革命と上部構造、下部構造
読者からの投稿
>上部構造がくつがえるときを革命だとすれば.........、
との投稿に対しての、所感です。
上記の表現が間違っていると言うのでは有りませんが、やや漠然としているような気がします。何がくつがえる時に革命と言うのか。
余計な差しで口ですが、少し具体的な話をさせて頂こうと思います。
「革命は権力の問題である」と言う有名なテーゼが有ります。
出典は宮本顕治さんの「日本革命の展望」だったと記憶していますが...。
「権力」とは具体的に言えば、軍隊、警察、裁判所、監獄、などの暴力的強制機構。及び官僚組織、と言うことになるでしょうか。
例えば法律でいくら「やってはいけないこと」を決めたとしても、上記権力機構による強制が機能しなかったら、法律の効果は有りません。
「権力」が、ある階級から別の階級に移行すること、それが政治革命です。
逆に言えば権力の移行を伴わない、様々な闘争や改革、選挙での勝利(それはそれで、とても大切なことですが)は、革命とは言いません。
日本共産党も、一致する要求に基づく政府、民主連合政府の樹立を目指していますが、この政府を「革命の政府」とは言っていません。
日本革命における「権力論」
「権力と革命」の関係はとても重要だと思います。
その生きた実例を、日本共産党の綱領確立の課程に見ることが出来ると思います。
上に引用した「日本革命の展望」は、第七回、八回と連続して討論された綱領策定党大会で、中央委員会を代表して宮本さん(当時書記長)が報告した内容をまとめたものです。その討論の中で、一番の問題点は「目指すべき革命の性格」でした。
(...と偉そうなことを言っていますが、記憶に基づいての記述です。表現に多分に不正確な部分があると思います。お許しを)。
史的唯物論は人間の歴史が、原始共産制→奴隷制→封建制→資本主義の経過を辿って来たこと、そして社会主義、共産主義に発展してゆくことを解明しました。
当時、既に日本は独占が支配する資本主義が主要な経済体制でした。
共産党内でも一部の勢力、或いは当時の日本社会党などは、「日本は資本主義社会、それも独占の段階だから、当然目指す革命は社会主義革命であり、倒すべき権力は独占資本である」と言う主張でした。
しかし宮本さんを中心とした当時の中央委員会は、日本の現状をリアルに分析し、「日本を支配しているのは、アメリカ帝国主義とそれに従属的に同盟している日本独占資本主義である」と言う規定をしました。いわゆる「二つの敵論」です。
こんな規定は、マルクスやエンゲルス、或いはレーニンの著作のどこを見ても出てきません。日本の現状を弁証法的に解明した全く独創的な、つまり人類未踏の分野への踏み込みです。
経済的な側面からだけ言えば、確かに日本は高度に発達した、独占段階の資本主義と言うことになります。そこだけに目を取られるなら、目指す課題は社会主義革命と言うことになるかも知れません。
しかし「革命は権力の問題」なのです。 実際に日本を「権力的に」支配しているのは誰かと言うことです。
日本には、横田や横須賀など、首都圏に広大な米軍基地が有ります。こんな「独占資本主義の独立国」は世界中に日本しか有りません。勿論沖縄の現状は承知の通りです。それを含め日本中に存在する広大な米軍基地は、全て治外法権で日本の警察権も及びません。領空、領海の支配権も欲しいままにしています。
そして、日米安保条約(特に第五条)によって、アメリカ軍の起こした戦争に、日本は自動的に巻き込まれざるを得ない、と言う危険性をはらんでいます。つまり、主権の最も重要な要素である「宣戦布告権」さえアメリカに握られている、と言って良い状態なのです。
そしてその国の一番の権力だと言える軍隊、つまり自衛隊は、事実上アメリカ軍の指揮下に有ります。経済的な発展段階がどうあれ、このような状況を、真の独立国とは言いません。
※ 2004 年8月13日(金)、沖縄国際大学の本館に米軍ヘリが墜落・炎上しました。
このこと自体、沖縄の人たちの安全と財産にかかわる重大問題ですが、ここでは「権力」の問題に関わって次の指摘をしたいと思います。
日本国土である沖縄での重大事件であるにもかかわらず、事故直後アメリカ軍が現場を封鎖し、事故を起こした機体を搬出するまで日本の警察・行政・大学関係者の、現場への立ち入りを一切締め出しました。
警察は軍隊と並んで国家権力の中枢、最も象徴的な存在です。
