元々は「人間機械論」へのコメントから始まった『連続と飛躍』で、最初にこう書いたことを覚えています(当時のログは既に容量オーバーになっているのか、探したけど見つかりませんでした)。
「『連続』は若しかしたら大方の了解が得られるかも知れない。しかし『飛躍』の部分はおそらくこちらの常連さんには同意して頂けない。方々から石をぶつけられるだろう」
……と。
事実、その後そう言う経過を辿り、現在もほぼ同じ状況です。
ですから「見解の相違」は相違で、想定の範囲内だしそれで結構なのですが、ただどうも私の論旨を理解してもらった上での意見の違い、と言うことでは無く、 曲げて理解した上での「見解の相違」が有るように、何時も感じるんですよね。と言うより、殆ど読んでもらえていないような気さえする。少々ゲンナリしますね。
勿論私の書き方の問題も、多いに有るのでしょうが。
RE mnさん, dmさん, taさん, ahさん、他
【直立二足歩行、飛躍】など
>「『直立』があれば道具、言語、脳が発達する」 ここを皆さんが疑問視するのです。(mnさん)
>>雄さんが言っているのは「『直立』がなければ道具、言語、脳は発達しない」だと思いますが(匿名希・望さん)
>そうとも取れますが、基本的には同じのはず・・・かと。(mnさん)
全然違いますよ。充分条件と必要条件の乱暴な混同です。こんな誤読で「疑問視」されてはたまりません。
mnさんは......、
「何種類かの元素が無かったら、生命は誕生しなかった」と、「何種類かの元素が有れば、生命が誕生する」が、「基本的には同じのはず」...だと主張するのですか?
私はそんな粗雑で乱暴な議論をしていません。
「直立二足歩行により、道具作製と、音声言語の可能性が広がり(或いは前提となり).........、増大した脳を真下から支えることが出来た」と言っている筈です。これも何度書いているか分かりません。
そもそも、道具と言語、それと脳の下支えは重要度に置いてレベルがまるで違います。
最初に「下支え」について.........、
>実のところヒトだって四つん這いで長くいられないわけじゃあない。直立しないとヒト並の重さの脳を持てないと言うのは本当でしょうか?(dmさん)
ヒトが四つん這いで長い間頭を支えられるかどうか?、正直それは私にも分かりません。決着が付く程に長い時間、実験をした人はいませんからね
しかし人間の脳は物凄く大食いの器官です。体重のわずか2%の重さで全体の20%のエネルギーを消費するそうです。だから若しヒトが肉食を覚えなかったら この脳増大は有り得なかったらしいのですが、その上更に常時四足で、重力に抗して頭を持ち上げるだけの骨格と筋肉、そしてエネルギーを余分に必要としたら、自然選択上結構な抵抗にはなったでしょうね。進化はコストとベネフィットの行って来いですから。
骨格も体型もまるで違うゾウとの比較は、意味が無いと思います。
本題に戻って.........、
>文明化というものの謎については、現代人と同種のヒトが誕生した時からいわゆる農耕革命くらいまでの時期に焦点が当たっているというのが、現代進化人類学の潮流だと思いますよ。(中略)
>だから飛躍というものがもしあるとすればこの時期であって、それより何百万年も前の直立二足歩行の始まりを同列に論じるのは違和感があります。(dmさん)
人類史、或いは文化人類史と言った枠の中での考察ならそれも妥当だと思います。ヒトの歴史の中にも様々な画期・飛躍が有る訳ですからね。
しかし「生物としての連続と社会への飛躍」と言う、私の問題意識からすれば、最初からその枠組みに納まりません。
そもそもこれでは、ゴリラやチンプとの比較、或いは他の生物との連続が視野に入ってきません。ましてdmさん自身片方で、ゾウやリス、カンガルーなどを引き合いに出して、道具取り扱いの可否を論じているのですからなおさらのことです。
今の人間とチンプを比較してその差が何処から来たか?を考えるには、結局共通祖先から分岐した時点に遡って、その後のチンプには無くてヒトにだけ有った出来事を探すしかないでしょう。その最初で最大のエポックが直立二足歩行で有る訳です。
生物の誕生と進化との比較で見ると、分かり易いかも。
