神と科学は共存できるか-306

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RE ahさん

>行動生態学者や神経生理学者の書いたラブロマンスが感動的かどうかはよくわからない(笑
というような感じかなー、と漠然と思いました。

どうしてどうして、感動モノですよ。
あまりロマンス仕立てに脚色したものはしらけますが(竹内某女の如く)、淡々と進化生物学的考察を述べた「愛のドラマ」は読んでいて、心がわしづかみにされるのを感じます。

    

 

およそ15億年ほど前、性が初めて生まれたとき、それは繁殖とは全く関係なかったらしい。と言うより繁殖の効率から言うと有性は無性に勝てっこないし、利己的な自分の遺伝子を、それも繁殖に辿り着くまで勝ち抜いてきた優秀な遺伝子を、わざわざ半分他者に明け渡す行為だし。

  • 普通なら有り得ない性が、淘汰をくぐり抜けてかくも発達したのは何故か?、とか。
  • 遺伝情報の交換だけなら特にオスとメスに分かれる必要など無いのに、何故オス・メスか?、或いは何故、オスとメスしか無いのか?、とか。
  • そもそも、オスとメスの違いは何か?、とか。
  • 何故オスとメスの性比が常にほぼ同じになるのか?

今では当たり前に理解出来ていることを、10年以上前に初めて読んで知ったオトコの子としては、一番興味のある分野での知的興奮で、その時多いに胸をドキドキさせたことを覚えています。
ハッキリ言えることは、性の始めに愛などと言うものは無かったということです。

 

.........と言うことで、「愛(の感情)」の起源考です。
>>296;で私が、

>>私の勝手な解釈で、愛の基本としての「人間の異性愛、つまり男女の愛」と言うことに沿って考えて見ます。

.........と書いたことへの言い訳でも有ります。

>>299;nnさん

> そういう行動学的な知見から愛を紐解くっていうなら、最初に問うべきは「自己愛」つまり、自分の命を守ろうとしたり、自分という個体を保護し、それが拡張 されて自分の財産・社会的地位・容姿・パーソナリティを「愛する」という普遍的な情動じゃないかな?と私は思う。つまりそいつは生命が「個」を形成する境 界である細胞膜を保持したときから決定付けられている自己保存の本能だよね。

nnさんが「自己愛」を「愛」の感情の起源として主張しているのかどうか、或いは「愛」の発露として、基本として述べられているのか、イマイチ分からない所も有りますが、どちらにしても私は二つの意味で同意出来ません。

「愛」の起源を考えるとき、やはり私は適応上の問題として考えるべきだと思います。
ヒトの近縁である類人猿にはテナガザル、オランウータン、ゴリラ、チンパンジー、ボノボがいますが、全て配偶関係が異なります。それはそれぞれが置かれた環境での、主に食料事情などの制約によるものでしょう。
ゴリラはハーレムを作るし、チンプ、ボノボは乱婚です。特にボノボはひどい。観察によると1日50数回のSexに励んだメスが居たそうです。尤もボノボのSexはオスとメスの交尾に限らず様々あるようですが。
テナガザルは生涯に渡る強固な一夫一婦制ですし、オランウータンは単独雄と、母子集団という形をとるようです。オランウータンのメスはヒトと同じく発情期が無く、オスによるレイプも有るらしい。

これら類人猿に「愛」の感情があるかどうか難しい問題ですが、ただ考えて直ぐ分かることは、若し人間がゴリラのようにハーレム型の配偶関係だったり、ボノボのように乱婚だったとしたら、「愛」の感情も今とはガラリと変わったものになっていただろうことだけは確かです。
現在の人間が持っている「愛」の感情の起源は従って、チンプなどとの共通祖先から分岐した後、ヒトとして進化してきた過程の中に見出されるのではないでしょうか。

ヒトはオス・メス共同して子育てをするという、実は類人猿の中でも珍しい動物です。その点ではツバメやミツユビカモメなど、鳥と共通点が有ります。浮気と言う点でも共通点が有るらしい。
哺乳類はその定義上、必ずメスによる子育てが有りますが、ペアを組んだオスがそれに関与すると言う種は多くないんですよね。

