神と科学は共存できるか-353

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既に撤収モードの様相で、今更ぶり返すのも気が引けるのですが、tm氏、nn氏からスルーを激しく咎められ、レスを要求されています。
即レスが出来なかったことを詫びると共に(しばらくゲンナリして書き込む気にさえならなかった)、極力スルーの無いよう逐条的に対応してみようと思います。
おかげでえらく長くなってしまいました。その点も悪しからずご了承下さい(ホントに長くなりました。でも2人分ですし、勘弁して下さい)。

    

 

RE tm氏

>>「自然科学的に「実在」しないものを対象にした研究に意味はない、という白痴的言明(>>219;)」...と言うtm氏のご指摘に、「そんなこたあ言って居ないよ」として、上記冒頭の解答をしただけです。後出しのすり替え話みたいなことを言われても、返答のしようが有りません。

>言ってんだよ>馬鹿
僕の論点は、その(自然科学的な)実在を信じていようが信じていなかろうが関係にゃーというところだにゃ。チミのような馬鹿を相手に、「後出しのすり替え」をする必要なんてあるわけにゃーだろが>馬鹿
>そもそも
「空想上のものという前提だろうが、実在していると妄想していようが、それはその学問的価値には直結しにゃーのだよ。僕はもともと、研究者の世界観や信念と学問的価値が直結するのは「イズム」であるという文脈で話していたにゃんぞ。」
という話は華麗にスルーにゃんな。もうこれでこの話を書くのは4回目にゃんがな。

 

論より証拠、「自然科学的に『実在』しないものを対象にした研究に意味はない」等という、そんな「白痴的言明」が、若し有ると言うなら私の書き込みの中から提示してみて下さいな。
言っていないことを「言っていない」と事実関係を返しただけのこと。

「学問的価値には直結しにゃー」だの「研究者の世界観や信念と学問的価値が直結するのは『イズム』である」だのと、tm氏の特異な「論点」を持ち出せば、私の言ってもいないことが言ったことになるらしい。
こちらこそ同じことを何度も言わせないで下さい。

 

>だからカントの物自体概念が、完全に論駁され尽くしたことを根拠をもって示してみろよ>馬鹿

私は(>>230;)で、kaさんの「よろしければソースください」へのコメントとして、

>> 不可知論にしても、その反論にしてもそれぞれの哲学的主張であって、神の実在と同じく賛否両方ありますので、例えば自然科学における、「ニュートリノ振動 が『実証』された」と言う形で決着が付く訳では有りません。ですから特に客観的なソースと言うものがある訳では有りません。
>>「完膚なきまでに論駁されている」と言うのは、私はそう思っている、と言うことです。現実に不可知論は広範に生き残っていますから、そうでない人たちも大勢居るということですね。

...と、小学生にも分かるように明確に書いておきました。「客観的なソースと言うものがある訳では有りません」とね。
更に「『完膚なきまでに論駁されている』と言うのは、私はそう思っている、と言うことです」と付け加えながら。
しかもわざわざ「不可知論にしても、その反論にしてもそれぞれの哲学的主張であって、神の実在と同じく賛否両方ありますので」と、tm氏のような立場への配慮も忘れていません。

これ以上どう書けば良いんですか? ここでは自分の意見や判断を主張として述べることさえ出来ないのですか? クワバラクワバラ。

 

>>ウィキ等を引用したり、「科学者」を引っ張り出して余計な回り道をする必要なく、いっぺんで本筋の決着が着きますよ。きちんとした反論が出来ればね。

>もうすでにnnが反論してるだろ。字が読めにゃー野か?>馬鹿

nnさんの「反論」がtmさんの反論の代用になるとは、初めて知りました。麗しき隣人愛ですが、だったら最初からそう言って下さいよ。ホントに。
tm氏は関係ないとして、nnさんの「反論」も、哲学と実証科学である物理学との混同が有るのですが、しかしそれでもnnさんの物理学的「反論」は気になってはいました。

