武蔵野台地

 

多摩川が作った扇状台地

玉川上水も野川もみんな武蔵野。少し武蔵野の全体像を考えてみたい。って、そもそも「武蔵野」ってなんなんだ?

    

 

※ 関連ページ「当てにならない関東平野論」

武蔵野台地の理解の為には、どうも関東平野全体の成り立ちを知る必要が有るらしい、と言うことに気づき、地質学門外漢の管理人が自分の頭の整理用に別途ページを用意しました。
書籍やNetからの引用、孫引きに、管理人の独善的な解釈を加えてのもので全く当てにならない雑文です。関心のある方は併せてご覧ください。
「関東平野・武蔵野」私的覚書

 

地形図

最初に武蔵野のほぼ全体の地形図を表示しました。
Googlemapや紙の地図だけでは掴みにくい武蔵野の輪郭が、周囲の低地(沖積面)とハッキリ区別できる形で見て取れると思います。
北の荒川、南の多摩川に挟まれた、なんとなくマッコウクジラの頭のような形をした台地状のエリアが武蔵野台地です。

下の図をクリックすれば、拡大表示されます。使用しているパソコンにもよりますが、通常2段階のサイズで表示され、クリックで大・小切り替わります

ポイント詳細図

下の図とは別に、サイトで取り上げている主な場所(ポイント)の詳細図を用意しました。巨大な図です。スクロールしながらご覧ください
図の中で表示されている四角形をクリックすると、その場所の詳細図が表示されます。

 

武蔵野地形図.jpg

 

 

※ KASHMIR 3D

当サイトの地形図は、DAN杉本さん作成のKASHIMIR 3Dを使用しています。
高機能地形アプリです。さまざまな地形データを基に立体表示したりその断面図や俯瞰図などを作成出来ます。しかも何とフリーウエアです。但し使いこなすには市販されている解説本を購入した方が良いでしょう。

上掲地形図でクリックによって表示される「詳細図」は、国土地理院の5メートルメッシュ標高データを元にKASHMIR 3Dによって立体視覚化されたものです。現在のところ最も精細な標高データです。

 

武蔵野台地の地形と地質

武蔵野台地とその範囲

「武蔵野」と一口に言ってもその範囲には多少の意見の違いがあるようです。ここでは一応、「北(北東)の荒川、南の多摩川、西は秩父・奥多摩山塊の根元、東は隅田川に挟まれた、主に台地状をなしている地域」と言う感じで進めます。これで多分大きな間違いは無いでしょう。実際上の図で示したように地形を視覚化した時、それは否応ないものとして納得できます。
この台地は古代の多摩川が作りだした扇状地で、西の秩父・奥多摩山塊から急に開けた青梅を扇頂に、大きく南東に広がっています。青梅を中心としたきれいな同心円になっていないのは、関東造盆地運動によって、武蔵野台地の北東部が沈降してきた為です。これは玉川上水のコース取りにも影響することですが、後に触れます。

 

台地の成り立ちと地層

上総層群

上総層群(かずさそうぐん)は関東地方の広い範囲で基盤をなしている海成堆積層です。第三紀鮮新世(約500万年前から258万年前)~第四紀更新世(約258万年前から約1万年前)古期までに形成され、砂岩、泥岩および凝灰質砂礫などからなっている(そうだ)。100万年以上の海底堆積で非常に固くしまり厚さは2000メートルにも及ぶ。

「上総」は今の千葉県の地名で、房総半島を模式地(地層の標準となる露頭がみられる特定の地域)としているので「上総層群」と呼ばれる訳ですが、東京湾の底を通じて関東平野のほぼ全体の基盤となっています。多摩丘陵(例えば生田緑地)、狭山丘陵などで地層の露呈が見られます。

東京の上総層群

東京では上記狭山丘陵などを除いて、特に陸上部分では通常この上総層群を見ることは有りません。
武蔵野台地(武蔵野面、立川面)では、この台地を形成した扇状地層が上総層群に重なり、更にその上を関東ローム層が覆っています。

