マルクスと科学掲示板ログの最近のブログ記事

 

既に指摘(予言)しておいた通り、当方からの繰り返しの具体的反論にも関わらず、出てくる話は「ワンパターン化された外国の例、それも主に昔話」ばかり。ホントにもう少し知恵が回らないものだろうか。

「民主集中制は悪」「民主集中制を採る共産党は独裁」との固定的先入観が、中身の具体的吟味抜きに結論として前提されているから、その内容を自分で考えることが無い。
反論されても反論されても、又同じフレーズの、スローガン的繰り返しのみ。

福島原発の危険性に関し、日本共産党の吉井英勝衆院議員や市民団体から、再三その危険性が指摘され申し入れを受けていたにも拘らず、「安全神話」の固定観 念の元、具体的な対策も事故を想定したマニュアルも、そもそもそれを自分で考えることさえ放棄して来た、歴代自民党政府、御用学者、東電、通産省などと、 考え方としては全く同じじゃないか。

 

このところ何度か、T女史から「『生臭い政治活動』を生きたマルクス」の姿が強調されている。

>まさしく生臭い実在こそ、科学的社会主義の対象です(No.83)
>まさしく実在社会の集約とも言う政治こそ科学的社会主義の対象です(No.87)
>マルクスは生臭い政治活動の中に存在(No.104 タイトル)
>生々しい政治の世界こそマルクスの生きた証です (No.104)

 

RE G48さん

>まさしく議会を形骸化と決めつける行為こそ
全社会組織を暴力的に転覆」という共産党宣言の前提ですね

G48さんに三つお聞きします。明確にお答えください。

 

1)、ロシア革命前夜の議会(ドゥーマ)が、どの程度「形骸化」されていなかったか?
どの程度国民全体の意思を反映した、普通選挙が行われていたか?

これを私に教えて下さい。

 

>ソ連の学者どもより自らの方が正しいと自負される老社会主義者は「私の論理に矛盾はない」とか、
>まさしく、矛盾の内在を必然とする科学的社会主義の立場からはお笑いのことを仰せになり、学生達の失笑を買ったのは今も学内では語りぐさです(No.97)。

その「老社会主義者(若しかして不破さんのことかと思うけど)」が何を言ったか分からないが、具体的に示して貰えれば、多分私ごときでもその解説くらいは出来ると思うので、是非具体的に示して欲しい。

ここでは一般論としての「矛盾」「絶対的真理と相対的真理」について………。

http://y-ok.com/philosophy/philosophy-1/contents-20.html

 

「矛盾」の無い「絶対的真理」と言うのは、幾らでも有り得ますよ。
例えば「ダイヤモンドと黒鉛は、どちらが硬いか?」と言う問題に対しては「ダイヤモンドが硬い」と言う解答しか有りません。
これ以外の、又これより深く進んだ真理は有り得ません。つまりこの問題に限って言えば、この回答は「絶対的真理」です。そこに矛盾も有りません。

 

MMさんとT女史から「民主集中制批判」が挙がっています。
二人が同一人物だと言う積りは有りませんが、批判の根拠となっているソースが、全く同じであろうことは、例えば「党首の祖父や叔父の問題点なども、共産党員が知るのは巷間の伝聞だということです」等の、二人共通の引用からも明らかです。

結局私がNo.91で指摘しておいたように、殆ど外国の例だけのパターン化された「実在的弊害」だけしか挙げられませんでした。
既にこの問題については水掛け論の様相を呈しているし、私もやや辟易気味なのですが、まとめて少し述べさせて貰います。

No.78でも述べたように、特に議院内閣制を採る日本において、民主集中制は国民に責任を負う政党として、本来必要不可欠な組織原則であり、元々そこに何の問題も無い筈なのです。

「『民主』的な過程を経て決定し、多数で決まったことは『集中』して実践する。異なる意見は保留出来る」。こんなことは規律の程度に差こそあれ、中学校の生徒会でも認められていることで、まして近代政党としては当たり前のことです。
だからこそ自民党なども、時に派閥抗争が激化して世論の批判を浴びた時など、「共産党の民主集中制が羨ましい」とのホンネが出るのです。

 

引き続きT女史から、結構な数の書き込みが寄せられています。
だがその内容は残念ながら、論理矛盾、自己矛盾が目立ち、ハッキリ言って支離滅裂としか言いようが無いものです。
必ずしも反共的だとも思われないし、マルクス、科学的社会主義への理解も感じられるだけに、特に「民主集中制」に関連しての論理的混乱を、惜しい!!、と思う次第です。
どこかのセクトに属しているのかな?