同じような問題意識からだと思うのですが、(>>280;)の、dmさんの問題提起は、より興味深く受け止めていました。

> 「存在するか?」と言われると、何か形のある物体的実在物の存在だけを思い浮かべがちな人が多いかも知れませんが、形のない現象というものも立派な【自然科学的な意味で】の存在です。その意味では、燃焼も心も意識も戦争も会社も国家も存在しています。まあ学問の対象とするためには人文・社会科学であれ自然 科学であれ、厳密な定義も必要でしょうけど。
生物種とか万有引力の法則とかの抽象概念となると、【自然科学的な意味で】の存在と言っていいのかどうか・・
>雄さん231のヘーゲルの言ったことは、つまり以上のようなことなんでしょうか? (>>280;dmさん)。

 

哲学と自然科学との関係は、私にとっても面白そうなテーマでした。
dmさんは(>>279;)で、燃焼を例にとってフロギストン説を紹介されています。同じように、モレスコットやビュヒナー、フォークトなど、俗流唯物論者による「肝臓が胆汁を分泌するように、脳髄は意識を分泌する」とする説が主張されたこともあり、これが「タダモノ論」として、唯物論の面目を多いに失墜させた時期が有った訳です。

不可知論を巡る環境も、私の印象では19世紀までと20世紀では大きく変わったような気がします。
いわゆる「観測問題」「不確定性原理」「からみ合い」或いは、「観測の地平」「ブラックホールの内側」「宇宙誕生以前」「他世界宇宙」等など。
本当はこれらのことについて、dmさんなどからもお知恵を拝借しながら、どのように考えてゆけばいいのか、と言うのは私にとっても大きな興味でした。

しかし如何せん、「愛」の問題だけでもこれだけ物議をかもしており、更にこの上トピズレになるようなこの問題を提起することに多いに躊躇が有った訳です。かと言って中途半端な形で論じたくもないし。
...と言うことでこの件は、nnさんからの反論も含めスルーしたままです。それは率直に認めます。

 

>どこの世界に「現象を全て知る」者がいるんだ?>馬鹿
「現象を全て知る」ってなんのことだ?>馬鹿
逃げずに答えろよ>馬鹿

哲学的な認識論、つまり「考え方」の問題と、実証科学である、主に物理学での物質理解を、tm氏が混同しているに過ぎません。それと単にtm氏が理解できなかったに過ぎません。私が逃げていた訳では有りません。

tm氏お得意のWikipediaによれば(「イマヌエル・カント」の項)、
「意識は、その二種の形式(感性と悟性)に従ってのみ物事を認識する。この認識が物の経験である。他方、この形式に適合しない理性理念は原理的に人間には認識できないが少なくとも課題として必要とされる概念とされる。理性推理による理念は、いわば絶対者にまで拡張された純粋悟性概念である。神あるいは超越者が その代表例であり、これをカントは物自体(Ding an sich)と呼ぶ。」とされています。

この「感性と悟性」によって認識されるものが、現象とか性質であると理解するのに何の不思議も有りません。それ以外に感性と悟性が何を認識するのですか?
そしてそれによって認識されない「理性的理念」をカントは『物自体』と呼んだのです。

この理解は元々tm氏、あなたが最初に持ち出したカント自身の主張ですよ。tm氏お得意のWikiによってもね。これが哲学的立場の違いを超えたカントの「物自体」解釈です。
「僕がチミよりテツガクの知識が少ないということはにゃーから安心しろ>馬鹿」とするtm氏の、Wikiとは違う「物自体」解釈をお聞きしたいものです。

そしてヘーゲルはカントの主張を受けて、「若し現象を全て知ることが出来たら、」と問題を建てたのです。ここに哲学上何の問題が有りますか?
自然科学でもよくやるでしょうよ、思考実験というのを。「若し、光の速さで走ったらどうなるだろうか?」って言うアインシュタインの思考実験は、実際に光の速さで走らなければ成り立たないのですか?

