ヒト起源について-16

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RE nnさん

人間をどう見るか?と言う問題は、哲学に関わる大きな問題で、さまざまな立場が有り得ますね。
nnさんの見解はそれとして大いに尊重し、参考にさせて頂きます。

私はやはり、人間は(個々の生物が、それぞれに特殊と言う範囲を超えて)、特殊な存在だと言う立場です。

 

【道具】

道具を使う動物は結構観察されています。或いは道具を作るケースさえ観察されています。
そこには人間の道具との共通性とともに、やはり大きな質的な差を感じます。

人間にとって道具の持つ意味は、私は二つ有ると思っています。

  1. 道具を作ることを通して、意識を鍛え脳を増大させた
    道具を作ると言うことは、仮にそれがどれ程幼稚なものであれ、それを使うことを予想し、その目的に適うように目の前の材料を加工する、と言うことを意味します。

    目の前に飛び出してきた獲物を、反射的に捕らえると言った目先の具体的な現象を「感覚」するだけでなく、将来使うであろう時のことが予想出来なくてはなりません。つまりは抽象的な「認識活動」が不可欠です。

    或いは、石を割って石器を作ると言う行為は、目の前に有る材料としての石が、石器にとって必要な、「硬い」と言う、既に存在している性質を認識する能力が当然必要です。
    同時にそれだけでなく、「尖った形」と言う、未だそこに存在していない性質までも認識する能力が必要です。

    目の前の、今現在、直接的に感覚出来ることを脳に反映するだけでなく、将来の予想される出来事、目の前に未だ存在していない要素までも反映する能力。道具を作り、使うことを通じて、幾世代もの時を経て次第に人間の意識が、つまりは脳が鍛えられて来たのだと思っています。

    又道具を作り、使うと言うことは手先の器用を促します、それは又、おそらくその働きを司っている中枢神経・脳の発達を促すことになったでしょうね。
    道具は人間が作るものですが、同時に道具が人間をつくったとさえ言えるのではないか。

    つまりは、最初に頭が良かったから道具を作ることが出来たのではなく、道具を作る過程で抽象的思考、理性的段階の認識に至る道が開けていった。そう言う認識です。
    化石が示す、脳容量の増加過程と出土する石器の進化(オルドワンなど)も、それを裏付けていると思っています。
     
  2. 道具を使って自然に働きかける道に踏み出した巨大な意味
    道具は身体器官の延長・代用だと言えるでしょう。

    ※、道具をさらに二つに分けて、マニュファクチャまでの、狭い意味での、手の延長としての「道具」(例えば、金づち、斧、ヤットコなど)と、産業革命以降の、手の代用としての「機械」に分けて考える場合も有ります。

    身体器官と比較した場合の道具の特質は、その発展が遺伝子DNAの変異に依存せず、社会的な知識や技術の集積によって、急速に限りなく発達させることが出来る点です。
    恐竜の前足が羽根に変化し始祖鳥になるまでに、何万年或いは何十万年掛かったか、正確なところは承知していませんが、羽根の代用としての航空機は、ライト兄 弟の初飛行から僅か100年位しかたっていないにもかかわらず、今や月に人間を送り、太陽系の最外部を覗うまでになっています。

    生物学的には、ヒトとチンプの遺伝子的差異は1%とも1.6%(2012現在、1.23%の差と判明)とも言われていますが、その遺伝子的差異を乗り越えてのこの違いが、道具による(身体器官 の)発達だと、私は認識しているところです。
    そう言う意味で私は、やはり人間は特殊な、つまりは社会的な存在ではないか?、と言う立場です。

    その社会に、生物学的な法則を機械的に持ち込んで解釈しようとするのが、「社会ダーウィニズム」であろうと思う訳です。
    道具は全て記号であり、記録性を持つと言うnnさんのご指摘は、新鮮な見解として受け止めました。今まで問題意識に無かったことです。 見解の相違は有っても、こう言う議論は有意義だし、楽しいですね。

【言葉】

言葉については、tm氏もおそらく一家言お持ちで有ろうと思いますが.........、

道具と同じく「コトバ」を使う動物も又多く観察されています。
イルカ、クジラ、或いは多くのサルたち。
ある観察によれば、ニホンザルにも30くらいの「コトバ」が有るそうですね。
しかしこれら動物の「コトバ」と比べ、人間のそれはやはり質的に異なるもののようです。

動物のコトバは危険通報や求愛など、本能的な行動(今生物学では、本能と言う言い方はしないらしいのですが、便宜上)と密着していて、そうでない後天的に獲得した知識、例えば幸島のサルのイモ洗いなどは、コトバでなく身振りで伝達されるそうです。

