神と科学は共存できるか-230

| コメント(0) | トラックバック(0)

RE kaさん

>>「物自体」は既に100年も前に、観念論、唯物論の両陣営から完膚なきまでに論駁されていて
>よろしければソースください

カントの「物自体」は、後に二つに区分けされることになる不可知論のうちの、その一つの主張です。
不可知論にしても、その反論にしてもそれぞれの哲学的主張であって、神の実在と同じく賛否両方ありますので、例えば自然科学における、「ニュートリノ振動が 『実証』された」と言う形で決着が付く訳では有りません。ですから特に客観的なソースと言うものがある訳では有りません。
「完膚なきまでに論駁されている」と言うのは、私はそう思っている、と言うことです。現実に不可知論は広範に生き残っていますから、そうでない人たちも大勢居るということですね。

    

 

nnさんからもNo-228で、

>「不可知であるモノが可知であるかのように断定した言明」は、科学の側に立って考えても問題あるんじゃないかな?

と言うご批判を頂いています。「私は不可知論的立場はとらない」とだけお答えしておきます。

カッパにしろ妖精にしろ、或いは神やその奇跡にしろ、若し実在すると言うことであれば、そう主張する人が、そしてそれを必要とする人が証明してくれ、俺に見せてくれ、と言うだけのことです。
無いものを「無い」と明確に証明できない(これって実は結構難しい)ことを持って不可知だと言うことになれば、空飛ぶティーポットであろうがスパゲッティモンスターであろうが、カッパ、妖精、座敷わらし、砂掛け婆あ、等など、際限が有りません。

nn さんはNo-229で、「誰かが妖精を体験したと主張するのであれば、とりあえずそれは『事実なのだろう』と考え」ると述べておられますが、体験そのものの真偽も自己申告の域を出ない訳で、仮に私が「スパゲッティモンスターがティーポットにまたがって、空を飛んでいた」と主張したら、取りあえず事実なのだろうと考え、真偽を保留し、結論が出るまで不可知だとするでしょうか? 不可知論を容認する限り、こんなのおそらく結論はでませんよ。

と言うことでkaさんに「権威あるソース」を提供することは出来ませんが、私の拙い知識の範囲内で、私の哲学的立場に沿った解説で勘弁してください。私の哲学的立場とは、唯物弁証法の立場です。

    

 

人間は意識の中に、客観世界を正しく認識しうるか否か?と言う問題に対して、「認識できない」或いは「全ては認識できない」とする哲学的主張を不可知論と言う訳です。大雑把に言えば。

「認識できない」とする代表がイギリスのヒュームです。
ヒュームにあっては世界の認識可能性が全面的に否定されます。意識がその外の何かを正しく反映しているかどうか知りようが無いし、そもそもそう言う何かが意識の外に実在するかどうかさえ、知りようが無いと言うことです。詳細は割愛します。

「全ては認識できない」とする代表がドイツ古典哲学のカントです。
カントはヒュームと違って、意識の外に何かが存在することは承認され前提されます。
しかし人間が感覚器官などの認識装置を通して知り得るのは現象だけで、その奥に有る客観的実在そのもの、すなわち「物自体」は原理上認識できない、と主張されます。
つまり人間は対象が示す現象や性質は汲みつくすことが出来るけれども、物自体には永遠に到達できない、と言うことです。
ここでカントは不可知論に陥ります。

