>スレの流れとして重要なのは、愛・妖精・キリスト教の教義・ある特定の妄想の扱い、対自然科学的認識という話ですよね。
うーん、
今一寸頭に浮かんだことを書いてみますね。だから今までの「愛」についての問題と違って、後で「訂正」と言うことが有り得ますので、その点、悪しからず。
それとgbさんの問題意識と噛み合うかどうか、それも自信は有りませんが。
愛・妖精・キリスト教の教義・ある特定の妄想の扱い、これら全ては「意識内容」です。そう言う点で実体ではない、つまり固まりのようなモノが有る訳ではない。
しかし愛と、妖精・キリスト教の教義・ある特定の妄想は明らかに違う。その違いはおそらく感覚器官を通しての意識への反映かどうか、の違いじゃないでしょうか。
唯物論の物質定義として、「意識の外にある客観的実在」と、単に言い切るだけでなく「感覚器官に与えられる」と言う条件が付きます。それは主に神に対する配慮です。
つまり、神(客観的観念論)の側は、「あなたがどう思おうが、神はあなたの意識の外に客観的に実在します」と主張する。
しかし神はどんなことをしても、どんなセンサーを持ってしても、感覚器官に与えられない。だから唯物論としては神を実在として認められない、と定義上判断・主張できるのです。
......んで、
愛の感情はその対象を、例えば恋人であろうが子供であろうが、犬であろうが物であろうが、感覚器官を通して意識に反映することで生じます。直接感覚せず頭の中で思い浮かべながら感じることも出来ますが、そのイメージは普通、過去において感覚した記憶に基づきます。
だから「愛」そのものは実体ではないが、その意識は実在的基盤を持ちます。
だから私も今まで、だらだらと人類の過去に遡って、進化人類学の知見や化石が示す実在的基盤に立ち戻って、「愛」を考察できたのです。それが正しいかどうかは又次の問題として。
勿論アプローチは色々有って、脳科学的に、ドーパミンがどうのこうのとか、心理学や様々な接近が有るでしょう。ただ私はそう言うことは全く無知で、多少知識のある進化人類学的な線から「愛」を考えてみたと言う訳で。
それは全ての自然科学の対象で共通のことではないでしょうか。
科学の仮説は全て意識内容だと言えます。しかしその対象が客観的な実在である限り、それとのすり合わせを通して真偽の検証が可能です。
唯物弁証法の「真理」の定義は、従って「客観的実在と一致した意識内容」と言うことになります。
し かし、妖精・ある特定の妄想(例えばカッパや座敷わらしなど)などは、どんなセンサーを持ってしても感覚されない。だからそれについての意識は実在的基盤 を持たない。従って論じる人によって様々なバリエーションが、際限なく繰り広げられることになり、かつその検証が出来ません。
かと言ってでは妖精やカッパが全く科学の対象にならないかと言うと、民俗学や宗教学など、今私はその分野を列挙できないけれども、様々な人文科学、社会科学の対象と して、例えば「そもそもそう言う意識内容は、どう言う背景の元に紡ぎ出されたのか」と言うようなことが研究されると思います。カッパの例は前に出しまし た。
例えば「霊」の起源は夢からだったろうと言う説が有ります。私もそれを支持します。
既に死んで肉体は無くなった筈の人、或い は遠くにいる筈の人が頻繁に「出現」する。脳や意識の働きについて全く無知だった原始時代に有って、それは肉体と同じような姿・形で、普段は肉体に付随し ているが、時にそこから遊離して自由に動き回り、死んでも肉体と一緒に滅びることの無いモノとしての「霊」なるものを想定しないと、辻褄が合わなかったんでしょうね。
それは当時の人に非常な恐怖を与えたと想像されます。人は自分の与り知らぬところで、他人の夢に出てくる自分の「霊」の所業の責任を問われることになった筈だからです。
又、一度死んだ肉体との対意として考え出された霊は、その後更にもう一度死ぬとは考えられず、その霊の居場所として、冥界とか幽界とかが考案された訳です。
だから当時の人に在って霊は、決して死後のなぐさめと言うようなものではなく、逆に非常にみじめなものとして考えられていたようです。
それが古事記やギリシャ神話に共通に見られる、冥界の描写となっています。
同じように「神」についての意識も当然その背景が考えられます。これは哲学上の大きな問題でも有ります。
と言うことで、社会科学、人文科学も立派な科学だと思う私にとって、妖精や妄想であっても考察の対象にならないことはない、と言うことですね。
どうも直ぐ横道にそれてしまいます。gbさんの興味と又大きくズレてしまいましたかね。
それと上記は唯物論的な私の解釈です。哲学的立場が異なれば全く違った見解を持つでしょう。
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