このところ何度か、T女史から「『生臭い政治活動』を生きたマルクス」の姿が強調されている。
>まさしく生臭い実在こそ、科学的社会主義の対象です(No.83)
>まさしく実在社会の集約とも言う政治こそ科学的社会主義の対象です(No.87)
>マルクスは生臭い政治活動の中に存在(No.104 タイトル)
>生々しい政治の世界こそマルクスの生きた証です (No.104)
おそらくNo.79に於ける、私の………、
>>このトピの題名に有るように、元々、科学的社会主義、マルクス哲学などを現代と絡めて議論したいと思い、このトピを建ち挙げたのだが、実際は意に反し、生臭い政治論等が中心に展開している。
……この書き込みに反応されてのことだと思う。
「生臭い実在」「実在社会の集約とも言う政治」の重要性を強調すること自体、私も異論は有りません。マルクスの哲学は弁証法的唯物論であり、客観的実在の重視はマルクスフェチの我々にとって、言わば「いろはのい」で有る訳ですからね。
ただ、T女史がこの「生臭い実在」を強調すればするほど、どうしてもそこに違和感と言うか、指摘せざるを得ないことが出て来るんですよね。三つ程。
1)、「実在」の重要性は言うまでも無いことですが、それを強調することで逆に、些かでも「理論」の軽視に繋がってのことだとしたら、それは間違いです。
以下の書き込みなどを読むにつけ、その懸念が拭えません。
>論理を論理で検証して言祝ぐ事を否定します(No.83)
>マルクス的立場から言うと 理論で理論を検証するなどと言うのは 教条主義の典型だと言うことです(No.88)
実在は常に個別・特殊です。
「論理を論理で……言祝ぐ」空理空論は否定されるべきですが、この個別・特殊な客観的実在から、帰納などの手法を使い、一般的・普遍的法則を引きだすことが出来るのは、言葉を持つ人間だけの能力です。
そのお手本の一人がマルクスで有る訳で、これを軽視してはいけません。
2)、上記、1と関連しますが、理屈(理論)で押し込まれ、解答不能に陥ったことに対しての、言わば開き直りとしての「実在」強調では無い。……ことを祈っています。
なんか冒頭の引用を読むと、そんな感じがしないでもないので。
3)、ここが一番問題なのですが、「生臭い実在」の強調は多いに結構だとして、だからこそ私は一連の「民主集中制」議論に関連して、「民主集中制は悪だ」との先入観で実在的対象を一色に染め上げてしまう、T女史の議論の進め方を繰り返し批判した訳です。
ス ターリンの、粛清を伴う国内の官僚主義的支配と大国主義的対外干渉主義、毛沢東の文革における野蛮な権力闘争と、特に日本共産党に対する干渉、或いは金王 朝の極度な個人崇拝を伴う国内の独裁体制と、冒険主義的瀬戸際外交等、実在は常に、共通点を持ちながらも同時にそれぞれ個別具体的な違いが有る訳です。
正にその「生臭い実在」の具体的検証をこそ優先すべきなのであって、逆に「民主集中制」の固定観念優先で実在を一色に染め上げてしまっては、実在の生臭さはどこかに飛んでしまいます。
「生臭い実在」を強調すればする程、T女史の自己矛盾が深まる。一連の「民主集中制」議論はそう言う経過だったと、私は見ている訳です。
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