 

>>「愛」は精神的なものです。その意味で「愛」そのものは形も無いし、いわゆる実体では有りません。だからといって「愛」が科学の対象にならない訳では有りません。

>だからな>馬鹿
>僕は自然科学的な意味で実在するかと聞いたんだにゃ>馬鹿

tm氏が引用してくれた部分に、既にチャンと書いて有るじゃないですか。「その意味で『愛』そのものは形も無いし、いわゆる実体では有りません」と。この件、おしまい。

 

>科学の対象になるかなんて聞いてにゃーだろが>馬鹿

『重要な問い』に対し、科学は応えられるか否か? と言うのはそもそもこのスレッドの最初の頃からの中心テーマの一つだった筈ですよ。
tm氏自身(>>21;)で、

>科学は「重要な問い」については直接的にはノータッチ(判断の材料を提供するという意味では無関係とはいえない)であり、自らに判断の資格があるともみなしてにゃーわけだ。
>宗教は「重要な問い」に答えられるか否かについて、科学は判断できないし、してはならにゃーのよ。もしそれを行ったら、それこそNOMA違反だろ?

......と述べて、自分の判断を示しています。「科学は.........ノータッチであり」と言っているのはtm氏自身ですよ。

私は「そうじゃないだろう。決してノータッチではないだろう」と言う立場で、重要な問いの一つとして想定されている「愛」について、進化人類学と言うアプローチを借りて見解を述べただけです。愛はtm氏のクイズにも題材として使われていますしね。

 

>ちゅうわけで、愛を「自然科学」で説明する雄ダイセンセイのおっしゃりようは、僕の質問とは関係にゃーです。

私の科学観「広く科学を捉えている云々」についての、「チミの科学の範囲は広大無辺にゃんなあ、ぶわっはっはっはっはっはー」と言うtm氏からの揶揄に対し、 その釈明の教材として述べたもので、私もtm氏のクイズと直接関係にゃーと既に述べています。単なるひとつの例としてです。一体どこが問題なんですか?
揶揄に対する反論でさえ、どこかで述べられている「僕の質問」の内容から一歩でも外れると、叱られる訳ですか?

 

> それと、NOMA原理が不可知論だとしたら、NOMA原理を支持する信仰者は不可知論者ということになるけど、そんなはずにゃーことはチミのような馬鹿に はわかんにゃーのかな? 科学者としてグールドは不可知論の立場を表明するけど、信仰者にその立場を強制してるわけではにゃーんだよ。

私のどこにそんな書き込みが有りました? わら人形はもういい加減にして下さい。
NOMA が、科学と神の間に「重複しない」と言う形で明確な線引きをし、その片方に「教導権が及ばない」とする点で、カントの物自体と同じだとする私の判断に、何の不自然が有るのですか? しかもグールド自身が自分のことを「不可知論者」だと、積極的に表明している、非常に強力な傍証もあってのことです。
不同意ならその内容に沿って、tm氏自身の見解を述べればそれでいいことじゃないですか?
tm氏は議論の中身には殆ど立ち入ることが出来ないのに、外形的なアレコレに重箱の隅的なクレームだけはお達者だ。しかしその殆どはわら人形、良くて見解の相違に過ぎない。

「NOMA 原理を支持する信仰者は不可知論者ということになる」「グールドは不可知論の立場を表明するけど、信仰者にその立場を強制してる」等と、私は述べていないけれども、グールドが強制していようがいまいが、その線で書かれた著作を読んで支持する人は、当然その一定の影響力を受けるだろうことは、考えて分かりません?

私が考えるNOMAの一番の問題は、繰り返し述べているように、霊感商法やマスコミでの心霊現象、スピリチュアル等の取り上げに対する、科学の側からの批判の躊躇です。或いはマスコミや「霊能者」の開き直りの根拠としてです。
だからこそ私は(>>218;)で「グールドの晩節を汚す一冊にならなければ良いが」と書いたのです。グールドを惜しめばこそです。

 

>とにかく、確認しよう
雄ダイセンセイの科学の定義では

  • 王様は裸じゃないか!
  • ごめんなさい、あなた。この子はあなたの子じゃないの
  • 勘違いしてんじゃねーよ、このブス
  • はっきりいうけど、おまえ、臭いよ

といった言明は科学だにゃ。

 

私の方からも確認しましょう。
「王様」「あなたの子」「ブスの女性」「おまえの臭い」等など、実在的な事象に対し、ある問題が建てられ、それに対して何らかの判断が下されるとき、それを科学と言わないtm氏の感覚を逆に疑います。
その時「科学」と意識するかどうかの、要するに単純か複雑かと言った、或いは先人達の「科学的」業績による知見が有って、既に日常的な常識となっている、それだけの問題に過ぎないでしょう。単純だから科学でない訳では有りません。

