桃園川-7(天保新堀用水、善福寺川から青梅街道)
「杉並地内水路網(暗渠の迷宮)全体像」も参照のこと
先人の知恵と技術、天保新堀用水跡を辿る
天保新堀用水は、桃園川流域の下流域、中野村、高円寺村、馬橋村(以下三ヶ村と略称)の灌漑用水不足解消を目指して、、善福寺川に堰(広場堰)を設け、そこから引いた水路である(こちら参照)。
桃園川上流域、更にはその上流部(北西部)の井草川流域は、千川上水からの六ヶ村分水によってある程度灌漑水を確保できた。しかし下流域の上記三ヶ村にはその恩恵が生き渡らず、水不足・飢饉に苦しんだ。その解決の為掘削されたのが天保新堀用水である。
推測・推定
取水堰が有った善福寺川沿線と三ヶ村エリアに広がっていた水田は現在、市街化・宅地化で跡形は無い。天保新堀用水の痕跡も殆ど残っていないし、明示的な案内板とか碑文とかも確認できない。又天保新堀用水の歴史的な経過などについても詳細を私は全く承知していない。
ここではネットや書籍による子引き・孫引きと、推測・推定に基づくコースに沿って写真を掲載するのみ。
11年堀と12年堀
上記リンク先にも記したように、最初天保11(1840)年に掘削した水路が、なんとカワウソの巣による漏水と大雨による土手の崩壊などで放棄され、翌天保12年、コースを変更して新たに掘削、三ヶ村22町7反歩の水田を潤し、その恩恵は大正時代まで続いたという。
胎内堀
天保新堀用水掘削の最大の障害となったのは、途中の矢倉台地と青梅街道が通る高台の存在。ポンプなどの揚水設備が無かった当時、これは決定的な障害となった。この難関を、トンネル(胎内堀)で通すと言う、画期的と言うか奇想天外な案と実行で実現する。
この工事を委ねられ、完成した馬橋村の水盛大工大谷助次郎の技術と苦労は高く評価されて然るべきだろう。
「田端堰からの水路」と天保新堀用水
上記したように天保新堀用水のハッキリした痕跡は殆ど確認できない。
ただ11年堀のコースに当たると思われる水路跡(暗渠道)が現在、矢倉台地の縁に沿って、非常に保存状態のいい形で残り、辿ることが出来る。しかしこの水路は後年のものだと言う。ルートから推測するに広場堰から500メートル程上流の田端堰からの水路の延長だと思われる。便宜上この水路を「田端堰からの水路」と呼ぶことにする。おそらくカワウソの巣などによって放棄された11年堀を後年(何時のことか知らないが)転用したものだろう。舌状台地の矢倉台地と善福寺川に挟まれた狭い地に、敢えて別のルートを設定するとは考えにくい。
この「田端堰からの水路」跡を辿ることで天保新堀用水11年堀のコースを偲ぶことが出来ると思われ、一部重複するがここに掲載する。
12年堀ルートは殆ど推定。
地形図
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水路名などの文字をクリックすると、関連したページが開きます。
撮影Map
クリックするとGooglemapと連動して表示されます。
2018年、突然Googlemapでの表示が不調となり、解決の方法も有りません(Googleの仕様変更かも)。しかしmap上の位置関係は判別できますので、引き続きそのまま表示します。
天保新堀用水、11年堀
広場堰
天保新堀用水の取水堰、広場堰が有ったであろう場所。今その痕跡はない。
大谷戸橋
広場堰の直ぐ下流に掛かる橋。
橋を通して前方はUR住宅機構のアパート群・シャレール荻窪。「広場」と言う程にこの辺は水田が広がっていた。その水田を宅地開発してのもの。
11年堀は橋を渡った右方向に進み、12年堀は前方真っ直ぐ、現在シャレール荻窪となっている敷地の中を進む。
天保11年堀コース
大谷戸橋から下流方向。
広場堰から善福寺川に沿って南進、写真前方のけやきの所で左に入る。
天神橋公園(11年堀、旧流路)
11年堀流路跡が現在天神橋公園として緑道化されている。
緑道の区間は約180メートル程。
矢倉台地
天神橋公園が終わって、左(東)からせり出してきている舌状台地・矢倉台地にぶつかり、台地の縁に沿って右前方に進む。
同時にこの地点で、左から田端堰からの水路が合流。
田端堰側から
田端堰用水から見た同じ場所。写真右から11年堀旧水路(天神橋公園)が合流している。
この先、元々は11年堀が矢倉台地を迂回する形で流れていたのだろうが、カワウソの巣からの漏水や大雨による決壊などで1年で放棄、後年その流路跡を利用する形で田端堰からの流れがこの先続くことになったのだろう。
田端堰からの水路と重複
この先、天保新堀用水11年堀は、「田端堰からの水路」とコースが重複しているとおもわれるので、そちらの方にまとめておきました。
リンク先を参照して下さい。
天保新堀用水、12年堀
11年堀がカワウソの巣による漏水と大雨による土手の崩壊などで事実上放棄、翌12年にコースも変更されて新たに掘削され直された。
12年堀は矢倉台地を迂回することなく、現在UR都市機構のアパート群が立ち並んでいるかっての広場(水田が広がっていたと思われる)を、写真正面方向に真っ直ぐ弁天池に向かうコースを取る。
12年堀の痕跡は何もないが、今中庭になっているこの場所を貫いていた筈。
12年堀水路跡
これも確証はないが、周囲と比較しても谷筋になっているこの歩道が12年堀の水路跡だったと思われる。
12年堀トンネル開始地点、大谷戸けやき緑地
広場堰から直線距離で160メートル程、大谷戸けやき緑地に至る。
かってこの辺が12年堀の最初のトンネルの入り口だったらしい。痕跡や案内板は全く無い。
トンネルで流した為、この先水路らしき痕跡はない。
成宗須賀神社
杉並区成田東5丁目29-3、旧成宗村の鎮守であった成宗須賀神社が建っている。
天保新堀用水に関係の深い成宗五色弁財天と弁天池は、須賀神社の左側に有る(池は今ない)。
成宗五色弁財天と弁天池
弁天池から下流方向
青梅街道超えのトンネル
この辺でトンネルが始まって青梅街道の高台をくぐり、杉並区役所脇の、南阿佐ヶ谷1丁目パールセンター脇に顔を出す。
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