今さらながらの、「石器」「文化」「社会」等

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「親の責任論」と言うか「宗教論」と言うか、続いていますね。
一人で大勢を相手にする大変さは私も身にしみているので、死んだら無さん、ご苦労様です。

議論を仕切る積りは毛頭有りませんが、その進展にやや辟易だった私は、少し目先を変えてみようかと、おおむかしdmさんから頂いたまま店晒しになっていた宿題を、今更ながらですが考えてみました。もうご当人も忘れているかも知れませんが。
http://6609.teacup.com/natrom/bbs/10455
http://6609.teacup.com/natrom/bbs/10456

>「アウストラロピテクスの社会」と「チンプやゴリラの社会」の間の距離が飛躍と言えるほど大きいかどうか、という点はどうなんでしょう? それとも雄さんの言う人間の社会はアウストラロピテクスの社会も含んでいたのでしょうか?

>そして雄さん以外の人は、「アウストラロピテクスの社会」と「現代の人間の社会」との間に多くの中間段階を経た連続性を見ているわけです。

>なお、「人間の社会」が急激に変化したのはここ3万年-6万年以降と考えられているようです。

>どこまでを文明と呼ぶかにもよりますが、旧石器文化くらいまでなら現在のチンパンジーやゴリラでも行けそうな気もする。ゾウはどうでしょうねえ。

 

今、アウストラロピテクス属の前に、アルデピテクス、オロリン、サヘラントロプスの新しい属が三つ新設されて、それが実際どう言う系統になっているのか不明な点はあるのですが、兎も角今アウストラロピテクスを「最初のヒト」とは呼ばないようです。

何れにしても共通祖先から分岐した時点では、分岐の片割れで有るチンパンジー系統と「殆ど」変わらない訳ですし、原始的で有ればある程変化(進化)が緩慢 で、その状態は長く続いたものと思われます。「社会」と言うより「群れ」の状態が人類史の大半だったでしょう。
「飛躍」も、それに先立つ「連続」抜きには始まらない訳で、当然私もその中間段階は見ている積りです。

進化のビッグバン-「行動の現代性」

ホモ・サピエンスの出現は20万年前とされていますが、この我々現生人類種の途中段階、3万年前とも6万年前とも言われる時期に、dmさんご指摘のように「進化のビッグバン」とも呼ばれる急激な人間化が起こったようです。
それを境に前半を「解剖学的現代人」、その後を「行動の現代性」を備えた人類と、2つに区分しているようですね。
本格的な「人間社会」と呼ばれるものはこの後半の出来ごとだと、私も考えています。

色々な要因が有るとは思いますが、この時期、「抽象的・概念的思考」の獲得とその前提としての「言語」、及び「石器様式」の発達と言う点で、飛躍・画期が有ったようで、これらをセットとして「行動の現代性」と呼んでいると言うことです。

繰り返し述べていることですが(人間以外の)生物は全て、遺伝子的変異に基づく進化によって外形や行動を変え、それによって環境に適応して来た訳です。そ れが出来たものだけがより多くの子供を残し、種として定着・発展して来たのでしょう。出来なかったものは絶滅した訳です。
他方ヒトは、鋭い爪や牙を進化させる代わりに道具を作り、遺伝子変異に依存しないまま環境に適応し、子孫を残し得た唯一の生物種だと言えます。

一昨日(4月8日付け)の朝日新聞「天声人語」で、動物学者のローレンツの言葉を引いて、人間と動物との「武器」の違いが述べられていました。
動物の爪や牙は遺伝子に制約されるので、争い方にも自ずから本能的な抑制が働く。しかし人間の武器はその制約が無いので、その抑制さえも自らの意思による、つまりは人間の英知と分別によると言う訳です。
同じ日、オバマとロシアのメドベージェフの間で新核軍縮条約が締結されました。双方色々思惑は有るようですが、少しばかり「英知と分別」が働いた結果なんでしょう。

文化は道具だけに限らないのですが、言語にしろ思考にしろ、意識内容、行動などは化石として残らず、結局は石器や頭蓋骨化石などから推測するしか有りません。
......と言うことで、石器の推移から見えてくる意識、言語、ヒトと他の動物との関係など。

 

現在知られている最古の石器は、1992年から94年にかけて、アフリカのハダール、ゴナで発掘されたもので、250万-260万年前と年代測定されていますが、これを含め、ケニア・トゥルカナ湖周辺(230万年前)、タンザニア・オルドヴァイ渓谷(180万年前)など、一連の石器群を基礎とする人類最古の分化をオル ドヴァイ文化(オルドワン)と呼んでいます。
そしてこのオルドワンが、およそ100万年続きます。
内容的に僅かな改良は有ったとして、基本的には同じ様式で固定したまま、兎も角100万年の長きに渡って続く訳です。

この「固定化」現象は、ネアンデルタールのムスティエ石器文化でも事情は同じだったようです。石器そのものはオルドワンと比べ、勿論格段に進化しているし、ルヴァロワ技法と呼ばれる作製方法も格段に洗練されているのですが、兎も角その状態で数万年、或いは十数万年殆ど変化が無いまま経過しています。