  • 王様が裸であるかどうか、普通「見て」「判断」します。そこにいちいち「俺は科学している」などと意識はしないでしょう。
    でもね「見る」或いは「判断」と言う現象がどう言うことか、少し立ち入ってみれば立派な科学現象だと言うことが直ぐ分かりますよ。
    長くなるので関係するであろう「科学的な」概念だけ列挙してみます。

    太陽・月、或いは人工照明からの電磁波、そのごく僅かな領域である可視光線、対象(この場合王様)を形成している物質の吸収・反射特性、対象から反射された電磁波、センサーである視細胞、特に特定の波長に特異的に感応する三種類の錐体、ロドプシンの化学的な変性、それらの情報を演算処理する脳、等など。
    そしてこの「見る」と言う現象は、考え方としてラザフォードのα線(粒子)照射による原子核の発見、或いは粒子加速器での様々な観測と同じことです。
    ただ違うのは対象の大きさと、それに伴う照射の波長の短さ、つまりはエネルギーの大きさ、及びセンサーとしての網膜と、写真乾板、或いは霧箱などの違いだけです。
    その対象の大きさ(小ささと言うべきか)と照射エネルギーの大きさの問題が、量子論の不確定性問題に関わって来るんでしょうけどね。
    又、対象が王様であるかどうか、裸か着物を着ているかの判断も、それまでの脳内の記憶との検証でしょう。これって科学じゃないんですか?
     
  • 子供がtm氏の子供であるかどうか、若し問題になった場合、今ではDNA検診などで多分簡単に特定できる筈です。
    私は幸いそう言うややこしい問題に巻き込まれたことがないので、詳しいことは知りませんが、これって科学じゃないんですか?
     
  • 嗅覚は充分に生化学的な問題でしょう。これもいちいちその過程に科学を意識しないだけです。
    最近自分の臭いを気にする人が増えているようです。深刻に悩む人はお医者さんに相談するでしょうね。本当に臭いかどうか?、それはどう言う原因か?、対策は? 等など。
    医学を含めた科学以外に一体何が対応できるのですか? おまじないですか?
     
  • 順序が前後しましたが、ブスか美人か、ぶ男かハンサムかは進化生物学の適応にも絡む問題だと思うので少し立ち入ってみます。
    tm氏が或る女性に対し「ブス」だと感じるとき、そもそもどう言う判断基準でそう思うのですか? 個人個人の嗜好の問題も有るでしょう。これにも色々な科学が 関与できるとは思いますがその前に、ブスとか美人とか言った場合、大方の(人種や時代によって基準は異なるにしても)人類で共通の判断基準がほぼ確立されています。tm氏が美人だと思う女性は、多分私も美人だと思うでしょう。
    私が思うにこの判断基準はおそらく人類の歴史の中で形成された適応的なものでしょう。つまりはダーウィンが提唱し、トリヴァースなどが拡張した「性淘汰」が基礎になっている筈です。
    足の長さやその真っ直ぐさ加減、顔や体のプロポーション、シンメトリーの程度、皮膚の滑らかさ等は、その個体や血統が、充分な栄養を確保できるだけの狩猟能力を持っていること、ウイルスや寄生虫などのパラサイトに強いこと、或いは相手がメスで有った場合、多産系であるかどうか、等などのシグナルとなった筈です。
    遺伝子DNAそのものは見えないが、目に見える判断基準として配偶相手に示す指標としての機能を果たして来たのでしょう。
    そしてそう言う配偶相手を選択したものが、結局はより多く子孫を残し、その子孫にその遺伝子を残すことが出来たのでしょう。その子供は同じような判断基準を親から受け継いで来ただろうし、我々はその子孫で有る訳です。
    今、その歴史的な経過をいちいち意識することはないが、相手を見て直ぐに美人かどうか、ハンサムかどうかを判断するその基礎に、おそらく長い生物と人類の歴史が横たわっているのでしょうね。

