マルクス等の、呼称問題

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>日共などがマルクスの名前を原則使えないのは、マルクスのままでは現代との時間的齟齬が生じていると言うことを認めなければならないからですね。

マルクスやエンゲルスが如何に卓越した思想家であったとしても、やはり時代の子である、と言う意味でなら、上記主張は幾分かの妥当性を持つと思います。
しかし日本共産党が「マルクス・レーニン主義」の呼称を止め、科学的社会主義の呼称を使うようになった意味は、そんな矮小化された問題じゃないでしょう。

  1. そもそも時間的齟齬など当然のこととして、とっくに承認済みです。
    逆に「時間的齟齬」を無視して、彼らの片言隻句を恣意的に引っ張り出し、時代も状況も違う日本共産党の攻撃に使っているのが、一部反共的闘士の方々ですよ。

    No.9でも書いたことですが、マルクスにしろエンゲルスにしろ、或いはレーニンにしろ、その時その時の具体的な問題を具体的に分析している訳で、それをそのまま現代の日本に当て嵌めて適用しようと言うのが、そもそも土台無理な話です。
    そう言う意味で、「マルクス主義」「マルクス・レーニン主義」と言った時、ややもすると彼らの分析や命題が機械的・教条的に受け止められる危険性が有ると、自らの戒めも込めて、科学的社会主義としたんでしょうね。
    マルクスは自ら「自分は基石を置いただけだ」とどこかで書いています。つまり、後は各人がこの基石から具体的な状況の中に歩み出せ、と言うことでしょう。

    私はNo.9で「後世それを読む我々は、常に『時代とともに読む』態度が要求されると言うことでしょうな。」と書いた訳ですが、マルクスの残した言葉を丸暗記して、時代も状況も違う今の日本に、教条的に当てはめることこそが、最も反マルクス的な態度だと言えるでしょう。
     
  2. マルクスやエンゲルスが如何に偉大で有ったにしても、やはり個人の名前を冠した呼称は、社会主義政党としては相応しくない、と言う判断が有ったんでしょう。
    これは私の感想ですが、「カント哲学」「ヘーゲル哲学」「ニーチェ哲学」等、それぞれの思想家の頭の中から紡ぎだされた観念論哲学と違い、弁証法的唯物論を理論的基礎とする論理体系においては、そのよって立つ土台はマルクスの頭の中では無く、「客観的実在」です。
    そう言う意味でも、やはり個人の名前を冠した理論体系を行動の指針にすると言うのは、近代政党として相応しくないんじゃないでしょうか。

    今の綱領路線確立の中心だった故宮本顕治さんを、私は大いに尊敬はするが、それは毛沢東や今の金正日等に対する個人崇拝とはまるで違う感情です。
    「宮本綱領」等と言われたら、やはり違和感が有るでしょうね。

    マルクス、エンゲルス、レーニンの個人の名称を冠することは止めたけれども、それは彼らを隠す為ではない。そんな必要などどこにもないんですよ。
    2、3年前、ワーキングプアの拡大に伴い、日本でも一時、蟹工船と並んでマルクスブームが起きました。
    昨年後半にはNHKで、資本論の特集が放映されました。
    イギリスでの調査ですが、20世紀世界に最も影響を与えた思想家として、2位以下を大きく引き離してダントツでマルクスが選ばれています。

    私自身はマルクス主義でも、エンゲルス主義でも抵抗は無いのですが、やはり政党の行動指針にその名前を冠することとは、問題が違うんでしょうね。

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このページは、雄が2011年1月19日 11:33に書いたブログ記事です。

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