道だった筈だし、元々の「旧ヤビツ峠」はもっと山寄りに有ったらしい。
馬頭刈峠は登山道の馬頭刈尾根に有って、当然徒歩以外で越えことはできない。

峠だけでなく「○○道」「××追分」等、各所にはそれぞれに名前が付いている。
丹沢や奥多摩に限らず今、カラフルなファッションに身を包んだ山ガール(殆ど中高年=山ん婆?)が闊歩しているこれら登山道の多くが、思うに、かっては生活道路だったんだろう。

車やバイクが当たり前になった今、山の向こうに行こうとした時、その山を迂回して多少遠回りになったとしても、平場の整備された道路を通ることにさしたる 抵抗はない。整備された道が有っての自動車なんだから。今はその山に峠越えの自動車道が通ったり、トンネルが掘られたりもしている。
しかしそれはごく最近のことで、自分の足しか移動手段を持たなかった時代、山を迂回してまでわざわざ平場の長い道を歩く発想は、元々無かっただろう。山を越えてのショートカットを人は、普通のこととして選んだ筈だ。

こちら側から一旦尾根に登る。尾根道を縦断し向こうの目的地に降りる。その降り道が、尾根の低い鞍部で分岐していたか歩きやすい峰で分岐していたか、場所によって違っていただろうが、兎も角そこが「追分」等と呼ばれていたのだろう。場所によっては峠の茶屋なども有ったに違いない。
行商人や旅芸人、講や物見遊山の人たち、場合によっては花嫁もモンペにわらじで通ったことだろう。野麦峠は女工達の泣きの峠だったようだ。当然いくさの軍勢が大挙して通ったことも有った筈で、山は今と又違った暮らし密着で賑わっていただろう。

山賊もお客が有ってこそ成り立つ職業で、そこそこ商売になる程度にはお得意様がいたと云うことだろうし、その危険を賭してでもそこを通るしかなかったのだろう。
奥多摩に散見される山岳集落もおそらく、そうしたかっての旺盛な交通の、今に残る痕跡なのではないだろうか。

私の故郷、魚沼スカイラインも多分昔はそう言った生活道路だったんじゃないか、と思っている。八箇峠側から登り、尾根を渡って田沢や津南に降りた人もいたのではないだろうか。謙信の軍勢も若しかして通ったかも知れないなあ。
峠の茶屋や山賊が繁盛する程に往来が激しかったかどうか、その辺は分からない。何しろ魚沼の山は一年の半分が雪の下だ。

 

 

尾瀬

尾瀬も元々は会津と沼田を結ぶ最短の交易ルートで、中間点の尾瀬沼には物資交換の小屋が設けられていたと云う。
『日本再発見‐道』と云う本の中で、奥秩父・十国街道の峠の頂きにかって小屋が掛けられていて、荷物を背負って小屋に着くと、そこで自分宛ての荷物と交換 してくると云う描写が有る。誰も見ていない無人の小屋で、そうやって何事も無くやり取りが出来た、古き良き時代の話だが、尾瀬沼の小屋も又同じようなこと だったのだろう。
今福島から群馬に用事が有ったとして、尾瀬ケ原を抜けるルートなど間違っても発想しないと同じく、徒歩の時代、真直ぐ行けるルートをわざわざ迂回しての平場の道なども又、思案の外だったのだろう。

『尾瀬―山小屋三代の記(後藤允著、岩波新書)』と云う名著がある。
平野長蔵・長英・長靖と引き継がれる長蔵小屋での暮らしを縦軸に、尾瀬の、時に厳しい自然と風物が優しい眼差しで描かれているが、この中に尾瀬が未だ本格的に観光地化する前の、会津・沼田街道としての様相も若干触れられていて興味深い。

この取材がなされた時既に長蔵は故人、三代目長靖も又、身を切られるような仲間と仕事との訣別を経て尾瀬に帰り、その環境保護運動に奔走中、東京へ向かう雪の三平峠で疲労遭難死している。
だからこの取材は専ら二代目の長英・靖子夫婦からの聞き取りだが、おとなしく静かで、学校の先生になりたかったと云う長英と、抜群の記憶力と行動力を持つ 靖子の、淡々と語るその話は、後藤允の、抑制のきいた端正で折り目正しい文章と相まって、読む人の深い感動と涙を誘う。