「物自体」はカントに於ける、観念論と唯物論と言う、相対立する哲学的傾向の調停・妥協の産物だとも言えます。従って破綻します。

カントの不可知論に対し、先ず観念論の立場から偉大なヘーゲルが反駁します。
ヘーゲルの批判の要旨は次のようなものです。

  • 現象と物自体は切り離せない。我々が現象を知るということは、我々との関係においてそのように現象する「物自体」を知ることに他ならない。
    現象を全て知るならば、物自体の全ての諸性質・属性を知ったことになる、と先ず結論します。
  • 現象を全て知り尽くし、属性を全て汲みつくした後に、なおかつ残ると言う「物自体」とはどんなものか? それは単にそのものが我々の意識の外に存在していると言う、抽象的な事実だけではないか。と言う訳です。
    正にその通りです。例えばリンゴのリンゴたる全ての現象・属性を汲みつくした後に残る、リンゴの「物自体」と、同じくミカンの全ての現象・属性を汲みつくした後に残る、ミカン の「物自体」と、その違いはどこに有るのか? 若しどこか違いを見出せるとしたら、それは未だ汲み尽くすべき現象・属性が残っていることであって、カント の言う「物自体」とは言えない。
    人間、ナメクジ、水、電子など何でも、そのものをそのものたらしめている、全ての現象・属性を全て汲み尽し、剥ぎ取った後に残る、それぞれの「物自体」の間には何の違いも無い。認識すべきどのような具体的内容も残っていない筈だ。
  • カントが絶対に認識不可能だとする「物自体」なるものは、ただ存在すると言う抽象的事実以外のどのような意味も持たない。ヘーゲルの主張はこう言うことでしょう。
  • 元々カントに於いては「物自体」が意識の外に存在することは、最初から承認・前提されている訳で、「認識不可能な物自体」と言う彼の主張はますます無意味と言うことになります。

要約するならば、現象から絶対的に区別される「物自体」なるものは、頭の中で作り上げられた抽象物に過ぎず、現実世界に存在するものではない。なんら考慮の対象になるものでは無い、と言うことです。
流石にヘーゲル、見事な批判だと私は思います。
どなたか、「物自体」の信奉者の方、一度ヘーゲルに再反論してみては如何ですか。

ヘーゲルのような徹底した観念論者からすれば、カントの中途半端が我慢ならなかったのでしょう。ヘーゲルの批判はカントの主に観念論的部分に向けられます。
その結果、ヘーゲルの批判は唯物論の主張すれすれのものになります。
「ある観念論者が他の観念論者の観念論の基礎を批判するとき、そのことによって勝利するのは常に唯物論である」と言うことです。

唯物論の側からヘーゲルに付け加えることは、一つしか有りません。それは「実践」です。
現象や性質を理解するだけでなく、若し人間が、物そのものを作ることが出来たら、カントの言う「物自体」に到達することになる。後に認識不可能な「物自体」などどこにも残らない。と言うことです。

唯物論からの不可知論への批判は、ヒューム型不可知論批判を含め、主にエンゲルスの仕事です。
エンゲルスはアリザリンと言う染料を例に出して、「物自体」を批判しています。
この染料はかって、あかね草という植物の根からしか取れなかったのですが、有機化学の発達によってアリザリンの分子構造が分かり、その認識に基づいてコールタールなど、安い原料から大量に作ることが出来るようになりました。
この時、アリザリンという物質に、人間が認識できる現象と認識不可能とされるアリザリン自体が有る、などと言う主張は無意味になります。
コールタールから作り出したアリザリンは、あかね草の根から取ったアリザリンと全く同じものです。それを作り出したとき、人間にとって原理的に到達できないアリザリン自体が未だ残っているなどと言う主張は、もう成り立たないでしょう。

昆布のうまみがグルタミン酸ナトリウムと言う物質であることを突き止め、大豆や小麦粉など、安い原料から同じものを作るシステムを構築し、「味の素」として製品化した鈴木三郎助は、グルタミン酸ナトリウム自体に到達できた人間だと言えるでしょう。
後にグルタミン酸ナトリウムの「物自体」などと言うものは残っていません。

エンゲルスの時代と比較して、格段に進歩している現代の有機化学工業は、日々カントの「物自体」への反証になっていると思います。

なお、No-218で私は、NOMAがヒューム型不可知論じゃないか、と書きました。間違っていましたね。
明らかにカント型不可知論でした。訂正します。

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://y-ok.com/mt-tb.cgi/193

コメントする

このブログ記事について

このページは、雄が2008年1月26日 09:39に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「神と科学は共存できるか-225」です。

次のブログ記事は「神と科学は共存できるか-273」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

最近のブログ記事