武蔵野台地の縁に建つ皇居 -4(本丸、三ノ丸)

 

東御苑のうち、三の丸及び本丸

かっての江戸城の、本丸、二の丸、三の丸が「東御苑」として一般公開されている(但し三の丸は皇宮警察や宮内庁病院などで大半は非公開)、その他北の丸は公園として常時公開されている。
最初に三の丸と本丸エリアを取り上げる。二の丸エリアは別途掲載。

東京都心のど真ん中に広がる広大なエリア。残念ながら城郭・屋敷は殆ど失われているが、それでも石垣や残された番所、復元された門などに骨太な江戸を感じることが出来る。
余りに都心の真ん中でしかも「皇居」と言うことで、ここが公開されていることを知らない人も多いようだ。日本人にとって意外と穴場なのかも知れない。逆に外人の参観者が目立つ。中国・韓国系を含めれば半数以上じゃないかな。

 

地形図

クリック、拡大表示でご覧ください。

皇居地形図.jpg

 

撮影Map

クリックするとGooglemapと連動して表示されます。

2018年、突然Googlemapでの表示が不調となり、解決の方法も有りません(Googleの仕様変更かも)。しかしmap上の位置関係は判別できますので、引き続きそのまま表示します。

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東御苑への入・退苑

東御苑への出入り口は三つある。この後直ぐ取り上げる大手門、平川門北桔橋門
どこから入ってどこから出ても構わないが、入苑の際入苑票を受け取り、退苑の際それを返す。

 

大手門

江戸城への大名登城の正門となる(他に内桜田門(桔梗門)も登城門として定められている)。渡櫓門は昭和41年、東御苑開園に伴い再建された。

 

※ 虎口、枡形門

城郭・曲輪などの出入り口を一般に「虎口(こぐち)」と呼ぶ。城からの軍勢が出入りする箇所であると共に、城攻めの際には寄せ手が肉薄し攻防の要となる。それだけに城方の防御は厳重を極める。寄せ手からすれば正に「虎口に入らずんば虎児を得ず」の危険で難門となる。防御を考慮して開口を狭くすることが多く「小口」と呼ぶ場合も有る。

虎口の形式は城の地勢や重要度、合戦の大型化などによって歴史的に進化してきた。詳細はネット等で検索して頂くとして、一つの完成形が「枡形虎口」で、江戸城の城門は殆どこの枡形虎口、枡形門の形式になっている。

枡形門(ますがたもん)

大手門の航空写真を、Google先生の助けを得て掲載しておきます(残念ながら渡櫓門が修理中の写真でした)。

城に入る者は先ず、濠に囲まれた橋を渡り、一ノ門としての狭い高麗門(こうれいもん)から枡形空間に入る(平時はここに番所が有り、登・下城の監視或いは表敬を受けたのだろう)。
枡形に入った寄せ手はそのまま真っすぐには進めず、鍵の手に曲がってニノ門である渡櫓門(わたりやぐらもん)をくぐるのだが、渡櫓門は厳重な扉と、両側の石垣の上に櫓(兵糧の貯蔵、防御専用施設)を渡したもので、枡形に向かって弓や鉄砲、或いは投石、熱湯なども有ったのだろう、を射かける狭間(さま)が切ってある。寄せ手はこの枡形で城方の一斉攻撃を受ける。高麗門外の兵士達には枡形で何が起こっているか判別しがたい。
このように、濠、橋(場合によってこの橋を跳ね上げたり落としたりする仕組みを持つ)、一ノ門、枡形、ニノ門と、幾重にも侵入を防ぐ仕掛けを持つ。

枡形門には外枡形と内枡形の2形式があり、江戸城においては桜田門が外枡形になっている。

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大手濠と、正面高麗門、右奥に渡櫓門

前に入った時は無かったことだが、各入り口の手前で簡単な手荷物検査を受けることになったようだ。

 

枡形からの高麗門

「高麗」門と聞くと朝鮮由来の形式かと思えるが(例えば高麗人参など)、そう言うことでもなさそうだ。
文禄・慶長の役(1592年~1598年)の間に造られ始めた日本の城門形式で、門の内側両翼に小さな切妻屋根を載せた控柱を持つ。この小屋根は門の扉を開けた時それを格納する為のものだが、神社・寺院の高麗門には扉を持たないものも多いと言う。
門は総じて狭い。寄せ手からの防御を意図したものだろう。

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枡形と渡櫓門

両側の石垣を渡すように櫓が置かれていることから「渡櫓門」。
櫓とは一般的に城郭内の防御や物見の為の建造物だが、この場合の櫓は有事の際の武器・弾薬・兵糧の蔵としての役割を持つ。当然侵入者への防御機能は最重要で、枡形に向かって攻撃用の小開口部(狭間)が切ってある。
こう言う武器・弾薬・兵糧の蔵、防御施設を「多聞」とも言う。