生物進化の歴史にも色々な画期・飛躍が有ります。シアノバクテリアによる酸素の放出と細胞内共生、カンブリア爆発、恐竜絶滅等など。これはこれで重要な研究対象でしょう。
しかしそれもこれも全ての前提は、原始海洋の中でのたった一個の自己複製分子の誕生だったでしょう。
このこと自体は生物学的出来ごとではなく、純粋に化学的な現象でした。RNAもDNAも、或いはアミノ酸もそれ自体は単なる化学物質ですからね。
そしてその、目にも見えないたった一個の自己複製分子の誕生が、それまでの地球に存在しなかった「生物」と言う新しいステージ・階層を形成した訳です。
私なりに言うならば「化学から生物への飛躍」です。
同じように、人間の文明や社会への飛躍も、解剖学的には微々たる直立二足歩行が全ての前提だったと言うことです。これ抜きにその後は語れない。
それ自体はホンの小さな最初の一歩が、やはり人間(社会)への大きな飛躍だった、と言うのが私の一貫した見解です。
...と言うことでその、直立二足歩行に進みます。
【直立二足歩行と道具、言語】
>ヒトが作ってきたような文明を作れるための必要条件は何かと言えば、道具を扱えることと知識の伝達と継承ができることの2つは間違いなく必要で しょう。直立二足歩行それ自体は別に必要とは思えませんし、「出発点が直立二足歩行だった」というのも別にそれ自体が必要ということではないはずです。(dmさん)
本当ですか?、単なるdmさんの「印象」で無ければいいが、と懸念します。
直立二足歩行により前肢が歩行から解放され、手として、道具使用・作製の可能性が広がり、それに特化・習熟出来たこと。それは又それを司る中枢神経を鍛えることになった。それぞれフィードバックを交代しながら、それは一体のものですよ。直立二足歩行無しにその後の経過は有り得ません。
道具は扱えることだけでなく、作ること自体に大きな意義が有ります。
道具を作ると言うことは、それを使う時のことを必ず意識します。目の前の反射的な感覚を超えた、未来の抽象的認識です。
或いは石器を作る時、目の前の石が固いと言う、現に存在する性質を感覚するだけでなく、同時に、鋭さと言う、未だそこに無い性質まで認識する能力を必要とします。そしてそこに向かって意識を集中する必要が有ります。
感覚は広く動物一般にも見られます(感性的段階の認識)。しかし感覚は直接目の前の具体的存在への認識です。存在しないものを感覚することは出来ず、その認識は理性的段階の認識を必要とします。本格的には人間だけの能力です。道具の製作はこの能力獲得に大きな貢献となった筈です。
道具はヒトが作るものですが、それを通してヒトは自分の意識と手を鍛えて来たと言えるでしょう。道具が人間を作ったとも言える訳です。
今、人間の手は、1ミリの1000分の1を感知する職人の手であり、伊藤若冲の超絶技巧を生み出す手で有り、村治佳織のギターを弾く手にまでなっています。これは直立二足歩行によって歩行から解放された手と、それに繋がる脳の、700万年の言わば到達点です。
言語にしても同じことです。
直立二足歩行により、重力の作用で喉頭が下がり大きな空間が開くことにより、複雑な音声の発語が出来た。これも進化人類学の解剖学上の殆ど常識のようです。
殆ど、と言うのは例えば「アクア説」では違う契機で音声言語を説明しているからです。しかしこの件に関しては前者に説得力が有ると考えます。
言語獲得に置いても直立二足歩行は、充分条件では無かったが必要条件だったのです。直立二足歩行さえ有れば、自動的に音声言語が獲得できる等とは主張しませんが、この解剖学上の変化が無いところに、分節を持った複雑な音声言語は有り得なかった筈です。
言語は意思伝達の手段だと同時に思考の手段、いや手段と言うより思考そのものだとの認識が、今はようやく一般的になったようです。そんなこと100年も前からエンゲルスによってとっくに言われていたことなのに。
人間は言語によって、概念的・抽象的思考を得たのであって、言語なしに高度な文明も絶対に有り得ません。
言葉そのものは化石に残りませんが、残された骨格や舌骨化石、石器などの作製物との関連で、今、結構詳細にその辺の事情が説明されているようです。
そのことを、オルドヴァイ石器とネアンデルタールのムスティエ石器の、進化の固定化と絡めて具体的に書き込んだのですが、それに沿った批判や反論は無かったですね。