私の考えが絶対正しいなどと断言する積もりは毛頭有りません。色々な考えが有るでしょう。
しかし、進化論掲示板の常連であるtm氏に、こう言った適応的な視点が若し全く無いとしたら、そのこと自体私には信じられない驚きです。
他人に対し「科学主義の病状」などと揶揄するのも結構ですが、私の心配はtm氏の「非科学的蒙昧」です。

えーと、ここで猫氏の批判については一応逐条的に対応したことになるのかな。
まあ、正解かどうかは各位の世界観や問題意識にも拠ることだし、私はその部分にまで「教導権」を発揮する積もりは有りません。つまり「正しさを独占」する積もりは有りません。全て私の考えに過ぎません。
そうでない考え方について「それはそれで、いいんじゃないの」と思うだけです。tm氏がどのように思おうがそれはカラス、じゃ無くてtm氏の勝手です。

 

RE nn氏

nn氏との一番の問題は「人間の『愛』の感情」についてです。この件は最後にまとめておきます。その前に.........、

>神の「自然科学的な実在」なんかとうの昔に聖職者が否定してるよ。
>まっとうな信仰を持つヒトはね、神の存在証明なんかしねぇよ。だって、彼らにとって神はいつでもそこにあるんだから、証明する必要なんかないの。

 

私は「自然科学的な実在」などとは言ってない筈ですがね。単に「神の実在は、」でした。
その意味で今の聖職者が「神の実在」を否定しているかどうか、それは多いに疑問です。
第一、教会が最初からそんなに物分りが良かった訳ではない。西暦の2000年間を通してみただけでもつい最近のことですよ。地動説を認めたり、かっての宗教裁判を自己批判したりしたのは。

およそ1000年間に及ぶ中世と呼ばれるヨーロッパで、何十万人もの人が、一方的な「魔女裁判」によって、考えられる限りの残酷な刑が処されましたが、それを躊躇しなかったのは、そこに神の実在と悪魔の実在を信じていたからじゃないですか? 或いはそれを煽った陣営が。
そうでなかったらとてもじゃないがそんなことを、普通の人が出来る訳がない、と私は逆に信じたいんですがね。

ガリレオの宗教裁判、ジョルダーノ・ブルーノの火刑もそんな遠い昔じゃないですよ。
そもそもダーウィンが「種の起源」の発表を延ばしたのは何故ですか? 教会への配慮でしょ?
そして今でさえアメリカ南部などでは、IDに姿を変えた「創造論」を、教育に持ち込もうとしている人が現実に大勢いるじゃないですか。

トマス・アクィナスの一生を知ってますか。
tm氏お得意のWikiに拠れば「カトリック教会と聖公会では聖人、カトリック教会の33人の教会博士のうちの1人」だそうです。至って「まっとうな信仰を持つ人」ですが、彼の一生は神の実在証明に捧げたものでした。その他大勢の賢人がそれに携わったんですよ。

今はね、そんな努力をしても報われないことが分かっちゃったんでしょうね。「まっとうな信仰を持つ人」は神の存在証明なんか諦めて、科学との折り合いをつけることを自覚しているだけです。
かと言ってその人たちも「神は実在しない」と断言する訳には勿論行かない。そのギリギリの「折り合い」の付け所として、不可知論が機能する訳です。「本当のところは分からない」として。
私はそう思っています。

 

>>若し「神は実在するがその証明は出来ないものなのだ」と主張する人は、同じ理由でスパモンの実在も認めなければなりません(>>314;)。

>あのね、私は「自然科学的な意味における実在」と「ある個人または集団内における経験としての実在」を分けて考えろ、と何度も何度も書いてるだろう。無論、スパゲティモンスターが実在すると主張するヒトにとってそれは実在するんだよ。

 

元々はnn氏の「妖精はいる、いないに付いての、どちらの主張も等価」に対する、私の異議申し立ての中で述べたものです。
神は反証できないし、スパモンも同じです。「自然科学的な意味における実在」であれ「ある個人または集団内における経験としての実在」であれ、その点でも両者は等価(nnさんお得意の)なんですよ。