>民主集中制がいかなる専制的実在を生むかということを検証して
民主集中制の問題点を提示することは、まさしく科学的社会主義の手法です(No.83)

いやー、ワンサカ出てきましたね。
トピ上げには貢献したようだが、残念ながら内容はイマイチでした。

【説明責任と独善主義】

>まして代わりうるものを示してから批判非難しろというのは、大衆の感じる独善主義そのものです(No.72)
>居直っている場合でではないでしょう (No.70)

「民主集中制」を最初に、そして繰り返し非難・論難を仕掛けて来たのは、他ならぬT女史、あなたですよ
それを受けて私は………、

  1. 「幹部達が自分たちのご都合で情報を管理支配している」と、民主集中制を非難するなら、その弊害が実際何処に現れているか、具体的な例を示して欲しい。
  2. 民主集中制への批判・非難は自由だが、その場合それに代わる組織原則を提示すべきではないか

…と、非難された側としては当然の疑問を呈した訳だが、返って来た答えが上記「独善主義」「居直り」。

 

T女史の書き込みを拝見するに、批判される必要が何も無いことについて、無理に論難を仕掛けているような、要するに「藁人形論法」に見えてしょうがないんですけどね。

勿論T女史が、共産党や共産主義を嫌い、民主集中制に批判的だとしても、それはもうT女史の自由で結構なんですが、同じ嫌うにしても、もう少し根拠に基づいての嫌悪、批判・非難で有った方が、お互い建設的だと思う"今日この頃"。

……と言うことで、何点か指摘しておきましょう。

    

 

 

>搾取の無い社会?
そんなの想像できませんね。
ボスが先に上手いものを食ってたことは容易に想像される。
>原始時代を美化したのはユダヤ≒キリスト教の、あるいはギリシャ神話による観念が淵源でしょう。

No-49で私は……、

「この弁証法的見地で歴史を概括している史的唯物論からすれば、原始共産制社会から奴隷制社会への移行も、やはり発展なのであって、実際、奴隷制社会に先立つ原始共産制社会が、奴隷制や封建制と比較してさえ、『牧歌的』で有ったなどとは想定していません」
「そう言う意味で、T女史による原始共同体のスケッチそのものは、私も同意する点が有ります」

…と、書いておきました。
マルクスにしてもエンゲルスにしても、「原始時代を美化」している訳では決してないし、
Nさんご指摘の「ボス」「暴力」「共同体と戦争」等を否定している訳でも、全く有りません。
あくまでも社会科学的な分析・呼称です(マルクスは当初「アジア的」との言い方をしていたようです)。

「マルクスと科学、現代」と言うトピですから、ここで後付けながら『搾取』について、社会科学事典(新日本出版社)から引用しておきます。

>史的唯物論の原点とも言うべき 原始共同体なるものが

マルクスとエンゲルスの共著『共産党宣言』の中で、当初彼らは、「すべてこ れまでの社会の歴史は階級闘争の歴史である」と述べた訳ですが、その後の研究によって、有史以前に階級の無い「原始共同体」と呼ばれる社会状態が有ったこ とが判明、その知見を加味してエンゲルスが、「これまでのすペての歴史は、原始状態を別にすれば、階級闘争の歴史であった」と修正、定式化するようになっ た訳です。

ですから原始共同体を特に、「史的唯物論の原点」と言う訳では有りません。
マルクスとエンゲルスは目の前の資本主義の研究から、そこに「階級闘争」を見出し、その知見で人間の歴史を俯瞰し、「すべてこれまでの社会の歴史は階級闘争の歴史である」との理解に達した訳で、史的唯物論の原点と言うなら、「資本主義」と言うべきでしょう。
マルクスの『資本論』も資本主義分析の書で有って、社会主義の解説書では有りませんから。

 

>それと、ごめんなさいHPを読破しようと思いましたがボリュームがあるのと、仕方ないとは言え…、

確かに半端じゃないボリュームですね。
読む方も大変でしょうが、あれをデジタルテキストに起こした私も中々大変でした。
出来ましたら「弁証法的唯物論」の項だけでも読破して下さい。多分結構「洗脳」されると思いますよ。

