神と科学は共存できるか-370

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   >>『重要な問い』に対し、科学は応えられるか否か? と言うのはそもそもこのスレッドの最初の頃からの中心テーマの一つだった筈ですよ。

>昨日も書いたことだけれど、この「文脈の誤解and or曲解」が雄クンのステキな文章理解力を如実に表している。
>「では、科学に答えられない問い(それも人間にとってとても大切な問い)に、我々はどのように答えれば・向き合えば良いのか」
>これが、本スレッドにおける最大の論点なんだよね。「科学に答えられるか?」ではないのだ。(nn氏)

その文句は(>>21;)tm氏に言ってチョ。

    

 

  >「科学は「重要な問い」については直接的にはノータッチ(判断の材料を提供するという意味では無関係とはいえない)であり、自らに判断の資格があるともみなしてにゃーわけだ。
>宗教は「重要な問い」に答えられるか否か
について、科学は判断できないし、してはならにゃーのよ。もしそれを行ったら、それこそNOMA違反だろ?(>>21;tm氏)」

 

こう云ってtm氏は明確に「宗教は「重要な問い」に答えられるか否か について、科学は判断できないし、してはならにゃーのよ。もしそれを行ったら、それ こそNOMA違反だろ?」と、自らの判断を示している。つまり「科学には答えられない」と「答えて」いるのはtm氏自身であり、ノータッチで有るべきだと 言う。

自身の見解を述べるのは自由だが、その見解を批判するのは、スレッドの論点違いだと言う。ここに度し難い二重基準が有るのだが………。
それにそもそも私は私の科学観に対するtm氏の揶揄に応対しただけ。わざわざ(>>3;)に立ち返って直接それに見解を述べた訳じゃない。
自分でレスを求めておいて、その反論の内容がどこかで述べた自分の枠組みに当て嵌まらないからと文句を付ける。
ここにも「議論の中身には殆ど立ち入ることが出来ないのに、外形的なアレコレに重箱の隅的なクレームだけはお達者」な方が、約1名、いらっしゃるようだ。

 

>科学が「価値中立」を放棄し、「価値に対する問いかけ」に答えるのであれば、それはもう科学ではなく思想や主義である。

上記の主張が科学に対する特定のイズムだと「こんなことも分かっていない可能性が(如実に)ある」御仁が、ここでも約2名いらっしゃるようだ。

「価値中立」を放棄するかしないか? 「価値に対する問いかけ」に答えるか否か? と言う時、そもそもそこに「価値」が有るかどうかの、その「価値判断」 は一体何時、何がするんですか? 神ですか? それともそれは先見的に、或いは生得的に人類に備わっていたモノですか? ん? nnさん。

この主張によれば科学が対象の「問いかけ」に答えるとき、まずそこに「価値」が有るか無いかの価値判断が事前に必要になってくる。そうでなかったら「価値中立」の放棄もなにも論理上成り立たない。ところがその「価値に対する問いかけ」に科学は答えてはいけないそうだ。

自分で科学の定義に「価値」を織り込んでおいて、「『価値に対する問いかけ』に答えるのであれば、それはもう科学ではなく思想や主義である。」とする主張が、「それはもう科学ではなく思想や主義である」と言うことになってしまうことに、どうして分からないのか?
そんな論理矛盾の無力な「科学」だから、「王様」「誰の子」「ブスの女性」「臭い」、こんなことに対してさえ解答不能となってしまう。

科学が、対象に対する有りのままの像を意識に反映することと、そこに価値が有るかどうかは、全く次元の違うことなのに。
「この子」がtm氏の子供であるか、別の誰かの子供であるかは、純粋に事実関係の問題だ。それによってどんな悲喜劇が発生するか、それは又別の問題だ。

このような、毎度毎度のnn氏のスコラ的アレコレに、逐一のお付き合いは致しかねるので、nn氏がどのように思い、私を評価なさろうと「それはそれでいいんじゃないの」とだけ申し上げて置きます。
だんだん「おたっしゃでー」の世界になって来たようだ。

    

 

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このページは、雄が2008年2月21日 14:07に書いたブログ記事です。

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