杉並地内水路網(暗渠の迷宮)ー始めに
三つのエリアの「暗渠の迷宮」
切っ掛けは桃園川
ここで取り上げるのは、妙正寺川源流部の井草川水系と神田川支流の桃園川水系、及び善福寺川沿線の「旧ニヶ村」を中心とする、都合杉並地内3つのエリアです。
下掲「全体の地形図」を見て分かるように、杉並地内には水路跡が暗渠として至る所に残っている。下図は実際私が歩いてみたルートだが、これ以外に見逃している流路も相当有るだろう。
「神田川水系」「善福寺川」から特に項を別にして、「杉並地内暗渠の迷宮」を建てた切っ掛けは桃園川です。神田川を辿っている中で末広橋脇に合流している桃園川の存在に気づき、現在緑道として整備されている桃園川跡を歩いてみた訳です。良く整備された1本道だから簡単に終わると思った。
ところが………、最初単純な1本道だ思っていた桃園川が、実はその両岸に網の目のような支流網を持っていることが分かり、その「暗渠の迷宮」にスッカリ足を取られてしまった訳です。
しかも調べているうちに、以前歩いて、その時は全く別のものと思っていた井草川水系の「暗渠の迷宮」が、六ヶ村分水を通して密接な繋がりが有ることが分かり、更には善福寺川からの天保新堀用水が、桃園川下流域の三ヶ村を潤しながら桃園川に注いでいることも分かった。天保新堀用水はトンネルで青梅街道を抜けると言う奇想天外な着想と工事だったことも分かって来た。
…と言うことで、この3つのエリアの「暗渠の迷宮」を独自の項としてまとめてみた方が、その繋がりが分かりやすいと思った次第。
お陰でスッカリページ数が嵩んでしまった。
井草川・桃園川水系
西は杉並区の上井草辺りから東の神田川まで、帯状に浅い谷が広がっている。「荻窪」「阿佐ヶ谷」或いは「天沼」などの地名にその名残を残す。かってこの谷筋に水田が広がり、当然その灌漑用水路が設けられていた筈だが、灌漑用水路の宿命として、田んぼ1枚1枚にまんべんなく水を供給する為の流路は細かく枝分かれし、細流が「鹿の角」状態になっていたことだろう。その痕跡が「暗渠の迷宮」として、妙正寺川の源流部である井草川水系と、桃園川水系の二つのエリアの至る所に見られる。
勿論、水田耕作がとっくに仕舞いとなり市街化・宅地化された現在、かっての水路網を忠実に辿ることなど到底不可能だが、杉並区の方針なのかどうか、かっての主要な水路が相当部分暗渠として残り、一部緑道として整備されている。他の地域と比較してもおそらく保存状態は特筆ものだろう。
時間の流れと市街化に埋もれ、至る所で切断され、又思わぬ所で唐突に出くわす水路痕跡。おそらくここで取り上げている以外にも見落としている水路・暗渠が相当有る筈だ。
この「暗渠の迷宮」を、ただ漠然と歩いているだけではその繋がりも総延長も、全体像も全く把握できない。写真のGPSデータを地図上にプロットして初めて繋がりがおぼろげに見えてくると言った次第(下掲撮影Map参照)。
六ヶ村分水
最初二つのエリアを別々に歩いていた時には、確かに「暗渠の迷宮」と言う共通点はあるものの、そこに密接な関係性があるとは思っていなかった。
必要に迫られて調べてゆくうち、二つのエリアには「六ヶ村分水」と言う水路を介して、切り離せない繋がりが有ることが分かった。二つのエリアとも、水路の主要な源流部は、六ヶ村分水からの分水口でもあったのだ。
武蔵野台地上の河川に共通だが、井草川にしても桃園川にしても元々は自然の湧水をほぼ唯一の源流とした、決して大きいとは言えない川であり灌漑水路だった。
