野火止用水-1(小平監視所~八坂交差点)
玉川上水、最初で最大の分水路
高燥の地、川越領野火止(現在の新座市野火止)の地を潤すために掘削された分水路。
現在、「野火止」と呼称されているが、元々は野火留村の名を取り、野火留用水と呼ばれていたとのこと。
野火止にしろ野火留にしろ、その地名そのものが、かってのこの地の様相を偲ばせる。飲み水にも事欠く台地上の乾燥地で、水田など出来る訳もなく、主に焼畑で僅かばかりの作付をしていたのだろう。その延焼防止のための堤や見張りの塚等が有って、地名はその名残だと言われる。
野火止用水はこの、半ば不毛の野火留の地を潤すに大きな役割を果たした。
※ 焼畑のことを火田と言ったらしい。畑の文字はこの火田に由来するとのこと。
玉川上水からの分水
野火止用水の開削は、玉川上水工事の総奉行だった川越藩主の松平信綱による。
松平信綱はこの玉川上水完成の功績に対し、禄の加増を辞退する代わりに、玉川上水の水、3割を自領に分水する許可を得て、1655年、野火止用水を完成させている。
ちなみに野火止用水は、25キロを40日で完成させたそうな。ただ通水に際しては、途中、水が土中に浸透してしまい用水路の終端に流れつくまで2年(3年との記述も有る)を要したとのこと。玉川上水は43キロだったが1日で四谷大木戸まで通水したと言う。
この差は玉川上水が自然の勾配に沿ってコース取りされていることに対し、野火止用水は武蔵野台地を横切る形で勾配の確保が難しかったこと。及び玉川上水には三和土(たたき)を使ったことによるそうだ。
野火止用水も最初は主に飲料水などの生活用水として使用されたが、その後灌漑用水にも活用、関東ローム層の不毛の原野を豊かな台地に変えて行った。
※ 三和土(たたき)
三和土(たたき)は、「敲き土(たたきつち)」の略で、赤土・砂利などに消石灰とにがりを混ぜて練り、塗って敲き固めた素材。3種類の材料を混ぜ合わせることから「三和土」と書く。
伊豆殿掘、知恵伊豆
この40日と言う短期間での完成に対し、玉川上水計画そのものが、野火止用水を最初から織り込んでの松平信綱の腹案だった、との説もあるようだ。要するに信綱にとっての目的は最初から野火止用水で、玉川上水はその手段だった、「我田引水」を文字通り地で行く話しと言うことで、真偽の程は分からないが、私もこの説に確信をもって一票。
高燥の地である自領野火止への用水確保は信綱にとって宿願だった筈だが、幾ら水を必要としていたからと言って、幕藩体制の時代、勝手に多摩川から他国領を通って自国への用水路掘削等出来る訳もない。
用水工事の大義名分と費用の大半を幕府に負わせ、出来あがった玉川上水から工事恩賞としての野火止用水掘削の許可を得た。これがおそらく真相じゃないか。玉川上水工事着工の時点で既に野火止用水の設計も周到に準備されていたのだろう。
いずれにしても野火止用水の開削によって、この地の生活が大いに潤ったことは間違いなく、信綱に感謝の意を込めて、信綱の官途名乗りである「伊豆守」にちなんで伊豆殿掘と呼ばれるようになった。また、上記の経過も含んでだろう、信綱に対し知恵伊豆と呼ぶこともある。
多摩川からの取水口が羽村に決まるまで、それより下流の日野、福生の2ヶ所で試験通水が試みられ、失敗している。私はこれも松平信綱にしてみれば織り込み済みのことじゃないか、と思っている。
日野は論外としても、仮に福生での取水で江戸まで通水できたとして、玉川上水のコースは今より大幅に下流側を通ることになる。それでは野火止台地へ水を持ってゆくのは難しく、悲願の野火止用水プランは跡形も無くなる。
信綱にしてみれば羽村以外の選択肢は無かったのだろうが、かと言って最初からそれを押し通せば「いかにも」と腹の底を見透かされる。敢えて2度の失敗を玉川兄弟にさせることで、穏便に羽村堰が決定した。マッ、真相はそんなところじゃないかと、少し穿ってみたところ。
現在は流れていない?