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三の丸

受付で入園票を受け取り、御苑三の丸に入る。三の丸の大部分は皇宮警察などが置かれ、立ち入り禁止部分が多い。

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三の丸尚蔵館

皇室の御物を保管・修理・管理、及び展示している建物。
展示室は広くないので、膨大な御物を順次交代で展示する。40年以上前初めてここに入った時、たまたま伊藤若冲の動植綵絵が展示されていてその緻密で迫力ある絵に圧倒された。それ以来スッカリ若冲フェチになった訳だが、まだ若冲が殆ど世に知られていなかった時代のことでこう言う幸運に巡り合うチャンスも有る。入館無料。

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大手三の門

下乗門と呼ばれ、御三家以外の大名はここで籠を下りなければならなかった。写真の石垣は高麗門跡で、枡形に入って左側に渡櫓門が有ったようだ。

かってこの高麗門の外(写真では手前)は石垣沿いに濠が有り、そこに橋(下乗橋)が掛かっていたのだそうだ。この濠は北側の天神濠から桔梗門脇を通り蛤濠に抜けていたらしく、現在はその約3.9キロが埋め立てられている。二の丸白鳥濠は埋め立てられずに残った貴重な一部。
同心番所はかって堀の外に有ったものを門の中に移設したのだそうだ。

下馬評

登城した大名の家臣はこの下乗門外で主君の帰りを待ち、その間他家の家臣たちと情報交換していたことから「下馬評」の言葉が生まれたとか。

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中之門前

同心番所から少し登ると、広い通路(通路と言うより広場)にでる。
右側石垣の一番手前の切れ目から、二の丸に続く通りが伸びる。案内板などが置かれた切れ目を超えた次の切れ目が中之門跡。
石垣の反対側に百人番所が建っている。

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二の丸方向、銅門跡?

ここに銅門(あかがねもん)が有った筈だが、どの石垣にどの門・櫓が建っていたのか、大半の構造物が撤去され、案内板も無い今、おいらには分からない。

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百人番所

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中之門

石垣の上には、おそらく壮麗な渡櫓が乗っていたのだろう。今は石垣にその名残を偲ぶのみ。大名を威圧する意味も有って巨石が使われている。
ここから昇り勾配となり武蔵野台地上に上がる。

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大番所

中の門から直ぐのところ。

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中雀門(跡)

御書院門とも呼ばれ、この先は本丸御殿となる。
本丸への最後の門であり、かっては二重櫓、多聞櫓に取り囲まれた厳重な防御となっていたが、1863(文久3)年の火災で焼失、石垣にその焼け跡を残す。

 

※ 本丸警護の虎口

大手門から始まり、三の門から幾つかの番所を通り、中之門、中雀門と厳重な警護システムが続く。全体で本丸防護の虎口となっているのだろう。
それにしても「よくもここまで」と呆れさせるほどの厳重さ。

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※ 本丸へのアクセス

東京低地(沖積面)である二の丸、三の丸から台地上の本丸への道(坂)は三本有る。
既に見て来た中之門から中雀門を通る坂、汐見坂梅林坂

 

本丸跡

ここに壮大な本丸の屋敷群が有った。大奥、松の廊下などすべてこの本丸エリア。今は芝生広場で立ち入りできる。
現天皇即位の儀(大嘗祭)の際、悠紀殿、主基殿が建てられた場所でもある。

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富士見櫓

明暦の大火 (1657年) で天守閣を焼失した後、ここが天守閣代わりtに使われていたそうだ。
反対側の乾通りから見た富士見櫓はこちら

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本丸エリア、南端。

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富士見多聞

「多聞」とは、防御をかねて石垣の上に設けられた長屋造りの倉庫のこと。反対側の乾通りからの眺めはこちら

 

内部が公開されていた。中を見るのは今回初めて。

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石室

大奥で使われる什器などの保存に使われたらしい。広さはさほどではない。2、3畳位か。

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天守台

天守閣は明暦の大火 (1657年) で焼失、その後再建されないままに来ている。

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天守台からの本丸エリア

本丸エリアは山の手台地上に広がっている。今芝生広場になっているこの地に、かって江戸城の中枢的建物が林立していた。それが残っていたらどれ程の観光資源となったことか。

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西桔橋に続く通路

天守台の直ぐ西側(上の写真の右側)に西桔橋に続く通路とゲートが有る。このゲートは通常立ち入り禁止。
乾通り一般開放の際にはこのゲートが使われる。乾通りから西桔橋を渡って上ってくるとここにでる。

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本丸エリアの東側

この左側(東側)が武蔵野台地の縁になっていて、東京低地(沖積面)と崖(石垣)で境をなしている。

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山の手台地の縁

本丸エリアの最高地点、山の手台地の縁に展望台がある。石垣下は東京低地となる(低地側、二の丸エリアから見た展望台)。
中央遠方に百人番所、さらにその奥に丸の内ビル群が見える。かって日比谷入り江だったところ。左側林は二の丸雑木林。