ヒトのメスは直立二足歩行により難産になりました。
直立することで骨盤が内臓の重みを真下で受けることになり、形もお椀型になったのですが、ここでメスにとっては宿命的な矛盾を負うことになります。
内臓を支える為には骨盤の開口部が狭いほど良い訳です。でないと臓器がその開口部からはみ出してヘルニアになってしまう。
しかし開口部が狭いと、出産のとき胎児の頭が通り抜けられなくなる。

そこに輪をかけてヒトの脳の増大と言う問題が出てきます。特にそれが顕著になったのは「器用なヒト」ホモ・ハビリス辺りからですかね。
この矛盾をヒトのメスは生理的な早産と言う手段で解決しました(と言っても完全には解決される筈は無く、出産で死ぬ女性は珍しくなかったし、今でも産院に響き渡る程の叫び声で出産するのは人間の女性だけです。ゴクロー様です)。
つまり、胎児の頭が完全に成熟する前、本来の出産時期よりおよそ10ヶ月前に産み落とすことになった訳です。

その為ヒトの新生児は極端に無力です。牛や馬の子供が生まれて30分もすれば歩き出すことと比較して、ヒトの新生児はヒトの一番の特徴である直立二足歩行が出来るまで10ヶ月を要します。
又、そもそも脳の増大を招いたのは主に道具の作製・使用とコトバによるものですが、その習得の為にヒトの子供は産まれてからも長い教育訓練を必要とします。

アクア説啓蒙者のモーガン女史に言わせると、さらにヒトは無毛になった為、他のサルのように子供が自分で母親の毛をつかんでしがみつくことで、母親の両手を開放させることが出来なくなったと言うことです。ヒトにあって子育ては、到底メスだけで手に負える仕事ではなくなってきました。

nnさんが述べている内容「自己愛」は殆ど生物の行動一般と重なります。或いは生物の本能、生物そのものと言っていい。大腸菌がブドウ糖の濃度勾配を感じて移動する行為も自己愛と言うことになります。
それが間違いだと言うことではないかも知れないが、既に確立されている「生物」「生物の行動」を、殊更「自己愛」に置き換えて理解する必要は無いでしょう。

自己を自己と認識するのは、相当高度で抽象的な意識の能力を必要とします。目の前に獲物が現れたのを反射的に感覚するのとは訳が違います。
鏡に映った自分の姿を自分だと理解できる動物は、類人猿でも限られているらしい。
その自己をさらに「愛する」と感情するには、多分又幾段かの意識の能力を必要としそう。
少なくとも「愛」の起源を「自己愛」に求めるのは無理が有ります。

哺乳類はその定義上メスの子育ては必然です。若しそれだけで可能ならヒトのオスも子育てを全てメスに押し付けて、自分は次の配偶相手を探す行動を発達させ たでしょう。ハーレムを巡ってオス同士争うか、チンプやボノボのように乱婚に走ったかも知れません。生物は適応度最大化に特化したシステムですから。

しかしヒトの場合、上記の事情でメスだけの子育ては困難になりました。オスが子育てをメスに押し付けて別の配偶相手を探したら、繁殖機会は増えるかも知れないが、生まれた子供は育たないことになるでしょう。
メスに協力して子育てに関与する行動を発達させたオスが、結局はより多くの子供を残した筈です。要するにそれがオスにとっても適応的な行動であった訳であり、更にはメスにとってもそう言うオスを選択すことがが適応的だった筈です。
類人猿の中でも、特異なヒトの一夫一妻制はこう言う背景で生じたものでしょう(テナガザルも一夫一妻ですが、これは主に食料確保の制約によるものです。多分)。

そして一夫一妻という配偶関係をより強化する為に、ペアボンドとしての「愛」の感情を発達させたオスとメスが、厳しい環境の中で協力し合い、より多くの子供を残したのではないか。その愛の感情は子供に引きつがれより強化されてきたのではないか。

私は人間の「愛」の感情の起源はこう言う経過を辿ったのだと思います。
そして何時のことか分からないけれども、そう言った感情(シニフィエ)に「愛」の語彙(シニフィアン)が割り振られ、全体で「愛」と言う言葉、概念が出来ていったのでしょう。