米軍は当該事件の被疑者・加害者であり、本来なら日本の警察から取り調べを受ける立場である筈です。まして事故の起こった場所は米軍基地内などではなく、日本の主権の及ぶ、上記沖縄国際大学です。
ここで起こった重大事故の捜査から、日本の警察を締め出したと言う事実、そのことに対し本格的な抗議すら出来なかった、当時の日本政府や警察庁。
日本の権力が、そして主権が、少なくとも中枢な部分でアメリカに侵害されていることの、象徴的な現れでした。
日頃「愛国心」だの何だの声高に叫んでいる右翼の方々、「愛国」的な政治家各位は、こう言う時にこそ大いに憤慨して抗議すべきではないですかな。
勿論日本の独占は与党を通して、当然権力を握っています。 しかし完全に独立したものではなく、半ばアメリカに従属したものです。
しかも日本の独占資本主義は、世界の資本主義から見ても極めていびつで、又政治的にも、戦後の戦犯政治を引きずった、非民主的なものです。
■ 日本革命の展望
こう言う状況の中で、日本が目指すべき当面の革命として、宮本さんたち、当時の中央委員会、第八回党大会で、概ね次のような定式化をします。
- アメリカ帝国主義の支配から脱却し、完全な独立を勝ち取る。
- 独占資本の支配を排除し、政治と経済、社会に真の民主主義を打ち立てる。と言う二つの課題です(ホントに表現が不正確だと思いますが)。
これは「独立と民主主義」の課題であって、社会主義を実現する課題では有りません。資本主義の枠内での変革です。革命の性格としては「民族民主主義革命」と言う規定だったと記憶しています。
この分析が如何に正しかったか、それは今の小泉ポチの言動や(特に対米追随と、靖国参拝に見る戦犯政治の踏襲)、3422で私が論じた日本独占資本の弊害を見れば分かるでしょう。
勿論、細かい部分での修正や変更は有り得る訳で、今回の綱領の改訂はそう言う範囲の問題でしょうが、基本的な部分での変更を全く必要としない。
凄いですね。
■ 革命と言う用語について
ある業界、或いは文化のジャンル等で本来専門の用語が、転じて世間一般に広く使われるケースは多々有ります。
例えば「土壇場」と言う言葉は「後の無い、進退窮まった状況」と言うような意味で広く使われていますが、もともとは江戸時代、罪人が首を落とされる時に座らされる場所のことでした。今は逆に語源を知らずに使っている人の方が多いかも知れません。それはそれで構わないでしょう。
しかしだからと言って、例えば「日本処刑史」を論じる場所で、世間ではこうだから、と言って、その解釈を持ち込んでしまっては議論が薄まります。
私も勿論日常的に、「情報革命」や「意識革命」と言った言葉を使います。「おっ、革命的だな」と言うような言い方も頻繁にします。
しかしやはり、「マルクス主義」を語る場所で、それも史的唯物論を論じる時に、そういった「広い」解釈を持ち込むのは、ますます議論を曖昧にしてしまうような気がします。
手元の「社会科学辞典(新日本出版社)」(もう相当昔のものですが)で、「革命」を見て見ましょう。
「広い意味では古い経済的社会構成体を覆して新しいより高度の経済的社会構成体を打ち立てること(社会革命)。
狭い意味では、一階級ないし諸階級から他の一階級ないし諸階級に国家権力が移動すること(政治革命)である。
革命の根本問題は権力の問題である。(以下略)」
と有ります。
>私は社会革命を指し、「ひとつの法的かつ政治的な上部構造」の崩壊の過程で私たちが考えるべき、取るべき方法を示唆したものと受け取ります。
...で、勿論間違いと言うことではないのですが、革命を言葉として「解釈」するのでなく、ひとたび革命を「実践」する、と言う立場で考えた時、権力との関係抜きに革命は論じられない、と思ったのです。
正に、宮本顕治さんの「日本革命の展望」は、そうした立場での分析でした。
■ 解釈と変革
>上部構造がくつがえるときを革命だとすれば.........、
例えば傍観者なら或いは試験の答案なら、上記のような表現も有り得ると思います。
しかし、革命は自然現象では有りません。ある階級と別の階級が権力をめぐっての命がけの闘いです。
つまり「くつがえす側」と「くつがえされる側」とがいます。同時に傍観者もいます。
マルクスは「フォイエルバッハについてのテーゼ」と言う自分自身の覚書の第11テーゼで、「哲学者たちは世界をいろいろに解釈してきただけだ。肝心なことは、世界を変革すること」と、テーゼ全体を結んでいます。
若し自分を、世界を変革する側に置いたとき、「権力」と結びつかない、一般的抽象的カテゴリーとしての「革命」は、多分有り得ないでしょう。