そもそも靖子が、隔絶された尾瀬の山に住む長英に嫁ぐことになったいきさつなどは、奇跡の「赤い糸」としか言いようが無い。
沼田の町場育ちで当時としては稀な高等女学校出の靖子が、「親しい人にも黙って」山に嫁し、出産間際まで働き、ギリギリで尾瀬ケ原を縦断、里帰りしての長靖出産。
長靖は後に書いている。「4里の道を足を引きずりながら、母は街の産院へ行くために山を降りました。痛みに顔は引きつり、足は2倍にも腫れあがっていたというその日の母を見て、日頃は冷たく母を見ていた村の人も泣いたそうです」(遺稿集『尾瀬に死す』より)。

この本を読むと、日本人なら一生に一度は尾瀬を訪れ、今の尾瀬を守った長蔵小屋三代に想いを馳せるべきだと同時に、その自然保護の為、三回以上は入っちゃいけないな、と云う気になる。

……と、この話を先日、尾瀬の何かの理事をしていると言う同級生と飲んだ時話をしたら、東日本大震災後尾瀬も客足が減って山小屋も大変なんだそうだ。「是非、多いに行ってくれ」とのことだった。
なるほど、長蔵小屋にしても然りだが、ここにも又経済原理と無縁では語れない現実の一端を見た思いだった。
そう言えば何年か前、長蔵小屋の脱税がニュースで流れたことが有ったな。

オッと、ついつい脇道にそれてしまったが、読んで損はしない本なので、是非。
ただ若しかしたら絶版になっているかも知れない。その時は図書館なりamazonでの中古品で。

 

長者原

本題に帰って、そもそも昔は山こそが暮らしの中心だったらしい。
今の感覚で考えるとつい広くて平らな場所が、農業をやるにしても何にしても住みやすいだろうと考えるし、事実今、人口の大半が平場の都会に集中して、ますますその傾向が強まっている。

しかし今、平野となっているそう云う河口周辺は、かって必ずしも人が住みやすい場所では無かったようだ。今、蒲原平野と呼ばれている信濃川下流域に、人が住めるようになったのは比較的最近のことだろう。
第一殆どが潟とか湿地帯、所によっては海の下だったあの辺が、蒲原平野として今の美田になったのは、信濃川や阿賀野川の洪水を多少なりとも制御出来るよう になってからだろうし、暗渠排水工事とポンプでの強制排水ができるようになった、つい最近のこと。それまでは胸まで泥に浸かっての田植えと船を使っての稲 刈りが普通だったし、それが出来るようになったことすら、有る程度土地が落ち着いた近世のことだろう。塩害も有ったかも知れないし。
その辺の状況は、豊栄市(今は新潟市に合併)の郷土博物館で、ビデオに編纂されているのでそれを見ると良く分かる。


水は常に一番低いところを流れる訳で、その水を直接田圃に引くことは当然出来ない。直ぐ脇を大河が流れていても、揚水設備の無かった昔は指をくわえて見ているしかない。
標高の高い上流から用水路を引いて使うしかないのだが、そんなことが出来るようになったのも比較的近年のことだろう。
しかもこの場合標高差が少ない程逆に引水工事の困難さに繋がるようで、渋谷に繋がる玉川上水もその例に漏れなかったようだ。東京は坂の多い街だが、そこを 標高差だけで水を流そうとしたら高い場所は深く掘削し、低い場所は土を盛るか迂回する必要が有る。そうやっての難工事の末の開通だったらしい。

歴史的に見ても、世界四大文明の一つ黄河文明と言われる中国で、最初に農耕文化が発達したのは陜西省あたりのかなり山地、黄河の支流の又支流と言った、比較的小さな水流の両側に少しばかりの平地が開けている、そう言った自然的条件の土地だったようだ。
石器の農具しかなかったような時代、黄河の本流の水は未だ人間の手に負えず、金石併用時代になって河南省当たりの黄河大平原が農業地帯に、更に揚子江流域、ことにその下流域が農業地帯として発展したのは、更にずっとのちの時代のことだったと言う。
一言で「黄河文明」と言っても、最初から黄河の本流を利用できた訳ではない。

八海山スキー場の下に広がる長者原から、古代の遺跡が出た、とか聞いた時には「なんでよりによってこんな山の中に」と思ったものだが、昔人間が最初に棲みついたのは、案外こう云った所だったのかも知れない。
それに自給自足が基本だった時代、山だから僻地などと云う感覚そのものが、端っから無かったのだろうし。