予め言って置きますが、nnさんがどんな理屈を捏ねようと、神とスパモン、或いは空飛ぶティーポット、そして最近私が見た「化け猫に跨って空を飛ぶ生ゴミ妖精」の区別は出来ませんよ。
神もスパモンも、信者にとって「いつでもそこにあるんだから、証明する必要なんかないの。」と言う点で等価なんですよ。

現在スパモン教(FSM教)の信者は1000万人に上るそうです。私も最近入信しました。何しろ洗礼も会費も要らない。天国にはビール火山とストリッパー工場が有るそうです。祈りの言葉は私の大好物「ラーメン」ですし。
私はスパゲッティモンスターの実在性を、少なくとも神よりは根拠を持って説明できます。

 

>>それでも神が実在するとするなら、それは「事実」ではなく信仰です。信仰は思想・信条の自由として、科学の側も尊重すべきでしょう。

>どんなまとめだよ(ゲラゲラ。事実の矮小化を勝手にすんな

 

私の言う通りでしょうよ。
私は「神の不在証明」を宗教の側に向かって声高に叫んでいる訳では有りません。「私には必要ない」と言っているだけです。
私が神や宗教に対し容赦無いことを言うのは、ここが「科学系」の場だからです。宗教の座敷に上がり込んでこんな出しゃばりはしません。それは多いに失敬なことですからね。
私は科学の側に物申したいだけです。

逆に、意見の違いに対してさえ、あたかもヤクザの出入りを彷彿させるような言い回しで、血相変えて対応される御仁に、本当に「思想・信条の自由」の尊重を期待できるかどうか、私は大いに疑問です。

 

次に繰り返し問題になっている「愛」の問題です。
最初に事実関係だけ確認しておきます。私が論じているのは「人間の『愛の感情』の起源」の問題です。「人間の」「愛の感情の」「起源」です。308,313,319,321,327,330を見て貰えば分かりますが、このことは一貫しています。

既に繰り返し繰り返し述べていて、nn氏との間でも殆ど水掛け論になっています。私はnn氏がどのように主張されようとそれは「それでいいんじゃないの」と思っていますので、ここで特に争う積もりも有りません。
「自己愛」だか「親子の愛」だか知りませんが、そう言うものに突き動かされて大腸菌やゾウリムシが細胞分裂し、カビが胞子を作り、竹がタケノコをはやし、杉が花粉をばら撒くと理解されても、それはそれで結構です。
私はそんなものを持ち込まなくても、そのこと自体生物の本質、自然現象で、いわば利己的な遺伝子の仕業として解釈しています。

哺乳類はその定義上、全て例外なく母親の子育てが見られます。ネズミやコウモリの授乳に「母子の愛」の感情が有るかどうか、私は知りませんが、そんな感情が仮に無かったとしても、哺乳類なら必ず見られる、いわば生物としての「自然現象」です。

ゴリラやチンパンジー、ボノボに「母子の愛」の感情が有るかどうか、それは難しい問題です。しかし若しそう言う感情が有ったとして、ゴリラとチンプ、ボノボでは、全く違った内容である筈です。

ゴリラはハーレムを作り、しばしばその主(ボス)が交代します。ボスの交代によって頻繁に「子殺し」が見られ、ある報告では新生児の37%がオスによる子殺しだとの観察が有るそうです。
ボスに子供を殺され授乳が途絶えたメスは途端に発情し、子供の仇であるオスを受け入れます。「母子の愛」が先行、優先していたら考えにくい現象です。いい悪いは別としてこれはゴリラの自然現象です。

チンプやボノボ、特にボノボは乱婚によって、子供の父親の特定が難しいでしょう。そもそも父性を混乱させて子殺しを防ぐことを目的に、メスは乱婚を発達させたと言う説が有る訳です。そしてそれに対応した「愛の感情」になる筈です。
ゴリラにしてもボノボにしても、その配偶関係は、それぞれ置かれた環境による自然的な適応であって、「母子の愛」「親子の愛」の感情が有るか無いかとは又別の問題です。

ヒトは直立二足歩行と脳の増大により、メスの難産、新生児の無力化、その後の長い子育てが必要となり、メスだけでの子育てが困難になりました。
適応上、ゴリラやチンプと又違う感情が発達したと考えるのは当然でしょう。そう言う「人間の『愛』の感情」を私は論じていたのです。