宮本さん自身、12年間の獄中生活を黙秘で戦い抜きました。
小林多喜二は逮捕されてから2日後に死体で返されました。
■ 革命と権力
「哲学者たちは世界をいろいろに解釈してきただけだ。肝心なことは、世界を変革すること(フォイエルバッハについてのテーゼ)」は、マルクスが自分自身の覚書として走り書きしたものですが、私のような「傍観者」だけでなく、全ての活動家にも常に立ち返って見るべき重要なテーゼである、と思う次第です。
再度引用します。
>上部構造がくつがえるときを革命だとすれば.........、
つまり「上部構造がくつがえるときが革命である」と言う命題は、確かに間違いでは有りません。しかしやはりこれは「解釈」です。傍観者、例えば高校生が試験の解答として書くことも出来るでしょう。
しかし若し「変革」の立場に立って考えた時、上記命題は必然的に、「では、革命、つまり上部構造をくつがえすには、どうしたら良いか」と問題を立て直さざるを得なくなるでしょう。
そしてその立場に立ったとき、始めて「革命は権力の問題である」と言う深刻な実践的命題に、否応無く対峙せざるを得なくなるのではないでしょうか。
ここに、「産業革命」、「情報革命」などの世俗的革命論が入り込む余地は全く無い、と私は思うのですが、どうでしょうか。
つまり、「変革」の立場に立って考えた時、曖昧で漠然とした要素がそぎ落とされて、否応無く本質が見えて来るのではないでしょうか。「論理的カテゴリー」が「実践的カテゴリー」に発展、或いは深化する、と言っても良いかも知れません。
そしてこのどちらに立って見るか、と言うことが単に議論上の問題に留まらず、決定的な実践的結果に結びつく、と言う生きた例として「日本革命の展望」を上げました。
「経済的解釈論」からすれば、日本は「高度に発達した独占資本主義の国」だから当面する革命は「プロレタリアート社会主義革命」と言うことになるかも知れません。実際多くの勢力がそのように主張していました。
宮本顕治さんを始めとした当時の中央委員会は、日本を支配している「権力」に着目して「民族・民主主義革命」を主張しました。
今、日本国民が陥っている困難は、社会主義が実現されていないから、では有りません。アメリカの支配と、日本独占のルール無き資本主義的支配の為です。
勿論、社会主義が実現すればこの問題も根本的に解決されるかも知れません。しかし日本の多くの国民は、当面する困難と矛盾を超えて、その先の社会主義を直ぐに望んでいる訳では有りません。
最初から「社会主義革命」を標榜して、それに基づく実践をしていたら、国民の気分と合わず、今頃消滅していたかも知れません。 多数者革命など夢の又夢ではなかったでしょうか。
左翼日和見主義
日本は高度に成長した資本主義国だから、目指すべき革命は、社会主義革命だ。との主張は一見中々「戦闘的」で「左翼的」で有るかのようです。
しかしこの規定から出てくる実践的課題、敵とすべき対象は、日本の独占資本だけとなります。最も困難な敵、アメリカの帝国主義的支配がスッポリ抜けてしまいます。
実際に「社会主義革命」を目指していた筈の日本社会党は、自社さ政権での村山首相(社会党党首)の時、安保条約を容認してしまいました。最も困難な敵との闘いを回避する、戦前の天皇制に対する態度でもそうですが、社会民主主義政党の堕落は、そう言うギリギリのところで必ず露呈します。
社会党から名前を変えて、生まれ変わった筈の社民党は、民主党との連立のうまみを忘れられないらしく、連立離脱後も限りない妥協の道を歩んでいますね(2010/11 記)。
■「革命と権力」に関連して.........、
>しかし、法的、政治的なものは上部構造であり私たちが語る「革命」すなわち土台の変革がなければ「権力の奪取」は不可能です。
この点は同意出来ません。
確かに、資本主義まではそう言う面が有りました。
封建主義社会、資本主義的社会に限って見て見ましょう。
封建主義社会は、封建的土地所有を基礎とした経済体制で、もともとは自給自足の生産様式ですが、封建的生産様式の中で、生産力の増大に伴い次第に商品生産が発達してゆきます。
最初は余剰農作物などからだったのでしょうが、やがてはギルド的手工業を経てマニュファクチュアへと、商品生産・商品市場を広げてゆきます。
ギルドは、同職組合を作って特権を守っていた親方と、身分的に従属する少人数の徒弟、職人によって営まれていましたが、マニュファクチュアは、一つの工場に働く人を集め、分業で生産し賃金を支払う形でした。
