RE 直立二足歩行は生物学的違いでしょ

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RE dmさん

>ヒトはヒト社会を作ったのにチンパンジーはヒト社会を作れない/作らない、のはなぜか? (いかなる生物学的違いによるのか?) てのが問題でしょ?

>ヒトだけが直立二足歩行することは生物学的違いのひとつでしょう? つまり雄さんの主張の行き着く先は、直立歩行をさせている遺伝子こそがサプライズということになるのではありませんか?

三点ほど述べておきたいと思います。
若干長くなるかも知れません。又どなたかから「熱弁をふるわれた」などと批判を受けそうですが、私もそろそろ一連の論争(?)から撤収したいと考えています。
勿論具体的なご指摘や反論を頂いた場合は、今回のように引き続き対応はしたいと思っていますが、既に同じことの繰り返しになってきましたし、何より何人かの方々を相手に回答に回る側としては、他のことが何も出来なくなりますので.........。

 

 

...と言うことで、少しまとめも兼ねて。

第一

私が「生物学的連続と社会的飛躍」と言った時、それは何もヒトとチンパンジーの分岐、直立二足歩行獲得の局面に限定したことではないと言うことです。今、この瞬間でも同じことです。

人間はヒトとして生物の一種です。
代謝、生殖、遺伝など、生物としての法則が当然作用しています。その点で「連続性」を持っています。
しかし人間の社会は、動物の群れとは明らかに質的な違いが有ります。

動物の群れ(ミツバチで有れチンプ、ゴリラであれ)は、本質的にはその生物的種に依存したシステムです。より具体的に言えばその繁殖戦略に直結したシステムです。
多少のローカル性は有るにしても、同じ種なら基本的に同じ様式を形成し、オスが或いはメスが(近親婚を避ける為でしょう)群れを出たり入ったり、ハーレムを乗っ取ったオスは決まって、子殺しなど同じ行動をとります。
ミツバチの8の字ダンスは、ミツバチである限り群れが変わっても同じでしょう。

しかし人間社会は例えば、38度線と言う、自然的には何の必然性も無い直線を境に、種どころか同じ民族、時には肉親だったものまでが、全く違ったシステムで暮らしています。
或いは、1868年1月25日(明治元年)と言う、これも自然的必然性の無い時間を境に、その前後で様式が全く変わっています(勿論多少の時間的経過は有るにしても)。
その他例を挙げればキリが有りません。

こんなシステムが、塩基配列の差異に依存した生物的なもので有る訳が有りませんし、繁殖戦略に直結したもので有る訳が有りません。
人間社会は、独自の社会発展の法則に従って、進化・発展しているものと認識しています。

この社会は人間にとって、単なる一つの属性として人間の外側に有る、と言った程度のものでは有りません。
採餌、生殖と言った、本来生物的要素も、その内容は、社会の有り様がどうであるか(例えば北朝鮮では食事もままならないでしょう)によって全く違って来ます。
我々が普段意識していることも、社会の中での人間関係で有ったり、会社の中での昇進で有ったり、ライバル他社の動きで有ったりです。
要するに社会のネットワークの中で、人間は大半を意識し暮らしています。

社会のネットワークを離れて人間は、生物的ヒトとしてさえ生きて行けません。
ホームレスの人たちが、都会の人の中でしか生きられないのもそう言う事情でしょう。
人間社会のネットワークから外されて(実験出来ませんが)育った、いわゆるネグレストは、ヒトとしての生物的成長さえ阻害されるようです。
狼少女、アマラとカマラの話は作り話だったようですが、しかし事情が同じなら多分ああ言う結果になったでしょう。


「普遍文法」と言うものがヒトの遺伝子に組み込まれていたとして、社会のネットワークから切り離されて育ったなら、その能力も発現せず、人間として基本的な言語能力さえ持ち得ないでしょう。言葉は人間同士のコミュニケーションの必要抜きに、有り得ないのですから。
社会のネットワークから切り離された時、ヒトの最も基本的な属性である直立二足歩行さえ、獲得し得たかどうか私には疑問です。

だから社会は人間にとって、決して外的なものでは無く、人間の内面(具体的には脳)に組み込まれた(或いは組み込まれるべき)ネットワークでも有る訳です。
社会のネットワークと、人間内面のネットワークが繋がってこそ、初めて人間はヒトとしても生きて行けます。

「ヒト」と言う単なる生物的抽象的存在は現実には存在していません。存在しているのは社会のネットワークに組み込まれた、具体的な人間だけです。
これが私の言う「社会的存在としての人間」であり、それが人間の本質であると思う訳です。
ですから、直立二足歩行に限定された問題だとは思っていません。

第二

直立二足歩行の獲得と、そのことによって可能になった道具、言語、そしてその道具の作成と、分節・恣意性言語によって獲得された、高度な概念的思考など、それら一連の出来事には私も正に、ミラクル、サプライズだとしか言えません。
700万年前に戻って、もう一度やり直しても絶対ここに同じ人間は居ないでしょう。