一旦概念が出来ると、その語彙の使い回しで、漠然とした同じような事象を同じ語彙で表現し、その範囲を他から切り分けることになります。ピン止め効果とでも言おうか。
自己愛にしろ隣人愛にしろ、物に対する愛でも何でも、私はそうした経過でその後に出来たことだと思います。
特に日本語のような膠着語は簡単に語彙を増やし易い。そしてその過程で語義の転化が起こります。愛、哀、合い、会い、相、遇いなどはおそらくそうしたものでしょう。

なお上記内容は「愛」の感情の"起源"についての私の見解です。
人間が社会を形成し、5000年程前から私有財産を持ち、階級に分かれてからは又それぞれの制約を受けることになります。
資産があって子の面倒を召使なり他人に任せられるオス、例えばオスマントルコのスルタンだったと思いますが、ムーレイ・イスマイルと言う男は多くの後宮を相 手に888人の子供を成したそうですし、古代インカの皇帝も国中の処女を選別したとか。日本の大奥も同じようなものでしょう。
>>297;で述べた近松の心中物もそう言った文脈の中での例です。

「愛」の全てを進化人類学に還元することは勿論出来ないにしても、今の人間がおそらく共通に持っている愛の感情の基礎を理解するのに、進化の理論が役に立たないことは無い筈です

 

次に繰り返し問題になっている「愛」の問題です。
最初に事実関係だけ確認しておきます。私が論じているのは「人間の『愛の感情』の起源」の問題です。「人間の」「愛の感情の」「起源」です。308,313,319,321,327,330を見て貰えば分かりますが、このことは一貫しています。

既に繰り返し繰り返し述べていて、nn氏との間でも殆ど水掛け論になっています。私はnn氏がどのように主張されようとそれは「それでいいんじゃないの」と思っていますので、ここで特に争う積もりも有りません。
「自己愛」だか「親子の愛」だか知りませんが、そう言うものに突き動かされて大腸菌やゾウリムシが細胞分裂し、カビが胞子を作り、竹がタケノコをはやし、杉が花粉をばら撒くと理解されても、それはそれで結構です。
私はそんなものを持ち込まなくても、そのこと自体生物の本質、自然現象で、いわば利己的な遺伝子の仕業として解釈しています。

哺乳類はその定義上、全て例外なく母親の子育てが見られます。ネズミやコウモリの授乳に「母子の愛」の感情が有るかどうか、私は知りませんが、そんな感情が仮に無かったとしても、哺乳類なら必ず見られる、いわば生物としての「自然現象」です。

ゴリラやチンパンジー、ボノボに「母子の愛」の感情が有るかどうか、それは難しい問題です。しかし若しそう言う感情が有ったとして、ゴリラとチンプ、ボノボでは、全く違った内容である筈です。

ゴリラはハーレムを作り、しばしばその主(ボス)が交代します。ボスの交代によって頻繁に「子殺し」が見られ、ある報告では新生児の37%がオスによる子殺しだとの観察が有るそうです。
ボスに子供を殺され授乳が途絶えたメスは途端に発情し、子供の仇であるオスを受け入れます。「母子の愛」が先行、優先していたら考えにくい現象です。いい悪いは別としてこれはゴリラの自然現象です。

チンプやボノボ、特にボノボは乱婚によって、子供の父親の特定が難しいでしょう。そもそも父性を混乱させて子殺しを防ぐことを目的に、メスは乱婚を発達させたと言う説が有る訳です。そしてそれに対応した「愛の感情」になる筈です。
ゴリラにしてもボノボにしても、その配偶関係は、それぞれ置かれた環境による自然的な適応であって、「母子の愛」「親子の愛」の感情が有るか無いかとは又別の問題です。

ヒトは直立二足歩行と脳の増大により、メスの難産、新生児の無力化、その後の長い子育てが必要となり、メスだけでの子育てが困難になりました。
適応上、ゴリラやチンプと又違う感情が発達したと考えるのは当然でしょう。そう言う「人間の『愛』の感情」を私は論じていたのです。