東京で上総層群を見ることが出来るのは、多摩川流域の昭島宿河原などの河床、他に神田川面影橋から下流域仙川氷川橋付近など。
いずれも扇状地礫層の堆積が無い沖積面に属していて、水により関東ローム層の堆積がされず、上流からの河床礫もたまたま途切れた場所にのみ見られるのでしょう。100万年以上昔の海底を見たり歩いたりするのは中々壮観です。

 

洪積台地と沖積層

扇状地礫層

武蔵野ではこの基盤の上に、多摩川由来の扇状地礫層が重なり、地形図で見るような武蔵野台地が形作られました。
御岳渓谷に行った人は分かりますが、巨大な岩がゴロゴロしています。広大な秩父・奥多摩山塊に降った雨が古多摩川に集中した水の威力が実感できます。多摩川が押し出した膨大な土砂が、急に開けた青梅以東に、長い年月を掛けて扇状地を形成したのでしょう。

関東ローム層

更に沖積面も含めその上に、箱根・富士山(南関東)、浅間・榛名・赤城(北関東)による火山灰由来の堆積が、5~15メートル程重なって台地は出来ています。この火山由来の堆積が関東ローム層と呼ばれるもので、必ずしも火山噴火の直接降灰と言うことではなく、多くは風によって運ばれての堆積によるものです。その形成は噴火の時期によって10数万年~1万年前と言われています。
鉄分の酸化により赤っぽい色をしていますが、最近1万年分の堆積つまり表面近くは黒色をしていて黒ボクと呼ばれています。灰の他軽石なども含みますが、東京の場合噴火源から遠い為粒子も細かく、雨が降るとネチャネチャして靴にくっつくし、乾燥するとポサポサと粉状になって歩く靴にまとわりつきます。

 

乾燥した台地上と崖下の豊富な湧水

礫層である扇状地一般の特徴ですが非常に水を通しやすいと言うことです。山からの水や雨水は地表に留まらず、下の礫層の中を潜って流れる傾向が有ります。
武蔵野台地はその礫層の上を関東ローム層が覆っている訳ですが、この地層も浸透性の高い地質で、従って台地上では、特に扇頂に近い所ほど生活や耕作に必要な水を得難く(まいまいず井戸)、それとは裏腹に断層が露出している部分で地下を潜ってきた水が豊富に湧き出すことになります。特に、次に述べる崖線の下(ハケ下)には湧水が付き物です。
このことは、台地上を流れる野川や仙川、等々力渓谷、井の頭池、善福寺池、東京屈指の清流とも言われる黒目川水系や、立川崖線下の谷保天満宮の湧水、矢川等の成り立ちと共に、人工水路である玉川上水や神田上水が何故必要とされたか、その工事の困難性と共に深く関わってくることですので、以下順次触れて行きます。

 

武蔵野台地の表情

台地北側 ― 荒川と一緒だった多摩川

台地を削る幾筋もの谷

台地北側(図の上縁)に、ノミで削ったようにハッキリ切れ込んだ谷が北の荒川に流れ込んでいるのが見えます。東武東上線に乗っているとこの谷と台地が交互に続くのが分かります。実はこの谷は武蔵野台地形成過程を理解する上での一つのキーポイントで、意外なことに現在そこを流れている不老川や黒目川の浸食によるものではないのだそうです。これらの川の流量は多くなく、それに対し谷幅が不相応に広く直線的に(現在の川沿いにではなく)発達しているし、図で見て分かるように、この谷を上流方向に延長すると多摩川の渓口(今の青梅付近)に集まることから、この浸食は太古の多摩川の流れが削ったものだと考えられています。
現在の多摩川は台地の南縁を北西から南東に向かって流れている訳ですが、かっては北上して、今の入間川と重なるような形で、埼玉県川越方面に流れ込んでいた時期があったと言うのです。その後多摩川が流路を変更した後、残った広い谷底を引き継ぐ形で現在の黒目川などが流れ込んでいるのだそうで、神田川、目黒川、野川なども事情は同じく、 元々は古多摩川系統の浸食面を引き継いだものだとのこと。要するに昔、この辺一帯は古多摩川のなすがままだったんですね。
更に言えば武蔵野台地が積みあがる前にはこの辺一帯は、古利根川、荒川、多摩川などが古東京川として、いわば一つの川として合流、一面の氾濫原とした時代も有ったらしい。