ペアボンド仮説と言うのが有って、ヒトの配偶関係とその絆の起源を、私の言うように説明する説と、もう一つ、メスだけでいるとオスからの暴力に晒されるの で、特定のオスとペアを組むと言う説の二つが有るようです(「進化と人間行動」長谷川寿一・長谷川真理子-220ページ)。

本来、一夫一妻制はそれ程普通に見られる配偶関係と言う訳ではなく、どちらかと言うと特殊な形です。鳥に良く見られますが、それも抱卵、給餌、空を飛んで餌をとる訓練などなど、メスだけでの子育てが困難だからこそです。
繰り返しになりますので、これ以上は述べません。

配偶関係の研究は純粋に進化生物学的な分野だし、その中で「愛」の感情の起源を考えることは純粋に適応的考察です。
私に対し「メスを犯したくて仕方ないから」「ヤらせてくれたら育児に参加するし外敵から守るぜ」「素晴らしいエレクチオン肯定理論だ」などと揶揄するのは勝手ですが、私からするとゲスのかんぐりとしか言いようが有りません。

 

次にnn氏から執拗に求められている「愛」の定義です。
大昔、仲間と恋愛論などをたたかわせていた頃は「相手を独占したいと思う持続的な感情」等と理解していました。
今なら、そうですね、ヒトだけでなく広く一般的な定義としては、例えば次のように言えるかも知れません。

  • 肉親への愛は「遺伝子を共有する対象への、適応度最大化に寄与するあらゆる感情」。
  • 配偶相手への愛は「遺伝子を折半する対象への、適応度最大化に寄与するあらゆる感情」。尤もこれだと、オランウータンなどに見られるレイプすら「愛」になってしまって.........、中々難しいですね。

その他、犬に対する愛、モノに対する愛など、幾らでも有るでしょう。
人によっても解釈は違うだろうし、(>>327;)でも述べたように、既にここまで発達した人間の「愛の感情」は複雑多岐に渡っていて、それを全て定義しつくすことは私にも出来ません。
nn氏が(>>338;)で述べている「子育ての経験や出産の経験や育児の経験や子供に死なれたり成長した子供を巣立たせた経験は?オムツにべったりついたウンチを処理した経験は?それが愛なんだろ?」これらも、確かに愛の発露でしょう。

問題はそれらの感情が、最初からヒトに備わっていた訳ではない、と言うことです。私はその芽生え「起源」を論じていたのです。
そしてその元々は漠然としたものから発達したであろう「愛の感情」の起源を考えるのに、現在の高度に複雑化し多岐に渡っている「愛」の全てを定義しつくさなければならないなどと言うことは有りません。
尤もnnさんが、それら愛を全て定義しつくした上で、自己愛なり親子の愛なりの起源を論じるのであれば、それはそれで結構なことです。

 

>>段々正体がバレてじわじわ包囲されてきたのに気付いてないんだろうな。 (>>338;)

 

包囲? 何か勘違いしていませんか? 私は別に勝ち負けでここに書き込んできた訳じゃ有りません。
nn氏の「包囲」は殆ど参考になりませんでしたが、私の主張に対し、間違いを指摘してくれたり、教えてくれる「包囲」であれば、それは多いに歓迎するところです。その分自分の間違いを正し、利口になれることですからね。
「ヒト起源について」の中で、私の「前適応」についての間違いをtm氏、nn氏から指摘してもらいました。私は自分の勘違いに気がついた時点で、直ぐに指摘を受け入れ、自説を撤回し、迷惑を謝罪した筈です。
私は勝ち負けや面子に拘って、間違いや勘違いしたまま突っぱねようとは思っていませんからね。

しかしいずれにしても既に水掛け論の様相であり、私も同じことの繰り返しです。
全体としても撤収モードのようでも有るし、ぶり返した私がこんなことを言うのもなんですが、今後同じことのやり取りは対応しかねる場合が有ります。勿論必要に応じてのコメントはしないでも有りませんが。

    

 

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このページは、雄が2008年2月19日 13:43に書いたブログ記事です。

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