    

 

山の暮らし

「日本の米カレンダー」でも知られている富山和子女史が、「自然と人間シリーズ」三部作の中の「森は生きている」で、往時の山の生活を描写している。

人口、2、3千万と言われる江戸時代、木地師だけでも5、6万は居たそうで、それだけでも山の賑わいが知れると云うものだ。
石文化の西欧と違い、日本は住宅、神社・仏閣、城、橋に至るまで全て山の木材に依存していた訳だし、それも頻繁な大火で、材木需要はいつもひっ迫していた だろう。従事するきこりや木挽き、それを運ぶ筏師等も半端な数じゃ無かっただろうし、材木問屋の羽振りも良かった筈だ。
暖房も専ら木に依存していて、江戸には薪問屋なども結構有っただろう(落語、「どうらんの幸助」の主人公は薪問屋の楽隠居)。炭は単なる暖房としてより以上に、製鉄の為に膨大な需要が有ったそうで、山における一大産業だったらしい。
西欧でそのまま「Japan」と呼ばれる漆も、定期的にうるし掻きが回って集めていたし、猟師やハゼ?採り等、書き出せば切りが無いアレやコレやで山は多いに賑わっていたと云う。活気が有ったんだろうな。

往時の山の活況を、今そのままの形で復活することは出来ない。
何でもかんでもプラスチック製品が蔓延る中、木造りの味わい深い調度品が代を重ねて使われることを思い描いたりするが、今特に強く思うのは「外材」だな。

丹沢の鍋割山へ続く長いアプローチを歩いていると、間伐もされないまま(多分)放置されているヒノキ林が目に入る。鍋割に限らず、全国的な傾向だろう。
理由は単純、今国産材は到底外材に価格面で太刀打ちできない。手入れをするだけ赤字が増えるだけだろう。

シベリアのタイガにしろ熱帯雨林にしろ、育った原生林をただ切り倒して持ってくれば、それはコストは掛からない。
そのことによって毎年四国の幾つか分の熱帯雨林が消えて行くとか、二酸化炭素の増加に拍車が掛かっているとか、そう云うことは今置いといて………、

問題はその「コスト」だが、例えば国産材が外材の何倍かするとして、しかしその金は日本国内に落ちて内需として生きて回る。高ければ高い程、その金額は大 きい理屈になる。膨大な雇用も生まれるだろうし、地域経済も活性化するだろう。これだけでも山は相当活気づく筈だ。後は考え方の問題。いや立場の違いか。
国内の森林を無駄に荒らして安い外材を買ってくる。コストとは何か、と考えざるを得ない「今日この頃」。

富山和子女史によれば、木を伐採した後に植林をする習慣は、日本の他にあまり無いのだそうだ。自分の生きている間に実ることの無いその苦役を、黙々と厭わずにやってきた国民性は確かに日本人特有のものかもしれない。それが途絶えようとしている。
今岩だらけになっているギリシャもメソポタミアも、かってうっそうとした森林と肥沃な土地、泉を持った所だったそうだ。その森林を伐採した後これらの国は(と言うより、ヨーロッパ一般)、そこに羊や山羊を話して放牧地にしてしまう。今の岩山はその結果でもある。

尤も、四囲を海に囲まれた島国日本で、仮に山が荒れたとして、雨が枯れることは無いだろう。その点で今砂漠化が進んでいる中央アジアなどと同じ心配をする必要は無いのかもしれない。問題は逆に降った雨の動向だな。
明治新政府になって日本に招かれた土木のお抱え技師が、日本の川を表して「川と言うより滝だ」と言ったそうだ。
細長い国土の真ん中に3000メートル級の山脈が走り、そこから海までの僅かな距離を水が駆け下る。確かにヨーロッパの、幾つもの国を跨いでの大河に比べれば滝に写っても不思議ではない。
それを「川」に収めているのが、山の森林と水田だと、故、井上ひさしが書いている。

九 州での記録的な豪雨・洪水のニュースが流れている。そう言えば最近、毎年どこかで「記録的」を繰り返している気がするが、水田にしても森林の保水機能にし ても、やはり単なる目先の効率・コスト、それも市場原理の物差しでしか見れない今の「考え方」に、先行き不安を感じるのはおいらだけか。

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このページは、雄が2012年12月 6日 07:04に書いたブログ記事です。

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