それにしてもかって多摩川が、今の埼玉県方向にも流れ、入間川、川越以南の荒川を合わせて一つの川として流れていたとは驚きます。今我々は「武蔵野台地」 を既定のものとして考えますから、そう言う多摩川の流れを聞いて不思議さを感じる訳ですが、元々武蔵野台地そのものが多摩川によって形成された扇状台地であってみれば不思議なことも有りません。その前はこの辺一帯が低地だったし、海の底だった時代もあった訳です。改めてダイナミックな地球の動きの一端を見た思いがします。
そう思ってこの地形図を眺めた時、初めてこの 広大な武蔵野台地の成り立ちが納得できる気がするところ。

日暮里崖線と北縁に続く崖

上野から鴬谷、日暮里を経て赤羽に至る山の手台地の北東端は、高く(15~30メートル)急な傾斜の崖が続いています。この崖に沿って、京浜東北線、東北・上越新幹線などが通っている為、日常的に感じている人も多いでしょう。日暮里崖線と呼ばれています。
これはかって東京低地が海だった時期、既に出来上がっていた武蔵野台地の根元の部分が波によって洗われ急峻な崖となったものです。英のドーヴァー、仏のエトルタ、ペルーのパラカス半島など海に面した世界の各地で見られます。
日暮里崖線の先、赤羽から志木を経て川越に至る武蔵野台地の北縁も、やはり北側の東京低地とハッキリした境をなして崖が続いています。これも荒川が削った河岸段丘と言うよりは、同じく海の影響によるものと考えて良さそうです。海進期、荒川や利根川の低地に海が入り込み台地の根元を削り、その後海の後退に伴って台地の崖と低湿な沖積面が残されたのでしょう。

 

台地南側 ― 二つの河岸段丘

台地の南側に、北西から南東に向かって、多摩川に並行する形で、多摩川が削りだした2本の発達した河岸段丘が見られます。立川崖線国分寺崖線です。

※ 崖線の断面図を掲載しておきます。
上掲の地形図で、JR中央線国分寺駅のすぐ近くにある殿ヶ谷戸庭園(ここは国分寺崖線の特徴を顕著に見られる)から、真っ直ぐ南に多摩川までの断面を示したものです。(Kashimir 3D)で作成。水平に対し高さが強調されています。

崖線断面図.gif

 

立川崖線

立川市や府中市、調布市の中心市街地が載っている立川面は立川崖線(たちかわがいせん)によって 多摩川の沖積低地と分けられていて、国立市谷保(やほ)から青柳(あおやぎ)にかけて、および昭島市付近や青梅市付近にさらに低位の面を抱えている。それ らを青柳面、拝島面、千ヶ瀬面として区別する研究者もいる。立川崖線は、青梅付近から多摩川に沿う形で立川市内まで続き、JR中央線の 多摩川鉄橋の付近から東に向かい、立川市役所の南を通って、南武線と甲州街道の間をさらに東に向かう。谷保の西で甲州街道の南に入る。ここに谷保天満宮が 崖線を利用した形で置かれている。そこからは甲州街道のおよそ500mほど南を東に進み、狛江市元和泉付近まで続いている。立川崖線は府中崖線(ふちゅう がいせん)や布田崖線(ふだがいせん)とも呼ばれる。(wikipediaから転用)

次に述べる国分寺崖線は、1本の段丘が比較的一貫して長く続いているのに比較して、立川崖線は短い段丘が幾重にも重なり、あまり一貫性が有りません。だからこそそれぞれの場所で個別の呼び方が有る訳だし、玉川上水も羽村堰から拝島までの間に何度かの崖線越えを経ています。