直立二足歩行無しに、道具で有れ、言語で有れ、知識の伝達で有れ、思考であれ、ここに到達できると言うなら、そのシナリオに沿った具体的な説明が必要でしょうね。
※ 道具とか知識とか、結局こう言った「人間化の結果」によって得られた属性を、人間の前提に折り込んで考える、「現在の人間」しか目に入らない、人間中心の逆さまな思考。
ピルトダウン人事件の痛恨の誤りと共通する思考パターンを、未だに繰り返すのは二重の罪。
チンプ・ボノボ系とヒトが共通祖先から分岐したのが700万年前。700万年のそれぞれ独自の経過を経た今の時点で、彼らとヒトとの違いを列挙したら、着目するあらゆる要素で巨大な差異を数え上げることが出来る。衣服だのインターネットだの宗教だのと。しかし700万年前は、姿かたち、行動、思考に何の違いもない同じ種だったのだ。
全く同じ状態から出発して今現在、人間だけに見られるこの巨大な差異。この違いを検証しようとする時、分岐した時点に遡っての視点が必要であることさえ理解出来ない、自称「進化生物学、進化人類学」論者(2013/1/25)。
私はこう言う議論の度に、いつも不思議に思うのですが、どうしてそもそもこんな議論が成立するのか?、と言うことです。
次のtaさんの書き込みを中心に見て行きますが、これはゾウの鼻やリス、カンガルーでも同じことです。
>同じように、我々の祖先が直立二足歩行をしなければ、他の類人猿がしたかも知れませんし、二足歩行無しに知性を発達させる道もあるかも知れません。
>我々人類だけが高度な知性を獲得している最大の理由は、「早い者勝ち」だろうと私は思っています。要するに、知性が有利なニッチを独り占めにしてしまったと言うことです。(taさん)
ゴリラにしてもチンプにしても、或いはゾウの鼻にしてもリスやカンガルーにしても、何故人間の直立二足歩行や文明、或いは手との比較で論じられなければならないのか?
彼らは彼らの適応戦略のもとに現在が有るのであって、それはヒトのそれとは本来関係ない筈なのに。
こちらでahさんが次のように述べられています。
>見事に適応している事を賞賛するならば、全ての生物は賞賛されるべきだと思います。
>それぞれの道を歩んでる」という視点に立てば、生物間に優劣をつけるのが難しいとも思います。
つまりそれぞれの生物種がそれぞれに、進化の頂点に居ると言うことですよね。私も進化生物学的な枠内で、これをほぼ認めます。
私はtaさんの書き込みで、逆に不思議なのですが、今現在アフリカの森に見事に適応し、その点で進化の頂点に居るゴリラやチンプが、何故「ヒトのような文明を起こす」必要が有るのか、それをあたかも前提としたかのような議論が、何故なされるのかと言うことです。
それって、人間(だけ)を進化の頂点とみなし、全ての生物はその頂点を目指して進化すべきだ、と言う考え方に繋がりませんか?
ヒトの歴史700万年の大半は、単なる2本足で歩くサルでしたよ。進んだ石器や集団での狩りで他の動物の消長に影響を与え始めたのは、つい最近のことです。「知性が有利なニッチを独り占めにしてしまった」のも同じこと、ホンのつい最近。
「仮定の話」としてゴリラやチンプが仮りに、仮にですよ「文明」を目指したとして、初期人類の存在がその邪魔になる程大きな影響が有った訳では有りません。人口(頭数?)も知れたものだったでしょう。
他の類人猿が直立2足歩行や文明を目指した時、ヒトの祖先の存在がその邪魔になったとは到底考えられません。
彼らが森に残り人間並みの文明を発達させなかったのは、彼ら自身の適応戦略であって、この戦略の中に「人間並みの文明」は、始めから入っていなかっただけの話です。ゾウにしてもリスにしても同じこと。
そもそもそれが本来の生物の姿であって、いつも言っていることですが人間の「文明」の方が、生物全体から言えば、異端中の異端なのです。
ゴリラやチンプが潜在的に文明を築く能力が有るか無いか、ゾウやリスやカンガルーが道具を扱う能力が有るかどうか、私は否定的ですが、仮に有ったとして、しかし現実にはそうなっていません。人間のそれと彼らのそれとでは質的な隔絶が有ります。これが現実の有りのままの姿です。
その現実から離れ、ゾウやリスやカンガルーにまで話を広げて「出来るか、できないか」論に一般化しても意味が有りません。何故ここにアズマヤドリやラッコ、ナメクジやゴキブリが入らないのか?、と、キリがない話になります。