この石器文化の「固定化」と言うか、同じ状態での「停滞」と言うか、ここから何が読み取れるかと言うと結局、「抽象的・概念的思考」の未発達状態です。
ネアンデルタールは現代人と比較してさえ大きな脳を持ち、厳しい氷河期を大型哺乳類を狩りながら生きて来た訳で、博物学的知識は高かったらしいのですが、そう言う個別の知識を捨象し抽象化・一般化する能力を持たなかったようです。
認知考古学者のスティーブン・ミズンは、「認知的流動性」が無かったとの言い方をしています。
「この道具では不便だ」とか「ここをこう改良したら、もっと便利になるんだが」と言った、現代人なら普通に持ち得る着想が、ネアンデルタールの段階でも殆ど働らかなかった、と言うこ とでしょう。狩る対象の動物種に応じた、道具の使い分けも全く無かったようです。

※ 少し横道にそれますが、動物の骨を使ってのめど(針穴)付きの針で、毛皮などを「裁縫」したのもホモ・サピエンスからです。必要、と言う点から言えば氷河時代のネアンデルタールこそそれを使うべきでした。
ネアンデルタールは身体をズングリムックリの寒冷地向きに特化(肌の色も白かったとされています)した為、ヨーロッパなど一部の地域に局在せざるを得なかったのと比較して、ホモ・サピエンスはこの、衣服と言う道具を使うことで、単一種でありながら地球全域にその生活域を広げることが出来たのだろうし、ネ アンデルタールの絶滅の一因もその辺に有ったのかも知れません――――。

そしてこの「抽象的・概念的思考」の未発達は、言語の未発達に照応しています。単なる「感覚」を超えた抽象的・一般的思考はことば無しでは有り得ません。
又、(新しいことがらに対応する必要上発達した)ことばの本質上、若し言葉を通して構成員同士のコミュニケーションが取れている時、それが道具の進化に反映されない筈が有りません。
化石による解剖学的研究からも、この頃の人類の「ことば」が、非常に限定的なものだったことが推定されています。少なくとも「分節言語」「恣意性」などは無かったでしょう。

一時マスコミなどでも大きく脚光を浴び、ネアンデルタールの高い精神性の証拠とされた「シャニダール洞窟の、花に包まれた埋葬遺跡」も、他に類似例が無いこと、等の理由で、今ではその精神性は疑問視されているようです。
又、ネアンデルタールによる抽象的造形物は今のところ、全く発見されていません。クロマニヨン人たちに見られる洞窟壁画等も一切残していません。
絶滅寸前の時期に、貝殻などを使った装身具が見出されていますが、これも併存していたホモ・サピエンスからの、その意味を理解しないままの形式的な模倣に過ぎなかった、と言う見かたが主流のようです。

 

長々と述べて来ましたが、要するにここで結論として私が言いたいことは、現在我々人間が造り、使っている道具と、類人猿たちが使っている「道具」の質的な違い・隔絶です。

道具、言語、思考は、それぞれ独立したものではなく、相互に因果関係を逆転しながら有機的に連関しています。
道具を作ることは、将来の使う場面の想起無しには有り得ないことです。つまりは反射的な感覚を超えた意識内容を必要とします。又それ自体指先の器用さを鍛え、それを司る中枢神経を鍛えたでしょう。鍛えられた意識は又、道具製作や言語に反映された筈です。

言語について、一つ大事なことは、仮に身体的な構造が音声言語発語に対応したとしても、その必要が無い時、ことばは発達しないと言うことです。現にサルたちは、幸島のイモ洗いなど新しい経験を伝える時、身ぶりで充分にその必要を満たしています。
又オランウータンやテナガザルのように、群れを作らない種に複雑な言語は有り得ません。

おそらく3万年前とも6万年前とも言われる「ビッグバン」の時期に、人口が或る域値を超えたのでしょう。その背景に、当時の大型哺乳類の何種かを絶滅させる程の狩猟技術が有ったのだと思われます。大規模な狩りにはどうしても合図としての音声言語が必要だったでしょうから。
又、「出アフリカ」の過程で、他集団とのコミュニケーション(いざこざ処理)も必要になったかも知れません。
その後の階層的な社会構造も言語と意識の発達を促したでしょう。

私たちは日常的に道具と言語に囲まれ、それを当たり前のものとしています。しかしそれが当たり前になったのはつい最近、生物進化の歴史からすれば瞬きする程にもなりません。
動物全体からすれば、我々人間こそが特殊で有り異端なんですね。

ヒトは直立二足歩行によって、前肢が手として歩行から開放され、喉頭が下がって複雑な音声言語の可能性を広げ、増大する脳を真下から支えると言う、解剖学的な側面が片方に有り、それと合わせ、強力な爪も牙も、チーターの足も持たないひ弱な状態で、否応なしに道具と、群れとしての共同作業の必要に迫られたと言う、ソフト面での状況が有ったのでしょう。
そう言う、全体の流れの中でしか、道具もことばも、結果としての文化も社会も考えられないのだと思います。

ですから先ず、ゾウやイルカは解剖学的に論外ですが、チンパンジーで有れゴリラで有れ、偶発的に獲得したであろう今の道具が、その枠を超えて、「旧石器文化くらいまで」進化することは、多分有り得ないだろうなと、私は思います。
一時論争になった「アリ釣りの木の枝も核兵器も、全ては程度問題」は、私からすればやはり、現実を素直に反映した議論とは思えません。

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このページは、雄が2010年4月10日 14:46に書いたブログ記事です。

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