Re: 民主集中制に代わる組織原則」と居直る

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いやー、ワンサカ出てきましたね。
トピ上げには貢献したようだが、残念ながら内容はイマイチでした。

【説明責任と独善主義】

>まして代わりうるものを示してから批判非難しろというのは、大衆の感じる独善主義そのものです(No.72)
>居直っている場合でではないでしょう (No.70)

「民主集中制」を最初に、そして繰り返し非難・論難を仕掛けて来たのは、他ならぬT女史、あなたですよ
それを受けて私は………、

  1. 「幹部達が自分たちのご都合で情報を管理支配している」と、民主集中制を非難するなら、その弊害が実際何処に現れているか、具体的な例を示して欲しい。
  2. 民主集中制への批判・非難は自由だが、その場合それに代わる組織原則を提示すべきではないか

…と、非難された側としては当然の疑問を呈した訳だが、返って来た答えが上記「独善主義」「居直り」。

 

自分の方からは一方的に論難を仕掛けもいいが、非難を受けた側が反論したりその内容を問い質すことは、T女史からすれば「独善主義」であり、「居直っている場合ではない」ことになるらしい。
こう言うT女史の態度こそ日本語で、「独善主義」と言うんじゃないですか? 普通はね。

T女史は「民主集中制」を批判して、例えば「人々の基本的人権と自由を奪い幹部のご都合の情報管理による支配体制に至る(No.70)」と断じている。
自分の主張だけを通し、相手の疑問に答えず、逆に疑問を呈すること自体を「独善主義」「居直り」だと決めつける討論姿勢は、若しこの人が党や国の指導者になった時のことを想像させる。
T女史は、自身が批判している「基本的人権と自由を奪い」「ご都合の情報管理による支配体制」に繋がり兼ねないことを、自分では気が付いていないようだ。
今回は答えて貰えなかったが、説明責任は依然としてT女史の側に残っている。

【固定的先入観―結論先に有りき】

一度ならず質問されて答えられない、つまり解答不能に陥っている原因は、T女史の中に「民主集中制は悪だ」と言う固定観念が、結論として先ず最初に有って、全てをその固定観念の狭い覗き穴から「解釈」している為だろう。
「結論先に有りき」だから、私の疑問にも解答が用意できていない。つまりそれ以上深く考える必要が無かったのだ。

スターリンにしても毛沢東にしても、私はそれぞれ社会主義からの逸脱だと思うし、それへの批判実績に日本共産党は事欠かないが、しかし、スターリンと毛沢東、或いは北朝鮮の金王朝にしても、問題点はそれぞれ個別具体的であり、内容は全て異なる。
その異なる内容をそれぞれ、具体的に分析・解明することこそ歴史から学ぶ態度だし、真の教訓に繋がることだと考える。
それはいわゆる「社会主義国」に限らず、例えば、ヒトラーにしてもムッソリーニにしても、日本の軍国主義にしても同じこと。

それをただ、「民主集中制がスターリンや毛沢東そしてなれの果ては北の体制を生むと言うことですね」と、単なるレッテル張りのような、粗雑で単純な結論だけで「理解」した積りになっても、何の意味も無いし教訓も引き出せません。
しかも、民主集中制の問題点について、説明責任を放棄したままでのレッテル張りなのだから、二重に無意味な命題だと言わざるを得ない。

「固定的先入観―結論先に有りき」の弊害で言えば、今まさに未曾有の深刻さと複雑さで日本を襲っている原発の「安全神話」崩壊が有る。
「日本の原発は絶対に過酷事故は起こさない」と言う結論が先ず先に有った。いわゆる「安全神話」。
「絶対安全」なんだから、万が一の対策もマニュアルも出来ていなかった。有り得ないことに対応策は必要無いと言う訳だ。
だから実際に事故が起こった時、その対応の混乱と遅れが更なる深刻さに繋がっている。

日本共産党は吉井英勝衆院議員を中心に、福島第一第二原発の危険性について何度も国会で質問し、2007年東電に申し入れている。どちらも「安全神話」のもと一蹴され、今回の大事故に至った。
今その吉井さんの質問・申し入れがネットで注目されている。
http://ceron.jp/url/iori3.cocolog-nifty.com/tenkannichijo/2011/03/2006-071-f3d1.html

