神と科学は共存できるか-209

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   >妖精について知りたければ「妖精学者」に聞くのはアタリマエなのではにゃーのか?(189 tn氏)
>ぶっちゃけ、私がカッパについて知りたければ「自称カッパ学者」に聞きますね。多分。(202 ah氏)

それはそうでしょうね。私もそうすると思います。あくまで空想上の「妖精学」、「カッパ学」として。水木シゲルに期待するのも、その域をでないでしょう。
ドーキンスもそう言った「.........学」まで否定したり、攻撃しているものではないと思いますよ。

しかし例えばその「自称カッパ学者」が、カッパは実在するものだと主張し、皿の水が乾くと死ぬメカニズムを「科学的に」証明し、その「事実」を国語の民話 としてでなく理科の教科書に掲載することを要求し、カッパの棲息環境を守る為に河川の改修や護岸工事に反対し(川をコンクリートで固めることの是非につい て、ここでは置いておくとして)、その工事の責任者を殺害したり工事事務所に放火したとしたら.........、

アメリカの一部で(或いはイスラムの一部で、又はオウムで)、宗教・神の名で行われていることは、事情は違っても概ねこう言ったことではないでしょうか。それもはるかに大掛かりに。

    

 

   神の実在を主張し、そのなせる業や奇跡を証明しようとし、創造論を教科書に掲載させることを求め、少なくとも進化論と併記させようとし、一部の(でも結構 な数の)家庭では子供に学校教育を受けさせることを拒否して自宅で親が「教育」し、人工中絶に反対して医院を焼いたり医師を殺害したり。

ドーキンスが批判しているのは、こう言った「神の実在性とその実際の弊害」に対してだと思います。
神の実在を信じるか信じないかは個人の自由だとして、ドーキンスが強調しているのは「宗教に対する過剰な敬意」への批判であり、その政治的な利用、弊害でしょう。特にその弊害が顕著なアメリカを主に念頭に置いて。

「宗教がまっとうな一つの学問分野であり、そのなかでは自分が専門家だと主張してもいいという考え方は、不問に付すわけにはいかないものである。」31 ページ に有るこのフレーズは、アインシュタインの神に付いての態度を吟味する過程で述べられているものですが、わざわざ「学問分野」に傍点が付いています。
私は、神の実在を前提とし、神を通して世界を解釈する、そう言う宗教教義を、「科学的な学問分野」として認める訳にはゆかないと言う、無神論者としてのドーキンスの意思表示として読みましたが。 

「想像上の産物であることが確定的である事象」について(203 nnさん)、想像上の問題として研究すること、聖書を優れた文学的遺産として、神やその御技を空想物語として「学問」する分には、ドーキンスもこんな本を書く必要は無かったでしょう。

無心論者である私には、一つひとつのフレーズは別として、ドーキンスの主張は全体として全く違和感を感じません。宗教の起源やその進化にも、淘汰の理論を強く持ち込んで解釈しようとする点などについては、些か辟易するところも有りましたが。
NOMAに関しても、若し科学が神の実在を示唆するような知見を発見したとして、宗教の側で「それは教導権が違うから」との理由で、科学を無視することは 絶対無い筈だ、とのドーキンスの主張は痛く納得できるものです。つまりNOMAは、反論不能で圧倒的に押し寄せてくる科学に対する宗教側の恐れに過ぎ無い のです。

「神は妄想である」ほど感情的でなく、論理的でシンプルな論調としては「数学者の無神論」の方が抵抗が無いかも知れません。
ttp://www.seidosha.co.jp/index.php?%BF%F4%B3%D8%BC%D4%A4%CE%CC%B5%BF%C0%CF%C0

私は、宗教・神とはフォイエルバッハが喝破したように、「現実世界の裏返しが、観念に反映したもの」だと思っています。
病弱な人が神に祈るのは健康な体でしょうし、貧困で一家心中する人が行こうと願う天国は、お金の心配の無い世界でしょう。

現実世界に精神的な基盤を持つ宗教を、現実世界と切り離して幾ら非難しても宗教をなくすことは出来ないし、思想・信条の自由は守られるべきだとは思います。
同時に同じ理由で無心論者の主張・立場も、無条件で擁護されるべきでしょう。
その辺の基準が特にアメリカなどでは、宗教に過剰な敬意が払われすぎていると、ドーキンスは言っているのでしょうね。

私は宗教に関して、現実の一番の問題は、宗教の政治利用、政教一致だと思っています。
日本でも靖国の問題や、某巨大教団と政党の関係など、多いに議論になるべきだと思っています。
政教分離と言っても現実にイスラム国家などでは大変だ、と言うことは重々承知していますが。

政治利用と言う点で、一神教と多神教では事情が随分異なるんじゃないか、今回「神は妄想である」などを読んでそのことを自分なりに気が付かされました。

一神教の神(或いは教祖様、先生など)は、天国でもその教団内でも権力を一手に握っている訳ですが、地上の為政者がその権威付けに宗教を利用する場合でも、その方が都合が良いのではないかと思う訳です。
日本が宗教的に非常に雑多であり、律儀な信仰者からすれば誠に節度の無いバチ当たりの国民性なのは、仏教にしろ神教にしろ、日本の宗教がおそらく多神教のせいではないかと思っています。

仏教の教祖は本来お釈迦様と言うことだと私は考えますが、日本の寺院で釈迦如来を本尊としているところがどの程度有るだろうか?
多分観音様を本尊としているところが一番多いように、私には感じますが、弥勒菩薩であったり、日光菩薩であったり月光菩薩であったり、或いは地蔵様であったりと。
大仏様もそもそも大きいというだけで何の仏様なのか、私には分かりません。

神教も同じことで、必ずしも天照大神だけが幅を利かせている訳ではなく、様々な神様が、それも古事記などを読む限りでは人間界との境界が非常に曖昧なままおわします。その点ではギリシャ神話と共通性を感じています。
「常陸国風土記」の中で、マタチという人間が、開墾作業を邪魔するヤツの神(蛇)を追い払って、社に封じ込めたという寓話が出て来ますが、こう言ったバチ当たりな話は、一神教では到底考えられないことでしょうね。

多神教においては宗教的な権力が分散している訳で、地上の為政者が権威付けに利用しようとしてもなかなか難しかったのではないか。
逆に地上の権力者によって、特定の「神・仏」に宗教的権威付けがされ難かったのではないかと思っているところです。

392年、ローマ皇帝テオドシウスが、それまで迫害していたキリスト教を国教化したのも、神聖ローマ帝国として自分の権威付けに利用できると踏んだのだろうし、その後の歴史の中で、天上・地上、合い携えて権威の高め合いをして来たのだろうと思います。

宗教的にルーズな国民性で本当に良かったと、私個人は思っているところです。

    

 

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このページは、雄が2008年1月20日 09:07に書いたブログ記事です。

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