昔はこの地の湧水も比較的多かったかもしれないが、国分寺崖線や立川崖線沿いと違い、浅い谷筋のこのエリアの湧水量には元々限りがあった。雨水だけを頼りの天水田も有ったのだろう。それを補う為江戸中期、宝永四年(1707)、千川上水から分水路を掘削、安定した水源としたのが六ヶ村分水だった。六ヶ村とは、上井草、下井草、下荻窪(荻窪)、天沼、天領(鷺宮)、阿佐ヶ谷であり、今回取り上げる二つのエリアがそのまま重なる。
六ヶ村分水は功労者の名前を取って「半兵衛・相沢堀」とも通称され、千川上水から天沼口までの上流側を半兵衛堀、それより下流、阿佐ヶ谷口までの間を相沢堀とし、その分かれ目の天沼口を「追分」と呼ぶ。
天保新堀用水と胎内堀
六ヶ村分水によって井草川エリアと、桃園川の阿佐ヶ谷地内迄は、何とか潤った訳だが、更にその下流域の馬橋、高円寺、中野の三ヶ村にはその恩恵が充分には行き渡らなかった。元々千川上水そのものが、小石川御殿、上野寛永寺など江戸北部への飲料水供給を目的とした、玉川上水からの分水路であってみれば、その孫堀とも言える六ヶ村分水への配水量には限りが有ったのだろう。
三ヶ村は協議の上、代官所からの援助も受け、善福寺川沿線のニヶ村(田端村、成宗村)との交渉も経て、新たに善福寺川からの用水路を引くことを計画する。
ただこの工事には大きな障壁が有った。善福寺川から三ヶ村への間には青梅街道が通る高台が立ちふさがっていた。その高さ約2.5メートル。山と言う程の高さではないにしても、ポンプなど揚水設備の無かった時代、常に最も低きを流れる水にとっては決定的な壁となる。 ここで画期的な、と言うより奇想天外な施工が着想される。その方法とはトンネル(胎内堀)で高台を抜けると言う案であり、その実現が馬橋村の水盛大工大谷助次郎に委ねられる。助次郎は高い技術と苦労の末それを成し遂げて天保新堀用水は完成、その水は三ヶ村22町7反歩の水田を潤し、大正時代まで続いたと言う。
天保11年堀と12年堀
最初に掘削した天保11(1840)年の水路は、なんとカワウソの巣穴を原因とする漏水や、大雨による土手の崩壊などで、翌12年、ルート変更を含む再掘削工事が行われて最終的に完成する。
水路の水は一旦、成宗弁天池に落とされ、用水路とトンネルで青梅街道の高台を抜ける。
トンネルの痕跡は市街化に埋もれ現在全く確認できないし、わたしが歩いた範囲では天保新堀用水の水路跡も明示的(看板や碑文)には判別しがたい。
青梅街道以北の天保新堀用水
青梅街道の高台をトンネルで抜けた天保新堀用水は、杉並区役所裏のパールセンター商店街脇で顔を出す。この先東にカーブしながら北上して東橋の地点で桃園川に注ぐ。
このコースは児童公園、緑道などとして整備され、ハッキリした水路跡として確認できる。
善福寺川沿線、旧ニヶ村の「暗渠の迷宮」
天保新堀用水の堰が設けられた善福寺川北岸のエリアにも、井草川・桃園川水系に劣らない水路跡・暗渠・緑道が多く残っている。元々このエリアはニヶ村( 田端村、成宗村)の水田が広がっていた訳で、灌漑用の水路が走っていた筈だ。天保11年堀も既存の水路を一部利用したらしいし、逆に廃止になった11年堀を後年別の水路として利用したケースも当然考えられる。
事実、天保用水広場堰の上流、春日橋付近に堰の跡とそこからの水路跡・暗渠道が見られるが、それが矢倉台地の南側を迂回する所の水路跡・暗渠道は11年堀コースと重複する。
全体の地形図
クリックすると拡大表示されます。全体が把握できるよう、巨大な図になっています。スクロールしながらご覧ください。
水路名などの文字をクリックすると、関連したページが開きます。
二つのエリア、撮影Map
