言葉と概念-1

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>そもそも本当に人間は頭の中で「言葉による概念を駆使」して考えているのか、実証した例はあるのでしょうか?【カニクイザルと概念的思考 投稿者:mh】

>自分の頭の中だけのこととて実証はできませんが、一応言葉も思考のための道具にはなっていると思います。しかし、「人は言葉でしか考えられない」 というような極端な説もよく聞くのですが、私は嘘だと思いますね。【言葉を使わない思考 投稿者:dm】

 

私は「人は言葉でしか考えられない」と言う「極端な説」派です。
dmさんも述べておられるように、実証は難しいのですが、と言うのはそもそも「言葉を使わない思考」を考えるにも言葉が必要だし、説明するにも必ず言葉を使うしかないので.........。
と言うことで傍証に過ぎませんが、幾つか。

○ 以前(1年位前かな)NHKの『英語でしゃべらナイト』と言う番組を、見るともなしに見ていて、興味深い話に引き込まれました。
アメリカ人には「かたこり」が無いのだそうですね。「かたこり」と言う語が彼の国に無い為、肩こりを意識することが無いのだそうです。
アメリカ人のレギュラー出演者、パックンが言っていました。

本当かどうか、実際のところ私には分かりません。しかし多いに有り得ることだと思いながら聞いたことでした。
欧米の人達は「わび」「さび」と言う感情が無い。理解が難しい、とはよく聞くことで、それもどの程度なのか比較も難しいことですが、やはりその言葉・語が無い時、それが表わす現象自体を意識できない、と言うのは、私には多いに納得できることです。

虹を見て7色に見える人、6色、2色に見る人も有るようで、これもそう言う言語体系に依存しているのだろうし、聴覚障害者には手話を通して音声言語とは全く違う認識世界が有るとも聞きます。

或いはいわゆる野生児(Feral child)での事例でも、暑さや寒さを感じないなど感覚機能が低下している と言う観察も有るようです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E7%94%9F%E5%85%90
勿論これは環境への適応の結果、でも有るのでしょうが、その感覚を示す言葉が無い時、感覚そのものを意識しない、と解釈しようと思えば出来ないことでは有りません。

 

言葉、語と言うのはもともと、全て連続している現象を、共通の要素に基づいて範囲を区切り(シニフィエ)、そこに標識としての音なり身振りなりの記号(シニフィアン)を与えたものでしょう。
そのシニフィアンが無い時、シニフィエとしての対象が意識されない、と言うことは多いに有り得ることです。つまり人は言葉を媒介して意識する、と。
その時その言葉を、意識に顕在化しているか、いないかは別として。

 

○ これもTVがらみで恐縮ですが、私の経験から.........、
【NHKハイビジョン特集"天才"チンパンジー親子 アイとアユム】。
京大霊長類研究所での、アイとアユムを中心とした訓練風景の取材記録です

この中でモニタにランダムに表示される、1から9まで、9個の数字をその順番に従ってタッチすると言う訓練です。
ただ単に順を追って触れば良い、と言うことではなくて、数字が表示されるのは1秒だけ。後は数字が消されて四角い位置情報だけが残ります。つまり触る為には、数字を順番に理解できることと同時に、1秒の間に9個の数字を、その位置と共に覚える必要が有ります。

アイの方だったかアユムだったか覚えていないのですが、兎も角最終的にこの9個の数字を的確に押さえることができました。それ程の苦労も無さそうにです。
司会者のナレーションに促されて私もやってみました。しかし幾らやっても私にはせいぜい4個留まりでした。

気が付いたのですが、私が数字を追う時、必ず「イチ」「ニ」「サン」と言葉にして追って行きます。これでは1秒の間に追えるのがせいぜい4個まで、と言うことです。
勿論声を出して数えるとか、そもそも意識さえもしていないのですが、やはりどうしてもそこに「言葉」が介在します。幾らやっても私には4個が限度でした。

所長の松沢哲郎博士が言っていましたが、チンパンジーはおそらく写真でも撮るように、感覚に受け止めるのだろう。
人間もかってそう言う「感性的認識」能力を持っていたのだろうが、言葉を得た代わりとしてその感性能力を失ったのではないだろうか。と言うことでした。

私もこの松沢博士の言と同じ説です。
アスペルガー症候群の中に、こう言う能力を示す人がいるようですね。

 

○ その他言い出せばキリがないのですが、例えば何も分からぬ赤ん坊が、言葉を覚えるに従って思考も発達して行く(ように見える)こと。そしてその母語の言語体系で考えるらしいこと。
更にはそもそも概念の成立過程などを考える時、私には、『言葉は思考の道具』、と言うより、人間にとって言葉は「思考と一体、思考そのもの」と言える程のものだと思っています。

しかし最初に述べたように、「言葉が無い状況での思考」と言うことを「思考」することが非常に難しく(そこにも言葉が介在するので)、まあこれはあくまでも私の「主観的思考」と言うことで。

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このページは、雄が2009年3月29日 14:47に書いたブログ記事です。

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