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北側方向

展望台から北側方向を見る。
正面の坂は、汐見坂、手前の濠は白鳥濠。かって天神濠から桔梗門脇を通って蛤濠まで続く濠が有った。本丸と二の丸を隔てるこの濠は現在埋め立てられているが、白鳥濠は残された貴重な一部。。
右側は二の丸雑木林とその奥に日本庭園。

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汐見坂

武蔵野台地上の本丸エリアと沖積面を繋ぐ三本の通路(坂)の一つ。

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汐見坂からの白鳥濠

右側上部に展望台が見える。

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汐見坂を下りると、二の丸エリア。

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梅林坂

梅林坂も本丸エリアと二の丸エリアを繋ぐ坂の一つ。

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梅林坂を降りたところ

写真右に行くと二の丸エリアを通って三の丸エリアに行く。
左側を進むと平川門。

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天神濠

平川門への途中で、右側に見える。ここから三の丸の大手三の門前を通り桔梗濠まで濠が繋がっていたそうだ。

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平川濠

平川門への途中で、左側に見える。
帯曲輪(右側、写真では植栽の陰で見えない)によって清水濠と分けられる。遠方、石垣の上は代官町通り。国立公文書館が見えている。

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平川門

江戸城裏門。大奥に最も近く、大奥女中出入りの通用門でもあり御三卿(清水・一橋・田安)の登城口でもあった。
平川門も江戸城(皇居)の他の門と同じく「桝形門」の形式をしている。

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枡形(城外側)から見る平川門の渡櫓門

上の写真との一番の違い(城内側と城外側)は、狭間(弓や鉄砲を射かける隙間)の有無。

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平川門の高麗門

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帯曲輪門

平川門に隣接して帯曲輪門が建っている。こちらは公開されていない。この門から清水濠と平川濠を分ける形で土手(帯曲輪)が伸び、かっての竹橋門に繋がる。

 

不浄門

帯曲輪門は「不浄門」と呼ばれる。不浄門とは罪人や死人、或いは城内の糞尿などを通す門を言う。
罪人で言うと、忠臣蔵の浅野内匠頭、江島事件の奥女中江島がこの門を通って城外に出されたと言われている。

私も最初、当然のことながら帯曲輪門=不浄門だと思っていた。平川門は奥女中の通用口でも有り、まして御三卿の出入り口であるとのことから、その同じ門を糞尿運搬に共用するとは考えられず、別途その為の不浄門を必要としていたのだろう、と。
しかしどうもそれは間違いだったらしい。と言うのは、「享保年間江戸城絵図(東京都立中央図書館蔵)」には、現在の帯曲輪門の記載は無く、平川門から堀への石垣が有って、ここから船に乗ったらしい(西ヶ谷恭弘氏説)。
内匠頭の家来が平川門へ来て見送ったとの説とも合致するし、糞尿も当時は貴重な肥料として船で運ばれたことから、違和感もない。つまり松の廊下刃傷の頃、不浄門とは平川門全体をさして言ったのだと、西ヶ谷恭弘氏は述べている訳だ。

ただその後の絵図には帯曲輪門と、竹橋門に続く通路が書かれたものも有り、その通路部分に「病人カゴ此口ヨリ出ル」との書き込みも有ることから、いつの頃かは分からないまでも、増築された帯曲輪門が不浄門として使われたのも事実なのだろうし、今は帯曲輪門を指して不浄門と呼んで間違いはないのだろう。

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全体像

平川門、帯曲輪門、竹橋門に続く通路などの位置関係が分かりづらいので、上掲平川門の案内板から、航空写真の部分のみ掲載。

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平川橋

皇居唯一の木橋で、橋は作りかえられても橋柱の擬宝珠はそのまま受け継がれているらしい。
高麗門に一番近い擬宝珠が一番古く、「慶長拾九年 寅申 八月吉日 御大工 椎名伊与」の銘が刻まれていて、貴重なもののようだ。

※ 和田倉橋は欄干が木造だが橋(歩く部分)はそうでない。

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北桔橋門(きたはねばしもん)

3つある東御苑出入り口の一つ。
桔橋とは有事の際、橋を跳ね上げて敵の侵入を防ぐ構造の橋。北桔橋門は本丸天守閣に最も近い門でもあり、防御にもより一層の備えをした虎口だったのだろう。なお西桔橋も同じ構造。

現在高麗門だけになっているが、かってはやはり枡形門形式を持っていたのだろうな。
門を通して代官町通りから北の丸公園入り口が見える。

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城外から見る北桔橋

門を通して見える石垣は天守台の石垣。

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代官町通りからの北桔橋

桔橋とはいざと言う時の防護の為に跳ね上げてしまう、言わば仮設の橋。現在は固定されている。
手前は平川濠、北桔橋の向こうは乾濠。濠水面と門との高低差も大きく、ここで橋を跳ね上げてしまえば確かに防御効果は大きい。門の両翼の塀の上から矢玉を射かける手も有っただろうし。若しかしたら橋の下の凹部はもっと広く深かったのかも?

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北桔橋から乾濠方向

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