ヒトの遺伝子の役割が若し解明されたとして、そこには確かに、直立二足歩行とそれを支える骨格などをコードしている一連の遺伝子群、言語に関する遺伝子群、脳増大に関わる遺伝子群などが、チンプやゴリラと分ける差異として見つかるものと、私も思います。
しかしこのこと自体を「サプライズ」だと言うかどうか、この点で私の考えは違います。

私が一連の書き込みで、「社会への飛躍、人間社会の特殊性」などを主張した時、こちらの常連さんから決まって出される反論が、「人間はヒトとして生物の一 種に過ぎず、全ての生物種はそれぞれにユニークであり、進化の頂点にある。人間だけが特殊なのではない」、と言う主張です。

私からすれば、生物としてのヒトと、社会的存在としての人間との混同だと思うのですが、この主張自体は間違っていないと思います。
遺伝子レベルで言った時、直立二足歩行をコードする遺伝子も確かにユニークでサプライズでは有るにしても、ゴリラのオスの身体の大きさとハーレム、チンプやボノボの乱婚など、それぞれにユニークでサプライズで有る筈です。つまり進化と言う点で等価だと思う訳です。

現在の人間とチンプとの差を説明する為に、1.23%とも言われる、ヒトとチンプの遺伝子的差異の中だけに、無理やり「サプライズ」を見ようとするのは、やはり私としてはご都合主義で有ろうと思う次第です。

突然変異により「直立二足歩行の遺伝子」がヒトの祖先に生じたとして、そう言う突然変異は他の種の遺伝子にも、同じ確率で起きたものと私は考えます。遺伝子のコピーミスはランダムだと聞きますから。
或いは共通祖先の時に、何度も有ったかも知れません。

しかし自然選択がそれを拾ってくれない限り、それは表現型とはなり得ません(中立説だとか集団遺伝学だとか、難しいことは分かりませんが、考え方として)。
遺伝子的変異と自然選択の妙で、直立二足歩行が獲得された経過については、前述したようにミラクル・サプライズだとは思いますが、遺伝子レベルでのその変異だけを取り上げて、特殊化するのはやはり如何かと。

第三、最後に.........、

人間社会と類人猿の群れとの違い、距離は、これはもう誰も認めざるを得ないところだと思います。
しかし片方に、1.23%と言う生物としての僅かな差異があり、他の種、ゴリラやオランウータン、ニホンザルなどにはその何倍もの差異が有る訳です。

この二つの要件を、生物学的枠内だけで両立させようとしたら、私には次の二つの方法しか無いものと考えます。

  1. 人間と他の生物種との違い、差を極力小さいものとして評価することです。
    以前、「階層問題」で激しく論争しましたが、人間社会の特殊性、飛躍を認めず、あくまでも「程度問題」に押し込める議論です。
  2. ここで繰り返されたように、ヒト遺伝子の1.23%の生物的差異の中だけに、無理やり巨大な差を生み出すサプライズ、コントロールリージョンなどを持ちこむことです。

これ以外に二つを両立させることは出来ません。出来ると言うことなら是非その見解をお伺いしたい。
私は上記二つのどちらも無理が有ると思う訳です。

人間はヒトとして生物の一種です。おそらく1.23%程度の差しか無いのでしょう。それ以上でもそれ以下でも無いものと思います。それでいいのです。
同時に人間の社会は、チンプの群れやゴリラのハーレムとは質的に異なった、そこに巨大な飛躍を私は見ます。
要するにヒトとしての生物学的存在を土台にしながらも、社会と言う一つ上の階層、ステージへの飛躍だと思う訳です。
それを可能にしたのが道具であり、言語であり、その土台になったのが直立二足歩行です。

同時にこうも言えます。

  • ヒトとして他の生物との連続を認めることで、創造論や人間だけの神秘性を排除し、
  • 社会と言う、生物的階層と違うシステムを認めることで、人間社会に、生物学で言われる「自然淘汰」「優勝劣敗」などの「理論」を故意にに持ち込む、社会ダーウィニズムなどの俗論を否定する。

特に1.23%の中に全てを押し込もうとすると、どうしてもそこに「サプライズ」だのを想定したり、以前紹介したことのある、アドルフ・ポルトマン (1897-1982)と言うスイスの動物学者の「洞察力」など、進化の結果を原因に持ってくるような間違いが起こり得ます(これは考え方としては神によ る人間創造に繋がります)。

生物学的枠内だけに拘ると、逆にそこに何か神秘的なものを想定しないと説明がつかない、そう言う危険性を含んでいると思う訳です。実際にここで主張されている「サプライズ」等は、形を変えた「奇跡」と同じ主張です。

なお、これは私の見解で(私が考え出したことでは有りませんが)、これが正しいとか、皆さんが納得できるとか、そう言うことを言う積りは全く有りません。
特に「社会と社会への飛躍」について、こちらの常連さんから同意が得られるとは、私も期待していません。
ただ、dmさんご指摘の......、

>えっ、そういう主張だったんですか? 雄さんの主張がわからなくなってきました。

...に対し、私自身、自分の中では納得できる、そこに何も矛盾は無いしご都合主義でもダブスタでも無い、とだけは言える。そう言うことです。
長々と失礼しました。

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このページは、雄が2010年3月20日 13:37に書いたブログ記事です。

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