引き続きsnさんの主張に沿って、主だったところだけコメントさせて貰います。
【雄さんの論理 投稿者:sn 投稿日:2009年 3月16日(月)22時28分7秒 】
>雄さんのいう「概念的思考」というのが,「感覚できないものを思考すること」であるなら,例えば,ニューカレドニアガラスは,道具製作の途中で,「まだ存在していない道具の性質」を想定していると考えられますし,
後段についてはその通りです。
ニューカレドニアガラスに限らずですが、若し同じ種の中で道具を作る個体と作らない個体が有ったとしたら、当然作っている個体が、それによって意識が鍛えられていることでしょう。
しかし、だからと言って、その意識が「概念的思考」だと言うことでは有りません。
「道具を作る際に、使う時のことを意識する」、「木の実を隠して後で食う」、「カラスが道路に堅果を置いて自動車に轢かせて割る」等、単に目の前の感覚依存以上の意識内容と行動を、動物が示すことが有ります。
「犬が飼い主を覚えている」等も、そこには記憶を媒介とした、単なる眼前の感覚依存を超えた意識内容だと言えます。
私が思うに、それは表徴、感覚したものをイメージする能力でしょう。つまり一度は感覚する必要のある意識内容です。その点で感覚依存の延長だと言えます。
感覚したことの無いものを彼らは表徴することは出来ません(筈です。覗いて見れないので)。つまり悟性的思考の域を超えていません。
それに対し、概念的思考は必ずしも感覚を必要としない、言葉による思考・意識内容です。 だからこそ「慣性」だとか「自然淘汰」「国家」等の抽象的概念が存在するし、その概念を駆使して、一般的・抽象的に思考できる訳です。 当然のこととしてニューカレドニアガラスにこの思考は有りません(筈です)。
>滑車を作るのに必要だという「力学的な概念的思考」は「紐引き課題」や「パイプと棒を組み合わせた複合道具の製作」の延長線上にある能力だと言えるでしょう 。
ぜんぜん違います。 「紐引き課題」や「パイプと棒を組み合わせた複合道具の製作」は、仮にそれがどれだけ複雑で有ったにしろ、目の前に具体的に、感覚出来る形で問題が与えられています。つまりは悟性的思考です。
それに対し、「滑車」や「ドアを閉める行為」は、その問題の意味や意義が感覚を超えたところに有ります。必ずしも複雑さの度合いでは有りません。
そもそも、snさんご自身が引用されたURLに、非常に良い例、解説が出ているじゃ有りませんか。
【群れの形態の多様性とチンパンジーの物質文化 投稿者:sn 投稿日:2009年 1月18日(日)18時52分1秒 】
http://jinrui.zool.kyoto-u.ac.jp/ChimpHome/dougu.html
この中に、正に私が主張していることにほぼ沿った内容が掲載されていますよ。引用するならこう言うところも外さずに掲載して欲しかったなあ。
以下、その引用です。
『ヒトと比べたチンパンジーの道具使用の特徴』
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必要性の低さ...
チンパンジーはその生存のために絶対必要な道具をもっていないようだ。アリやシロアリ釣りをやらなくても、チンパンジーは生存できるだろう。石器による堅果割りについても断言はできないが、おそらく同様であろう。しかし、ヒトは道具なしで数か月以上生存することは不可能である。 -
加工程度の低さ...
チンパンジーの道具はその加工の程度が低い。また、罠のように、効果を発するときに現場にいる必要のない、いわゆる「設備」型の道具が存在しない。 - 二次道具を欠如...二次道具、つまり道具を作るための道具を欠いている。
- 重複や結合の欠如...「重複」とは、たとえば家の瓦屋根のように同じ部品を複数用いて、一個ではできない機能を持たせることである。「結合」とは、矢じりと柄のように、異なる部品をつなぎ合わせることだ。いずれも、結び合わせるためのヒモが必要である。結縛の技術はヒトの道具の進化にとって決定的に重要であった。
―引用終わり―
つまりですね………、
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必要性の低さ
以前私が述べた「動物の道具」の臨時的、不随時的な性格がそのまま述べられています。 それに対する「人間の道具」の、必然的な必要性と共に。 -
加工程度の低さ
「概念的思考」、つまり感覚を超えた思考を必要とする道具が、動物には無いことが述べられています。「設備」型の道具は正にそう言う道具です。 -
二次道具を欠如
これはよく言われていることなので割愛しますが、人間の言語訓練を受けたアイやアユム、カンジなどには、この二次道具が見られることが有ります。 -
重複や結合の欠如
これ等はもろに、滑車の例に当てはまるでしょうね。チンパンジーにはこう言う道具は作れないそうですよ。
…これらsnさんが自説の裏付けの為に引用した内容が、そのまま私の主張の補強になっている訳です。単に頭の中だけの「思案」でなく、現実をキチンと検証した議論は、自ずから現実の制約を受け、主張する側の多様性を超えて、一つの「真理」に収斂するものです。
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