国分寺崖線

立川面と武蔵野面を分ける段丘を国分寺崖線と言います。
国分寺崖線は、武蔵村山市緑が丘付近から始まり、玉川上水駅付近、国分寺、小金井市、調布の深大寺付近と続き、世田谷区の等々力渓谷にもその地形を刻みつつ大田区の田園調布を経て、同区嶺町付近に至ります。
国分寺区内で特にその特徴が顕著なので「国分寺崖線」と呼称されます。調布の深大寺も国分寺崖線の高低差に制約されて、と言うか利用しての伽藍配置がなされています。
国分寺に源を持つ野川が二子玉川で多摩川に合流するまで、その流域が国分寺崖線の縁にほぼ重なり、野川が多摩川に合流する手前で、こんどは丸子川が崖線に沿って崖線の終焉まで連なっています。
河岸段丘一般の特徴として上流部程未発達で、立川地内では殆ど高低差が見られません。玉川上水も未だ高低差が顕著にならない玉川上水駅地点で国分寺崖線を超え、立川面から武蔵野面に上がっています。
下流に行くに従って高低差が顕著となり、世田谷区成城学園から下流では、20mを超える高さとなり、崖線末端部とも言える亀甲山では多摩川水面との高低差は30mに近くなります。

※ 段丘面の新旧とローム層の厚さ

段丘が隣り合っている時、高い段丘ほど古いと言う原則が有ります(段丘地形の形成時期が古いと言うことで、段丘を構成している地質が古いと言うことではない)。つまり立川面より武蔵野面の方が形成時期が古いということです。
このことはそこに積もる関東ローム層の厚さにも関係してきます。形成の新しい立川面には新しいローム層(立川ローム)の堆積しかなく、厚さも薄い(2~3メートル)。古い武蔵野面は立川ロームと共にその下に更に古いローム層(武蔵野ローム)が分厚く堆積(8、10メートル以上)している。
この違いはそこを通る玉川上水の姿にも影響を与えている。

 

台地東側 ― 南北崖線軸と山の手台地

扇状地層終端

武蔵野台地の東縁に目を転じると、複雑に入り組みかつ起伏に飛んだ崖状の地形が、断続的にほぼ南北に走り、東側の低地とハッキリした境界を形成しています。ここは古多摩川が押し出した扇状地層の末端部となります。
北部の赤羽駅辺りから南の大森駅辺りまで、概ね京浜東北線に沿う形で伸びているこの崖を、「東京都都市景観マスタープラン」では「南北崖線軸」と呼び、吉祥寺を通る南北線辺りまでの範囲を「山の手台地」と呼ぶのだそうです。「……景観マスタープラン」と言うことで、どの程度地質学的な根拠のある呼称なのか分からないのですが、一応のくくりとしてこれを使って行きます。

又この「山の手台地」の呼称・範囲は固定的なものではなく、東京市街の空間的・時代的な広がりと共に変化していますし、研究者によって、或いは関係する人によって見方も変わってくるでしょう。例えば、日本一の高級商業地・銀座、或いは日本のトップ企業本社ビルの立ち並ぶ丸の内ビジネス街、ここは徳川家康が埋め立てる前には「日比谷入り江」と呼ばれる海でした。いわば極め付きの低地で有る訳です。しかしここを「下町」と呼ぶ人はいないと思う。
JR山手線をほぼ含むこの山の手台地は、東京の、と言うより日本の政治経済文化の中心として発展し(過ぎ)ているのは、ご承知の通りです。

国分寺崖線や立川崖線が、多摩川が削りだした河岸段丘であり、川に沿って有る程度一貫した連続性を持っているのに対し、扇状地層の末端部が何処迄押し出されたかは偶然性が作用すると思われ、事実、南北崖線軸の複雑で起伏に富んだ(凸凹)地形はそれを現しています。
一旦凸凹が形成されると谷地の部分からの湧水によって更に谷が浸食(谷頭浸食)され、周りの水も流れ込み谷を深くします。鹿の角のように複雑に入り組んだ山の手の地形はこうしてできたものです。