私は特に、ことば、概念の成立過程と認識の関係に興味を引かれました。
コンテンツで言えば、No-17、No-18辺りです。

>そして日本でも何故か独立琉球国を領有した歴史を黙殺して「沖縄返還」運動なるものを指導しました

これについては、どう云う意図から発せられたコメントか、理解し難いし多いに疑問です。

民主集中制

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どうも「民主集中制」が人気が無いですね。

>そのうえ醜悪なのはその共産党が民主集中制という情報の管理支配操作を通じて独裁的指導部が出現して、彼らの思うままの社会へと突き進むことです。(No.10 fukudaさん)
>まさしく共産党の主張する民主集中制度そのものです。(No.19 tamamiさん)

私は民族問題に詳しくなく(何が詳しいとか、と言うことも有りませんが)、具体的に立ち入ってコメント出来ないのですが………、

>コソボやチェチェンの民族問題は、明らかに社会主義時代の民族問題の置き土産です。(No.21 Fさん)

>日共などがマルクスの名前を原則使えないのは、マルクスのままでは現代との時間的齟齬が生じていると言うことを認めなければならないからですね。

マルクスやエンゲルスが如何に卓越した思想家であったとしても、やはり時代の子である、と言う意味でなら、上記主張は幾分かの妥当性を持つと思います。
しかし日本共産党が「マルクス・レーニン主義」の呼称を止め、科学的社会主義の呼称を使うようになった意味は、そんな矮小化された問題じゃないでしょう。

確かにソ連、東欧の「社会主義」はことごとく失敗に終わっていますね。

と言うよりも日本共産党によれば、スターリン以降、あれは社会主義からの逸脱だったと言う見解ですね。要するに社会主義では無かったと。
こ れは後出しジャンケンではなく、ソ連共産党からの内部干渉と激しい攻撃を受けて、長年関係を断絶していた日本共産党としての、ソ連崩壊の遥か前からの実感 だったし、実際崩壊した時点で「巨悪の崩壊をもろ手を挙げて」歓迎し、その後流出・公開された秘密文書などの深刻な分析から出た見解でした。

>全社会組織を暴力的に転覆することによってのみ・・・・
という社会主義革命を暴力革命と提起したマルクスは死にました(No.3)

確かにこんな、「小児病的マルクス主義」は死んだし、死んでもらわなければ困る。
し かし今時、特に日本のように議会制度(1票の格差や、小選挙区制での制約、資本側からの政治献金や選挙動員等の問題は有るとしても)が確立されている時、 「暴力的に転覆することによってのみ……」革命が成し遂げられる等と、ナンセンスな主張しているのは、かっての一部「極左」集団だけだし、それを反共産的 宣伝材料につかっている自民党やマスコミだけですよ。アッ、今度は民主党も使うかな。
その影響は残念ながら大きいが。

社会主義体制以外の選択

社会主義を否定している人、反共主義の人は大勢います。社会主義を認めている人よりも今の所はるかに多いでしょう、残念ながら。
しかし、「マルクスは死んだ」「マルクスは古い」と言われ続けて久しい訳で、マルクスの社会主義理論は、いまだになお繰り返し否定され、「死に」続けています。つまり依然として無視出来ないし、「死に切れていない」と言えます。
社会主義を否定することは勿論自由です。しかしそういう人に聞きたいと思うのは、では資本主義の将来についてどう考えているか、と言うことです。

日本の(或いは世界のでも良いですが)未来について、その選択肢は、社会主義を含めて次の3つしか無い筈です(その他に有るとしたら、どなたでも提示して下さい)。

  1. 資本主義がこのまま未来永劫続く。
  2. 社会主義に移行する。
  3. 資本主義、社会主義のどちらでもない、第三の体制を想定する。

 

革命と上部構造、下部構造

読者からの投稿

>上部構造がくつがえるときを革命だとすれば.........、

との投稿に対しての、所感です。
上記の表現が間違っていると言うのでは有りませんが、やや漠然としているような気がします。何がくつがえる時に革命と言うのか。
余計な差しで口ですが、少し具体的な話をさせて頂こうと思います。

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