現実を踏まえて科学が問うとしたら、、「何故、ヒトだけがその能力を獲得し得たのか?」と問題を建てるべきでしょう。そしてヒト進化の歴史に沿って具体的に考察すべきです。
具体的にとは、上記したように700万年前、共通祖先から分岐した時点まで遡って、その後のチンプ、ボノボ系統に無く、ヒトだけが経験した要素を考えることです。それでこそ「何故、ヒトだけが………」の問題に解答を与えることになるのだと思います。その回答が「直立二足歩行」である訳です。
それが建設的な議論なのであって、 その中で必要ならゴリラもチンプも、或いはゾウも比較の対象にすればいいだけの話です。そう言う現実から離れた、空想的ゴリラ論、チンプ論、ましてやゾウやリスの「仮定の話」に、私は殆ど意義を感じません。
【ジーン(遺伝子)とミーム(文化子)】について一言
ahさんからミームについて言及が有ります。
勿論ahさん他が、ミームと言う表現を使うことをとやかく言う積りは全く有りません。
ただ私自身はミームと言う表現を使いません。
遺伝子はDNAと言う、物質的な基礎・根拠が有ります。
仮に研究者によって意見の相違や解釈の違いが有った時、何時でもその物質的基礎に立ち帰って検証が出来ます。
しかしミームについてはそれが有りません。
言っている人ごとにイメージが違うかも知れません。或いは漠然とした知識をミームと言う言葉でなんとなく分かった積りになっているかもしれません。
それを検証するすべが無いのです。
私は面倒でも文化の中身を、例えば「道具」「言語」「思考」など、具体的な用語で表現するようにしています。
勿論最初に述べたように、ミームを使う人のことを否定する積りは毛頭有りませんが。
【たくさん有れば便利】か
>手が3本、足が4本あって、胴体も5つくらいあって、頭も6つくらいあって・・・
その頭にも、それぞれ耳や鼻や口がたくさんあって・・・ああ、夢のような世界だ。
>センザンコウのうろこも捨て難い。カモノハシの踵もほしい。
大アリクイの舌も魅力的だし・・・私はこの世でもっとも美しい生物になる。(mnさん)
そんなの、とっくに実現していますよ。
無人の工場でロボットが、溶接の火花をバチバチ言わせながら黙々と作業している映像を見ます。ロボットは手の延長・代用です。
自動車は足の、飛行機は翼の延長・代用です。センザンコウのうろこなど、戦国時代の鎧で実現済みです。或いは消防士の耐熱服か。
そしてそれを人間は、何時でもとっかえひっかえできます。
私が住んでいる所は4台の防犯カメラが24時間常時見張っています。つまり4つの目の代わりです。火災警報器は耳や目、鼻、皮膚感覚の延長・代用だし警報音は口の延長・代用です。これが24時間機能しています。
並みの頭の何百倍だか何千倍だかの計算能力をもつコンピュータも使っています(但し総合的には、それを作っている人間の脳には到底かなわない。人間の脳は宇宙で二番目に複雑な物質です。1番目は脳を生み出した宇宙そのもの、とは、スティーブン・ミズンの言葉だったっけ)。
その他、本当に必要であれば人間はどんな機能でも、道具の発明や改良で実現するでしょう。さすがに、光エネルギーを化学エネルギーに変換する植物の代用は、今のところ出来ていませんが。
これがいつも言っている、「身体器官の延長・代用でありながら、その進化に遺伝子的変異を必要としない」人間の道具の本質です。
ヒトは他の生物と違い、遺伝子変異による身体器官の進化を待つまでもなく、専ら道具を作製し、進化させることで環境に適応する道に踏み出した唯一の生物です。
これが生物学的な枠に縛られた「群れ」から、その枠を超えて飛躍した「人間社会」の本質をなすものなのでしょうね。
多分mnさんもそうだと思うのですが、日常的に何か不自由を感じた時、手がもう一本有れば、とか頭がもう一つ欲しいとか、普通は意識しないと思いま す。「ホームセンターに行って、アレを買って来るか」とか、「そろそろ新しいパソコンを買わないとな」とかが先立つのではないでしょうか。
既にヒトは意識的にも道具と一体化していると思います。
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