山と谷、坂

起伏のある地形は地名にも反映していて、上野のお山の愛称を始め、愛宕山、御殿山、代官山等、或いは「台」のつく地名も数多い。山や台とともに「谷」の地名も豊富です。渋谷はその名の通り渋谷川の谷底に開けた街だし、その他、茗荷谷、四谷、市ヶ谷、千駄ヶ谷等枚挙にいとまが無い。
山・台と谷が有れば、それを繋ぐ坂も有る訳で、「坂」の地名も大小無数にあります。渋谷の谷と台地上を繋ぐ道玄坂、宮益坂。その他神楽坂、九段坂、三宅坂等など。自動車ではあまり苦にならないかも知れないが、都内を自転車で走っていると否応なしに実感させられることです。

江戸城(皇居)も山の手台地の東端に当たり、本丸を台地上に築くなど、台地と低地にまたがる地形を巧みに防御に活かしての築城となっています。
又この複雑な起伏は玉川上水のコース取りにも深刻な影響を与え、今の代田橋から幡ヶ谷に至る奇妙な水路跡の軌跡は、この地形抜きには理解できません。

山の手台地断面図

この複雑な地形を視覚化出来るよう、断面図を掲載しておきます。JR目白駅辺りから、上野駅のやや北を通り、浅草・隅田川対岸迄の直線です。
日暮里崖線の状況が非常に顕著に確認できるでしょう。

 

断面図.gif

 

 

    

 

武蔵野台地と湧水

崖線型湧水

扇状地地形の崖線には湧水が付き物です。いわゆる「ハケの水」です。立川崖線も国分寺崖線も武蔵野台地を多摩川が削って地層断面を露出させた所ですから、礫層を通ってきた水が至る所に豊富に湧き出ています。有名な所では野川の水源にもなっている国分寺市内の、お鷹の道湧水群野川公園自然観察園の湧水群深大寺の湧水等など。等々力渓谷も国分寺崖線の末端に近い位置です。野川は元々、古多摩川が流路を変えた跡を、国分寺崖線沿線の湧水を集める形で崖線沿いに自然に出来た川で有る訳です。
立川崖線・青柳断層では羽村禅林寺境内矢川緑地、ママ下湧水谷保天満宮の湧水、など。

これら崖線に沿っての湧水を、その名の通り「崖線型湧水」と呼びます。

 

谷地型湧水

崖線以外の谷地に見られる湧水です。武蔵野台地にはこのタイプの湧水も各所に見られます。上記、井の頭池善福寺池南沢緑地等など。
こう言った湧水を「谷地型湧水」と呼びます。
野川の源流である日立中央研究所大池は、国分寺崖線の脇であり崖線型湧水とも言えるし、そこに食い込んだ谷地型湧水とも言えるかも知れません。

今急速な都市化に伴ってその湧水量が激減し、中には既に涸れたところも有ります。水質も劣化しています。
しかし若しかしたら東京は、かって日本でも有数の清水と清流の地であったかも知れません。今でも、例えば明治神宮の清正井目黒不動尊の独鈷の滝等は、大都会の真ん中での湧水として世界的にも珍しいもののようです。

 

70メートル・50メートル崖線と湧水

最近(2017/8)知ったことだが、武蔵野台地に70m崖線と50m崖線と言うのが有るそうで、実は台地上の主な湧水池はこの二つの崖線に集中している。
とは言っても台地の縁をなす国分寺崖線や立川崖線等とは違い、台地中央部にハッキリした崖が続いているとは思えず、「崖線」と呼ぶのは少し無理が有るように思うのだが。どちらかと言うと「50m或は70m等高線」と言った感じ。