T女史の回答拒否、解答不能を見る時、規模はまるで違うがやはりこの「結論先に有りき」の弊害を思い出さざるを得ない。

【「大衆」への責任転嫁】

もう一つ指摘しておきましょう。
T女史はしきりに、「大衆」を強調する

>大衆の等しく認める独善主義ですね
>民主集中という情報管理支配の組織のあり方に大衆が嫌悪する限り、連帯どころか支持することはできないのです。
>まさしく大衆に民主集中制という大衆の嫌悪する組織原則に代わる、大衆の理解と支持の得られる組織原則を見いださねばならないのは 当の共産党でしょう(以上、No.70)

>代わりうる組織体制を大衆に提示しない限り、大衆の離反は続きます
>大衆はそのような独善的な立場での組織原則顕示を、さらに嫌悪することでしょう。
>大衆はそのような一人芝居見たくもないでしょう (以上、No.72)

しかしこう言う、自分の主張と「大衆」の使い分けは止めた方が良い。
根拠も示さず、漠然とした「大衆」なるものを引き合いに出し、それに寄りかかって自分の主張の正当化、箔づけを図るのは、それだけでその主張の脆弱さを白状しているようなものだ。

石原慎太郎が、都知事としての政治家の顔と、「(三文)作家」としての顔を使い分けて、或いは他人に責任をなすりつけながらの、「ババア発言」「ああいう人ってのは人格あるのかね発言」のいい訳に使っているのと共通する。

【議院内閣制と民主集中制】

日本は政治制度として「議院内閣制」を採っています。
つまり国民の選挙によって選ばれた政党が、内閣を組織し、内閣総理大臣を出すことになっている。国民は選挙を通して、国家権力の行使と税金の使い方を政党に委ねている訳です。
大統領制のように直接、権力の行使者を選択するのでなく、選択の対象は政党です。
その意味で政党は国民に対し、極めて重い責任を負っています。いや負うべきだと言うことでしょう。

民主集中制の、特に「集中」を否定すると言うことは、この国民への責任を放棄せよ、ということです。
政党の統一性と規律を放棄し、派閥、分派、政治グループ、離合集散を奨励し、公約違反を免罪し、党議違反が有ってもまともに処分すべきでない。と言うことです。

論より証拠、これは現実の日本の政治状況を見れば一目了然。
昨日の朝日新聞に直近の世論調査が出ていました(東京版朝刊10面)。菅内閣支持率が18%、民主党支持率が17%になっていました。
これは民主党が政権交代を訴え、財政健全化、普天間基地の「国外、最低でも県外」等の、党としての約束実現の不十分さに対する失望からでは有りません。
約束をことごとく破って、かっての自民党政治に完全に逆戻りしたことへの、裏切りへの怒りからです。
しかも党内はバラバラ、国会の採決を棄権するなどの明白な党議違反が有っても、それをまともに処分することさえできない。
その結果(震災前の状況下でさえ)国政の重要案件について、明確な方針を決めることさえできずに、時間だけを浪費してきた。

理由は明白。
元々民主党に「集中」すべき統一的な綱領や政策が有った訳ではない。
離合集散の果てに、たまたま今民主党に所属しているだけの、極右からかっての中国礼賛の旧社会党迄の、ごた混ぜの政党に過ぎない。
「今わしは、どこの党かと秘書に聞き」がまかり通っている。
そのごた混ぜ民主党が、長年の自公政権に見切りを付けた有権者の支持を、取りあえず集めただけのことだったから、統一的な方針や、安全保障など基本政策を決められる筈が無い。決めたとしても全党が「集中」して守れる筈が無い。

この無原則・混乱が、単に党内だけの問題なら特に問題は無い。
しかしこの政党が今、内閣を組織し、国家権力と予算を使い、国の舵取りをしている。
統一した政策への「集中」を欠いた政党が、一体どこへ国を導くと言うのか。

T女史の言う「大衆」は今、漠然とではあるが深刻な問題としてこれを受け止め、前向きな方向での模索に入っている(と信じたい)。
世論調査の結果はその反映だろう。

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このページは、雄が2011年3月23日 14:23に書いたブログ記事です。

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