人間の言葉の特質として、2つ挙げられるようですね。

  1. 分節(文節では有りません)

    人間の言葉は、それを構成する単語に分けられます。さらに単語は、それを構成する音に分けられます。
    これを人間の言語の「二重分節」と言うそうなのですが、要するに限られた要素(音で言えば、50音と言われる通り100前後、単語なら数万)の組み合わせで、無限の意味内容を、将来に渡っても表すことが可能だと言うことです。

    動物のコトバには分節が無いそうです。
    確かに二十種、或いは三十種類の、異なる鳴き声を使い分けることが出来ます。しかしその鳴き声は、それに対応したそれぞれ特定な、1つの意味内容しか表すことしか出来ず、それを組み合わせて使うことはできません。
    つまり、30種類の鳴き声のバリエーションが有ったとしたら、伝える意味内容も又30種類に制約される、と言うことです。

    近年の、スー・サベージ・ランボー博士の有名な研究、天才ボノボのカンジ、パンバニーシャ、或いは京都大学霊長類研究所、松沢博士の、アイ、アユムなどのチンプに於ける、キーボードを使っての言語訓練で、この同胞たちが分節を獲得してゆく過程が見られます。
    同時に、下でも触れますが、抽象的思考も獲得してゆくようです。このことは「人間」言語なしには高度な思考が難しいことの、逆な方向からの説明になります。非常に興味深いものとして、TVの特集番組を見た次第です。
     
  2. 恣意性

    人間の音声言語に特有な性質として、恣意性が挙げられます。任意性と言っても良いでしょう。
    つまり「単語」と「音」には、それをあらわす事柄との間に何の必然的な結びつきが無いと言うことです。
    だから、樹木のことを、日本では「キ」、イギリスでは「トゥリー」、フランスでは「アルブル」と言うようなことが有り得る訳です。

    それに対し動物のコトバは、本能に直結したものである以上恣意性を持たず、その鳴き声(コトバ)は、それを表す内容と本来的に直結しています。
    敵に対峙した時の鳴き声は甲高く、ボスに恭順の意を表す場合には低く柔らかいものになるでしょう。
    そう言う意味で、群れを超えて、いや種まで超えて共通だと言えるかも知れません。
    言葉を未だ知らない赤ん坊の泣き声で、何を言いたいかある程度判るのも、その泣き声に恣意性が無い為です。
    ペットを飼っている人は、日常的にペットとの意思疎通を感じていることでしょう。

    対象と直結していることは、動物の鳴き声が、情報を伝える機能と言う点で優れていると言えます。上述したように、そのコトバを知らない人間にさえ、ある程度は伝わる訳ですから。
    しかしこの、恣意性の無さは、動物に抽象的思考を与えるのを妨げます。

    言語の研究としては、幼児の言語獲得の過程、及び未開部族の言語がよく対象とされるのですが、ある未開種族のことばには「足」と言う単一の語が無くて、その代わり「人間の足」、「犬の足」、「カラスの足」などを表す、それぞれ別の語があるということです。
    例えばの話ですが、人間の足を「アポ」、犬の足を「メトカ」、カラスの足を「クン」と呼ぶ、と言うようなことです。
    つまり、我々の言語からすれば、恣意性の不完全さが見られる訳です。

    確かに人間と犬とカラスでは、足の形は随分違っています。感覚内容に応じて、それを表す言葉を使い分けることは、感覚対象に忠実であるという点で、未開種族のことばの方が優れていると言えます。
    だが、このようなことばの具体性は、逆に抽象的思考の未発達に照応するものです。

    形 にとらわれず(つまり感覚内容に密着せず)、それが動物の身体の中でどのような部分であるか、と言うことの共通性に注目することが出来れば「足」と言う単 一の語が生まれる筈であり、今日の文化的諸民族のことばは全てこのような、具体的・個別性から一般的共通性へという発達の道をたどって形成されて来たもの と考えられます。

    つまり、「足」のような単純な語の中にも、過去の人類が行ってきた思考の発達の成果が内臓されている訳です。
    我々が、ムカデのあの爪のような形のものを見て(感覚して)、「足」と言う「ことば」を媒介としてとらえている時に、そこには既に過去の人類が行った抽象的思考の成果が入り込んで来ているのであって、ただの感性的認識-視覚ではないと言うことなのでしょう。

    恣意性なくして概念の形成は有り得なかったし、ひいては概念的思考、抽象的思考は有り得なかったと認識しています。

やはり、道具と言葉は、ヒトを人間にした二本柱だというのが、私の立場です。

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このページは、雄が2007年9月 2日 08:14に書いたブログ記事です。

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