武蔵野三大湧水池と50m等高線

東京都の調査によると、この50m等高線に沿って区部だけでも280ヶ所の湧水が確認されていると言う(『50m等高線でたどる湧水帯』サイト様参照)。多摩川が運んだ武蔵野礫層が50mの等高線の各所で露出、その礫層を通って来た水が地表に出ているのだろう。
特に有名な所では「武蔵野三大遊水池」と呼ばれる、井の頭池、善福寺池、三宝寺池で、それぞれ神田川、善福寺川、石神井川の源流・水源だった(だった、と言うのは現在その殆どが枯れて、深井戸からの汲み上げ地下水で供給されている)。この三大湧水池は、50m等高線上と同時に、青梅を中心とした同心円上に配置されている。これは扇状地層の一つの縁-扇端として考えるのが自然だろう。
50m等高線の湧水はこの他、妙正寺池、烏山川源流の光原院の鴨池、落合川源流の南沢緑地、武蔵野公園、深大寺周辺の湧水群等が有名なところ。

70m等高線と湧水

70m等高線上での湧水としては、石神井川の本来の源流である鈴木小学校敷地の谷頭(水は既に枯れている)、野川源流の恋ヶ窪大池、黒目川源流のさいかち窪等。
同じ武蔵野礫層を通って来た水だが、50m等高線より扇頂に近く標高の高い70m地点で湧き出している。

 

武蔵野の湧水と水質・季節

このように至る所から地下水の湧き出る武蔵野台地だが、水質としては必ずしも良いとは言えないようだ。
地下水には「被圧地下水」と「不圧地下水」の区分があるそうで、大雑把に言えば被圧地下水は、上下の不透水層に挟まれた帯水(礫)層を通って湧き出している水のことで、水質も良く、上流からの位置エネルギーにより地下から自然に湧き出す。それに対し不圧地下水は、降った雨が表層に浸み込み、それがそのまま池や川の下から浸み出てくるもので、降雨量や降雨の範囲に大きく依存する、との理解でOKかと。
かって上記50m等高線の湧水は、多摩川の伏流水をベースとした被圧地下水だったのが、現在は多くが枯れ、湧き出しても雨水依存の不圧地下水が多いようだ。

元々50m等高線湧水は武蔵野礫層を通って来ていた訳だが、今それが失われている訳だ。
その原因としては、例えば小河内ダムによる多摩川伏流水の減少、水道用深井戸の管の周囲に充填された砂利を通って水が下の層に流れ落ちること、更には河川改修により、遊水池より深く河床を掘り下げてしまったことなどが指摘されている。
いずれにしても数年或いは数十年単位で地下から湧き出してくる富士山の湧水と、雨が降って数日単位で湧き出す水では違いが有って当然と言えるだろう。お鷹の道湧水群が東京名水100選になっているが、飲用には一度沸かすことが勧められている。

 

崖線と雑木林(ハケの森)

又崖線の部分は、おそらく開発の手が入り難かったのだろう、今でも多くの所で鬱蒼とした雑木林が続き景観に趣を与えている。いわゆる「ハケの森」。安易に開発に走ることなく後世に残して置きたいものである。

 

※ 現代のミステリー、川の流れの相関関係

かって豊富なわき水とそれを集めて滔々と流れていたであろう、これらの川。
開発と生活様式の変化で湧水も細くなり水も汚れて、あたかも下水路のように荒れたまま放置されていた時期も有ったようです。
近年景観の保全と歴史遺産の保護・復活運動、せせらぎ復活事業等によって、川の流れが復活しつつあります。同時にそこには摩訶不思議な水の相関関係・水のやり繰りの仕掛けがあります。その辺の事情を少しまとめてみました。
こちらをご覧ください。

 

武蔵野の自然と風情

特異な景観としての武蔵野

水が得難く長いあいだ本格的な人の定住が無かった台地上と、至る所にオアシスのごとく湧き出すハケ下の湧水。こう言う地形と地質が、武蔵野の独特な景観と風情を作りだして来ました。
国木田独歩は随筆『武蔵野』の中で………、

