改めて、民主集中制

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No.78でも述べたように、特に議院内閣制を採る日本において、民主集中制は国民に責任を負う政党として、本来必要不可欠な組織原則であり、元々そこに何の問題も無い筈なのです。

「『民主』的な過程を経て決定し、多数で決まったことは『集中』して実践する。異なる意見は保留出来る」。こんなことは規律の程度に差こそあれ、中学校の生徒会でも認められていることで、まして近代政党としては当たり前のことです。
だからこそ自民党なども、時に派閥抗争が激化して世論の批判を浴びた時など、「共産党の民主集中制が羨ましい」とのホンネが出るのです。

 

元々「民主集中制批判」は、共産党躍進時等に流される一連の反共宣伝の、一つのバリエーションに過ぎません。
無理やりソ連や中国、北朝鮮などと結び付け、同時に日本共産党の党内の組織原則に過ぎないものを、あえて国の政治制度と混同させ、イメージダウンを狙う為に保守勢力から流されているものです。
一般の国民からすれば、だから借り物の「理論」に過ぎないのです。

本来、当たり前で問題の無い原則だからこそ、そして借り物の理論だからこそ、改めて「その弊害」「替わり得る制度」を質されても解答不能に陥るのです。これはT女史に限ったことでは有りません。
嘘だと思ったら誰でもいい、この二つに答えて貰えば分かる。
「答え」はパターン化されていて、スターリンや毛沢東等、外国の例ばかり。

スターリンや毛沢東の専制は「民主集中制」の為などではなく、逆にそれが機能していなかった、或いは元々そんな組織原則など始めから無かった為です。
スターリンは国内圧政の官僚主義と外国への覇権と干渉。毛沢東の文革は党内の権力闘争に過ぎません。元々そこに民主集中制の「民主」など、かけらも有りません。

旧ソ連共産党や文革当時の中国共産党から、激しい内部干渉と攻撃を受け、厳しい論争と関係断絶、自主独立路線を確立している日本共産党だからこそ言える分析でしょう。
ソ連共産党の崩壊を、「巨悪の崩壊」と「もろ手を挙げて歓迎」し、中国共産党とは新しい指導部のもと、かっての干渉の誤りを認めさせ、現在は関係を復活しています。

スターリンの圧政と毛沢東の文革。それぞれ異なる問題をただ単純に「民主集中制」と結び付けて理解した積りになっても、それは二重・三重の意味で思考的な弊害としか言えません。
専制と独裁をなんでも「民主集中制」と結び付けて非難する人は、ここに何故ヒトラーを挙げないのか? ムッソリーニを挙げないのか? 或いは日本の軍国主義を。

民主主義と戦争反対を主張する時に、命を掛けなければならなかった戦前・戦中、実際に命を賭してそれを主張し、多喜二始め多くの拷問死・獄死、非転向での獄中生活を送った日本共産党にとって、民主集中制の「民主」は党の命とも言えることです。

命を掛けなければ主張できなかった民主主義を、実際に命を賭して主張した日本共産党が、将来政権をとり自分達の主張を実現できるようになった時、命を掛けて守ったその民主主義を投げ捨て、専制と独裁の政治体制を採るかどうか、考えるまでも無いでしょう。

「民主集中制批判」は、丁寧に反論すれば、逆に民主集中制への理解が深まる問題です。
だから批判・非難も含め、(時間の許す範囲で)歓迎すべきことでは有ります。

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このページは、雄が2011年3月29日 14:25に書いたブログ記事です。

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