3世紀もの間、武蔵野の原野を潤してきた野火止用水も、近年に入り近郊の都市化に伴う水質の悪化で、1973年(昭和48年)に玉川上水からの分水がストップ、野火止用水も荒れ放題になったと言う。
その後、関係住民、自治体等の努力により、「清流復活事業」の一環として、1984年(昭和59年)8月21日、昭島市内の多摩川上流再生センターから の、家庭排水を高度二次処理した再生水ながら流れが復活した。
小平監視所から西武拝島線の東大和市駅の先、約300メートル程までは流れなしの緑道。その先一部せせらぎとしての清流の復活、野火止緑地からは開渠となって、野火止用水の本流が姿を現す。いずれも高度処理された再生水。
試みに玉川上水の「清流復活は」その2年後、1986年8月27日。
※ 例えば「北沢川緑道」の清流復活が、1995年(平成7年)であるから、野火止用水、玉川上水の同事業は、今各地区で見られる清流復活、せせらぎ復活の先がけになったと言えよう。
地形図
クリックして拡大表示で見て下さい。
撮影Map
クリックするとGooglemapと連動して表示されます。
2018年、突然Googlemapでの表示が不調となり、解決の方法も有りません(Googleの仕様変更かも)。しかしmap上の位置関係は判別できますので、引き続きそのまま表示します。
玉川上水、野火止用水との分岐
野火止用水は現在の小平監視所の地点で、玉川上水から分水していたそうだ。
ただ上記したように1973年に分水は完全にストップし、現在、東京都の清流復活事業による家庭排水の高度処理水が流され、水流が復活している。
マッ、そう言う歴史的経過は専門サイトで見て頂くとして、お陰で今その水の流れを辿って気持ちのいい散策を味わうことが出来る。
野火止用水へのアプローチ
玉川上水駅前、清巌院橋
玉川上水駅南口を出るとすぐ、玉川上水が流れ、そこに掛かる清巌院橋に出る。
ここから玉川上水に沿って下流方向、小平監視所まで歩く。
小平監視所
玉川上水駅から300メートル程下流、小平監視所。写真は下流方向から。
「清流」復活の碑
一度途絶えた玉川上水・野火止用水を、高度処理再生水で流れを復活、その碑が小平監視所の直ぐ東側にある。
野火止用水のスタート地点でもある。玉川上水はこの碑の後ろ側を流れる。
野火止用水スタート
上掲写真「清流の復活」碑の直ぐ脇から野火止用水が、暗渠とその上の緑道で始まる。
雑木林の中を行く、野火止用水緑道
道路を挟んで右側にも雑木林が広がる。
東京都薬用植物園
交差点右奥に薬用植物園が見えて来る。正門は反対側の、東大和市駅の通り。
東大和市駅
ここで一旦緑道は途絶える。
それにしても「東大和市駅」とは何とも直截と言うか、そのまま、と言った感じだが、元々は「青梅橋駅」だったらしい。2枚下の写真の交差点はそのまま「青梅橋」交差点。
東大和市駅脇の山茶花
青梅街道を超えて
ここの交差点はそのまま「青梅橋」、緑道は道路を超えて写真中央から続く
交差点脇の説明版
説明文は、クリック・拡大表示で読めます。
せせらぎの始まり
約300メートル程歩くと、清流復活事業によるせせらぎが始まる。
このせせらぎの水は、下を暗渠で流れている野火止用水(これも再生水)を汲み上げて流しているのだとか。
再生水であっても、やはり水辺は心を癒す。見た目がきれいであれば尚更のこと。
ホタルの養殖
ホタルの幼虫そのものなのか、餌となるカワニナなのか、金網で保護しているのだろう。
今時ホタルを見ることが出来る環境は得難い。
せせらぎ終点
前方突き当りでせせらぎは終わる。せせらぎ区間、約350メートル位。
この先、野火止用水の本流(再生水)が開渠となって流れる。
野火止用水緑地
野火止用水はここで大きく右にコースを変えつつ、写真右側で開渠として姿を現す。
笹で分かりにくいが、石組の下から流れが始まる。
雑木林を流れる野火止用水
用水路は右側のフェンスの中。
野火止橋
野火止橋からの下流方向
野火止橋を越えたところに立つ、工夫像
ふれあい橋
クヌギ、コナラなどの雑木林が続く。
ここで橋を渡って右岸を歩くことにする。
親水スポット
ふれあい橋の直ぐ下流。ところどころこう言った場所が有り、上水内に立ち入ることが出来る。この点では玉川上水と違う。遊んでいた子供に聞いたところ、魚は捕っていけないんだそうだ。
東野火止橋
手前の道路は「こぶし通り」。
一旦住宅街の中を通る。
再度、雑木林に。
富士見橋
古い石柱が立っていて、「富士見橋」と彫ってあった。ここから暫く野火止用水は暗渠となる。
富士見橋脇の公園
この公園の右側の下を暗渠として流れているのだろう。
道路に沿って、植栽の下を暗渠が続く。
再び開渠に
西武国分寺線
前方、西武国分寺線の踏切。
※ 草門 去来荘
国分寺線のすぐ左手前に建つ料亭。
野火止用水に直接関係ないが、中々の風情。許可を得て撮影させてもらう。
九道の辻公園
西武国分寺線を超えて、直ぐ右側に広がる「九道の辻公園」。
トイレにしては中々趣がある風情だ。
府中街道と八坂交差点
九道の辻
八坂交差点は又、九道の辻とも言うらしい。かって鎌倉街道、江戸街道など9本の道が交差しており、それで九道の辻と呼ばれていたとのこと。現在も複雑な交差点になっている。
前の大きな通りは府中街道。野火止用水は道路を超えて、写真中央から先に続く。
交差点を超えて続く野火止用水。
今回ここまで
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