「武蔵野を除いて日本にこのやうな処がどこにあるか。北海道の原野にはむろんのこと、奈須野にもない、そのほかどこにあるか。林と野とがかくもよく入り乱れて、生活と自然とがこのやうに密接している処がどこにあるか。」

と書いて、その唯一性を強調していますが、万葉集に初めてその名が出てくるという「武蔵野」の特徴的な風景と風情は、古来から日本人の"侘び・寂び"と結びついたイメージとして、和歌や詩に詠まれて来ました。

大岡昇平の『武蔵野夫人』も、この侘び・寂びの心象が未だ心の奥に残っている状況で、同時に近年急速に都会化され洗練されてきた近代的な「郊外」イメージを併せ持つ「武蔵野」の地の呼称を題名に織り込んだことが、成功の大きな要因ではなかろうか、などと考えている所です。『多摩夫人』で同じようにいけたかどうか?

今、武蔵野も開発され、万葉集の侘び・寂びからは大きく遠ざかっているように思われます。
しかし鬱蒼たる雑木に囲まれた玉川上水の緑道、野川や深大寺で感じられる国分寺崖線・ハケの森。お鷹の道や国分寺市内の幾つかの湧水群、東京随一の清流と言われる落合川の源流部など歩いていると、つかの間でもその雰囲気を味わうことが出来る、そんな思いになります。

武蔵野と雑木林

上記、崖線と雑木林(ハケの森)でも少し触れたが、「武蔵野」の原風景と言えば直ぐ雑木林を連想する。私も長い間「武蔵野=雑木林、それも落葉広葉樹の原生林」と思い続けていた。
しかしこれはどうも少し違うらしい。武蔵野の雑木林は「原風景」や「原生林」等ではなく、人の手によって作られた、言わば二次林なんだそうだ。
武蔵野の原風景と言うことで言えば、どこまでも続くススキ原が正解らしい。林が有ったとしても今のクヌギやコナラなどの落葉広葉樹ではなく、元々は照葉常緑樹林が中心だったようだ。照葉樹林は人手が無くても自然更新する。この特徴を見越して100年前、人工的に造られたのが東京の明治神宮の森。神宮の森は人の力を借りることなく、森自身の力で今の鬱蒼たる姿に成長してきた。

ススキ、或いは照葉樹林だった武蔵野を、人が薪炭用材、或いは肥し用の落ち葉(腐葉土)を得るために、落葉広葉樹を植林しそれを育てて来たのだとか。
考えてみると当然のことかも知れぬ。薪は暖房や炊事、照明の為、日常必需品だったし、炭も暖房、更には製鉄や鍛冶屋で大量に消費された。糞尿を金を出してまで買い付け、船で江戸から運んで肥料としていた時代、身近な落ち葉は貴重な腐葉土とされた筈だ。キノコも落葉広葉樹で多く採れる。水が無いから定住は難しかったとしても、広大な武蔵野をススキ原のままおいておく筈もない。若しかしたら武蔵野は丸ごと人の手によって作られた里山だったかも知れない。正に国木田独歩の『武蔵野』の風情だ。

人の手が入らなくなるとこれら落葉広葉樹は次第に照葉樹林に入れ替わってしまうのが自然の姿なんだそうだ。確かに人手の入らない崖線の斜面などは照葉樹が多いように感じる。

 

※ 私家版『武蔵野の歴史』考

ハケには縄文時代からの古代遺跡があちこちで発掘される。
国分寺、お鷹の道、殿ヶ谷戸庭園、貫井神社、滄浪庭園、或いは深大寺、等々力渓谷と等々力不動尊、谷保天満宮など全てハケ沿いにある。目黒不動尊も入り組んだ山の手台地の崖沿いに建っている。良い水が豊富に湧き出るハケ下に昔から人が住みつき、一定の文化を築き、そこに遺跡を残したのだろう。国分寺崖線の終焉部、亀甲山には大規模な古墳群が有るし、等々力渓谷も然り。
崖線ではないが井の頭池の周囲も大規模な古代遺跡の発掘で知られている。