ペアボンド仮説と言うのが有って、ヒトの配偶関係とその絆の起源を、私の言うように説明する説と、もう一つ、メスだけでいるとオスからの暴力に晒されるの で、特定のオスとペアを組むと言う説の二つが有るようです(「進化と人間行動」長谷川寿一・長谷川真理子-220ページ)。

本来、一夫一妻制はそれ程普通に見られる配偶関係と言う訳ではなく、どちらかと言うと特殊な形です。鳥に良く見られますが、それも抱卵、給餌、空を飛んで餌をとる訓練などなど、メスだけでの子育てが困難だからこそです。
繰り返しになりますので、これ以上は述べません。

配偶関係の研究は純粋に進化生物学的な分野だし、その中で「愛」の感情の起源を考えることは純粋に適応的考察です。
私に対し「メスを犯したくて仕方ないから」「ヤらせてくれたら育児に参加するし外敵から守るぜ」「素晴らしいエレクチオン肯定理論だ」などと揶揄するのは勝手ですが、私からするとゲスのかんぐりとしか言いようが有りません。

 

※ 関連して、2008/2/19書き込みのログ

次にnn氏から執拗に求められている「愛」の定義です。
大昔、仲間と恋愛論などをたたかわせていた頃は「相手を独占したいと思う持続的な感情」等と理解していました。
今なら、そうですね、ヒトだけでなく広く一般的な定義としては、例えば次のように言えるかも知れません。

  • 肉親への愛は「遺伝子を共有する対象への、適応度最大化に寄与するあらゆる感情」。
  • 配偶相手への愛は「遺伝子を折半する対象への、適応度最大化に寄与するあらゆる感情」。尤もこれだと、オランウータンなどに見られるレイプすら「愛」になってしまって.........、中々難しいですね。

その他、犬に対する愛、モノに対する愛など、幾らでも有るでしょう。
人によっても解釈は違うだろうし、(>>327;)でも述べたように、既にここまで発達した人間の「愛の感情」は複雑多岐に渡っていて、それを全て定義しつくすことは私にも出来ません。
nn氏が(>>338;)で述べている「子育ての経験や出産の経験や育児の経験や子供に死なれたり成長した子供を巣立たせた経験は?オムツにべったりついたウンチを処理した経験は?それが愛なんだろ?」これらも、確かに愛の発露でしょう。

問題はそれらの感情が、最初からヒトに備わっていた訳ではない、と言うことです。私はその芽生え「起源」を論じていたのです。
そしてその元々は漠然としたものから発達したであろう「愛の感情」の起源を考えるのに、現在の高度に複雑化し多岐に渡っている「愛」の全てを定義しつくさなければならないなどと言うことは有りません。
尤もnnさんが、それら愛を全て定義しつくした上で、自己愛なり親子の愛なりの起源を論じるのであれば、それはそれで結構なことです。

 

>>段々正体がバレてじわじわ包囲されてきたのに気付いてないんだろうな。 (>>338;)

 

包囲? 何か勘違いしていませんか? 私は別に勝ち負けでここに書き込んできた訳じゃ有りません。
nn氏の「包囲」は殆ど参考になりませんでしたが、私の主張に対し、間違いを指摘してくれたり、教えてくれる「包囲」であれば、それは多いに歓迎するところです。その分自分の間違いを正し、利口になれることですからね。
「ヒト起源について」の中で、私の「前適応」についての間違いをtm氏、nn氏から指摘してもらいました。私は自分の勘違いに気がついた時点で、直ぐに指摘を受け入れ、自説を撤回し、迷惑を謝罪した筈です。
私は勝ち負けや面子に拘って、間違いや勘違いしたまま突っぱねようとは思っていませんからね。

しかしいずれにしても既に水掛け論の様相であり、私も同じことの繰り返しです。
全体としても撤収モードのようでも有るし、ぶり返した私がこんなことを言うのもなんですが、今後同じことのやり取りは対応しかねる場合が有ります。勿論必要に応じてのコメントはしないでも有りませんが。

    

 

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このページは、雄が2008年2月 9日 11:57に書いたブログ記事です。

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