そしてその中から、資本家と賃労働者も形成されて行きます。
細かいことは一切省きますが、要するに封建的生産様式の中に、それと並存する形で資本主義的商品経済が生成・発展してゆく訳です。
資本主義的生産様式の発展は、封建主義的上部構造とぶつかることになります。
封建的上部構造の特徴は、厳格な身分制度と農民の土地への縛り付け、或いは細分化された封建領土などでしょう。そしてその上にその制度を反映した文化、イデオロギー、雰囲気等が形作られます。
横道にそれますが、江戸時代に近松の浄瑠璃で、心中物が大流行しました。
当時、恋愛・結婚の自由は固くご法度でした。なぜなら身分の違うもの同士が結びついて出来た子供は、どちらの身分に所属するのか、と言う深刻な問題を含むからです。そんなことを繰り返したら、身分制度など、すぐに崩壊するでしょう。
そうは言っても身分の枠を超えて好き合う男女はいる訳で、そう言う二人は厳しく罰せられ添い遂げることは出来なかった訳です。その結果心中が流行ることになります。
それは兎も角、資本主義的生産・商品の流通は、封建的束縛と正面からぶつかることになり、やがて最終的には革命と言う形でその制約を打ち破って行きます。
イギリスの名誉革命、フランス革命などを通してブルジョアジーが権力を握る訳です。この場合は土台の変化が先行し、革命で決着することになります。
投稿者さんご指摘の経過をたどる訳です。
しかし、資本主義から社会主義への移行はそう言う過程を取ることは出来ません。
つまり資本主義的経済体制の中に、それと並存する形で社会主義的生産様式が発達すると言うことは有り得ないのです。
もともと社会主義は階級を否定する制度ですから、階級社会である資本主義と同居出来る訳が無いのです。つまり、投稿者さんの言われるように、土台の変革が有ってから権力を奪取すると言うことは有り得ません。
社会主義革命は従って、先ず最初に政治権力の奪取から始まります。そしてその権力を使って土台の経済的生産関係を変えて行く過程が始まります。
つまり政治革命が先行するのです。
勿論政治革命に先だって、土台である経済関係の変化が一定の進行を見せることは当然です。
しかし革命の決着は上部構造で付くのです。次にその辺について述べます。
■ 再び革命と権力について
> しかし、法的、政治的なものは上部構造であり私たちが語る「革命」すなわち土台の変革がなければ「権力の奪取」は不可能です。
社会主義への移行においては、政治革命が先行し、その後の長い土台の変革、つまり社会主義建設が始まる、と言う命題は議論の問題でなく、事実の問題でしょう。
今までの全ての社会主義革命は、政治権力獲得に先立って、土台が社会主義化していた国は只の一つも有りません。
日本でも、例えば先日の普天間における米軍のヘリ墜落と、その後の処理に見られるように、日本の警察さえも立ち入れないような、事実上占領下にある状況の中で、その権力をそのままにして、土台を社会主義的に変革できる、などということは有り得ません(上記コラム参照)。
繰り返しますが、資本主義経済体制の中に、階級廃止を目指す社会主義経済体制が並存し、成熟してゆくと言うことは有り得ませんし、そう言う例は過去にも現在にも皆無です。
ロシアでは革命により、政治権力は握りましたが、スターリンによりその権力が悪用され、社会主義建設は完全に変質、葬り去られました。
中国も毛沢東の時代、完全に逸脱しましたが、現在は市場経済を取り入れた、中国なりの社会主義建設を目指し、その長い過程を進んでいます。
コンビニでのPOS端末で、或いは各企業が計画的な生産や仕入れをしているのは当然です。それはあくまでも個々の企業の利益の為に使われているだけです。
個々のコンビニ同士で、企業同士では競争で、それぞれの間に「計画経済」など有りません。
しかし確かに、コンビニの技術は、社会主義になった時の生産、供給計画に多いに役に立つでしょう。ITやインターネットの普及、株式会社の成長・巨大化つまり生産の社会化、そこで日々鍛えられ資質が向上している労働者など、総じて資本主義の発展は社会主義を準備する条件になるでしょう。
又、不景気や恐慌、戦争、公害など、資本主義の弊害の深まりは、人々の意識の中に社会主義を志向させる契機にはなるでしょう。
しかしいずれにしても、
> ―― ―― まずもって政治権力を奪取しなければならない。
のでは無いでしょうか。
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