多摩川と荒川に挟まれ、現在一般に多摩地区と呼ばれている武蔵野台地中央部に、山からの雨水を集めて常時水を湛えて流れる川は、玉川上水など人工的に掘削したものを除けば一本も無い。台地最大の河川、野川やその支流の仙川にしても、或いは石神井川も全ては湧水を源としている。その代わりと言っては何だが、湧水を湛えての池が武蔵野・東京には大小取り交ぜて無数にある。有名な井の頭公園の井の頭池もその一つ。そもそも「井の頭」の名前が示す通り、湧き水の頭として三代将軍家光が命名したのだとか。この井の頭池を水源として江戸の水道水用に掘削された神田上水が今の神田川になっている。
冒頭の地形図なりGoogle Mapで多摩地区を開き、そこに示されている川筋を上流に辿って見れば大抵はそこに湧水池が有る。狭山湖(山口貯水池)は多摩川を主な水源とする1934年完成の人工湖だが、一部天然の湧き水も流れ込む。
つまり台地上を流れる川は例外なくその源流を、武蔵野台地と言う限られたエリアに見出すことが出来る。だからこそ辿って面白いのだ。

水の無い所に人は住めない。かってこう言ったハケ下や湧水地の周り等、限られた場所を除いた広大な武蔵野に、おそらく人が定住することは無かったのだろう。だからこそ武蔵野が「武蔵野」として維持されてきた訳でもあるが。
川さえあれば人が住めるか、と云うと実は簡単にそうは言えない。水は常に一番低きを流れる。目の前に大河が流れていてもポンプなどの揚水設備のない時代、その水を直接灌漑水としては使えない。標高の高い上流から用水路を切って持ってくるしか無く、それが出来るのは相当高度な土木技術が発達してからの話。玉川上水は正にそう言う用水路だった。
又、河口部では不要になった水の排除がままならない。新潟の蒲原平野もかっては胸まで泥につかっての田植えと船での稲刈りが語り草になっているが、それさえも信濃川や阿賀野川の流れを多少とも制御できるようになった近世のことだろうし、海からの塩害との戦いだったことだろう。今の美田は暗渠排水とポンプによる強制排水が有ってこその話。

その意味でもハケ下の地は水の利用と云う点で最適だった筈だ。崖から湧き出す水を必要に応じて使い、余った水は下に流せば水は切れる。古代の人が最初に住み着いたところはこう言った傾斜地であって平野では無かった。世界四大文明として知られる中国黄河でも、最初に農耕文化が発達したのは陜西省あたりのかなり山地、黄河の支流の又支流と言った言わば谷筋だった。最初から黄河の本流が利用出来た訳ではない。
自給自足の時代、"山だから僻地"などと言う感覚そのものが無かった筈だし。

武蔵野台地に大勢の人が定着したのは、本格的には近代上水道が整備されてからだとして、その前には玉川上水と野火止用水掘削以降のことじゃないだろうか。特にかって、取り分け水利に乏しかった川越領野火止台地への野火止用水開削の効果は甚大で、それまで200石だった収穫が2000石に増えたそうだ。

深大寺蕎麦

深大寺蕎麦-thumb-300x200-731.jpg

この武蔵野の特徴を象徴したものの一つとして「深大寺蕎麦」を挙げることができよう。深大寺はその伽藍や回りの風情・神代植物園などと共に、蕎麦で有名だ。
乾燥した台地上で水田は考えられず、やせ地でも育つ蕎麦が主たる作物・食べ物だったことだろう。最初は自家消費で終わっていたのが生産が増えることと相まって深大寺参拝客にも提供するようになった。その時ハケ下の清冽な清水は蕎麦提供に最適だった。この豊富な水は、今も(観光用に)残る水車を使っての蕎麦製粉にも利用された。
今の深大寺蕎麦はそうした幾つかの要因が重なり合ってのものだと思う。

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