クリックするとGooglemapと連動して表示されます。
2018年、突然Googlemapでの表示が不調となり、解決の方法も有りません(Googleの仕様変更かも)。しかしmap上の位置関係は判別できますので、引き続きそのまま表示します。
妙正寺川源流部(井草川水系)エリアと、桃園川水系エリア全ての写真を掲示しました。1000枚以上ですから読み込むのに若干の時間が掛かります。
妙正寺川源流部(井草川水系)エリア撮影Map
桃園川水系撮影Map
六ヶ村分水と6つの取水口
六ヶ村分水(当初は七ヶ村、明治に入り中村が抜けて、六ヶ村)は、現在の関町1丁目交差点辺りで取水し青梅街道のに沿って流れていた、千川上水の分水路。途中6箇所の分水口が設けられ、そこから網の目の水路によって水田を灌漑していた。千川上水から見たら孫・ひ孫水路網になる。
ここでは千川上水からの分水口を含め、各分水口を上流から見てゆく。地上からでは位置関係が分かりづらいので、Google先生の助けを借りて航空写真を表示しておいた。
六ヶ村分水路は青梅街道に沿って流れていたのだが、青梅街道は当時と比較にならない程に拡張整備されている。六ヶ村分水もそこに埋もれてしまって全く痕跡を留めていないし、各分水口も殆ど痕跡を残していない。
今に残る下流部の水路跡(暗渠)から推測して、分水口の位置を判断するしかない。
又6つの分水路のうち特に「四面道口」は、分水口もその先の水路も、痕跡が乏しい。
六ヶ村分水、千川上水からの分水
練馬区上石神井1丁目27、青梅街道と千川通りが交差する関町1丁目交差点。ここが六ヶ村分水の起点となる。
善福寺川への助水
千川上水はここ、青梅街道に掛かる伊勢橋地点まで開渠で流れて来て、この先は暗渠(千川通り)のなっている。開渠部を流れる水は清流復活事業による高度処理の下水で計画水量は10000㎥とされている。
現在この水は全てこの地点で回収され導水管によって善福寺池池尻(善福寺川スタート)に助水されている。かっては暗渠部の千川通りにも一部流されていたようだが、現在は止められていると言う。
六ヶ村分水には現在、当然水の供給はない。
切り通し口
一番上流側の分水口であり、切り通し公園からの湧水も合わせ、井草川の最上流部「妙正寺水系-1」に繋がる。
柄杓屋口
現在確認できる水路跡(暗渠)は桃井1丁目19番、桃井公園脇から。
杓子屋口の痕跡は全く分からないが、桃井公園から上流側を推測して、柄杓屋口はこの地点だろうと判断。
清水口
清水口の入り口はほぼ明確に判断できる。ただ知らない人にはここが歴史的な遺構跡だとは全く思えないだろう。
青梅街道と環八が交差する四面道の環八脇から、ひっそりと始まる。
四面道口
なお青梅街道の反対側(南側)に「四面道口」が有ったとされている。
両側に分水出来るということは、青梅街道が地形の峰筋を通っていた為に他ならない。
ただ残念ながら四面道口とその先の水路跡の痕跡は殆ど見られない(私には分からなかった)。四面道口かな? と憶測される部分と、荻窪白山神社に残るわずかな水路跡だけ掲載しておきます。
天沼口
天沼口は神田川まで続く桃園川の始まりであり、青梅街道脇から始まる水路跡(暗渠)を確認できる。又ここは「追分」とも呼ばれ、上流側の半兵衛堀、下流側の相沢堀の分かれ目だった。
阿佐ヶ谷口
六ヶ村分水最後の分水口。
青梅街道側からは全く分からないが、水路跡(阿佐ヶ谷川)を辿って来て初めて確認できる。
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