玉川上水は面白い

 

武蔵野の地形と地質、江戸と言う時代が見えてくる

玉川上水を、歩き、調べてゆくと、武蔵野の地形と地質との、抜き差しならぬ関係が否応なしに浮かび上がってくる。その地形と地質に、江戸時代の先人達がどのように折り合いを付けながら、玉川上水と言う命の水を確保して来たのか。正に奇跡とも言えるコース取りに舌を巻く。

    

何より、歩いていて気持ちがいい

羽村堰から四谷大木戸までの、43キロ、ほぼマラソンコースに匹敵する玉川上水沿線。一部暗渠化されてその面影を偲べない地点も有るが、大部分は雑木林が鬱蒼と茂るコースが今でも残っている。「これが東京か?」と思わせる程に誠に気持ちがいいコースが続いている。
桜の花と緑滴る春、紅葉の秋。何度歩いても飽きない散策コースだ。

中でも、玉川上水駅から小金井公園までの、秋の紅葉は特に素晴らしい。
東京の紅葉は、御岳・奥多摩や高尾山は別として、平場では「紅葉」と言うより「枯葉」のイメージが強くて、あまり見るに値しないと思っていた。それが玉川上水を歩いて見て「中々侮りがたい」と認識を新たにしたものだ。

 

地形図

武蔵野全体の地形、及びその中での玉川上水経路の詳細は、「武蔵野地形図」をご覧下さい(巨大な図です。スクロールしながらご覧ください)。
図の中で羽村から始まる玉川上水は、白い四角をクリックするとその部分の詳細図が表示されます。その後、図の下に表示されている→をクリックすると、その示す方向の図が表示されます。

 

    

 

地形-立川崖線と国分寺崖線、そして山の手台地

玉川上水コース取りの最大の難関は、立川崖線と国分寺崖線と言う二つの崖越えだったろう。どちらも武蔵野台地を多摩川が削り出した河岸段丘で、10メートル以上の高さをもって多摩川と並行してその北側に横たわる。
水は常に一番低きを流れる。多摩川から取水した上水はこの二つの崖線を超えない限り結局元の多摩川に戻るしかない訳で、江戸まで水を運ぶ為にはこの崖線越えがどうしても避けられない。
玉川上水は、立川崖線と国分寺崖線で、崖線越えの手法が異なる。

又、江戸の町が近づいてきた最終盤、今で言う山の手台地の複雑な起伏にも苦労させられたであろうことが、上水のコースに見て取れる。

 

立川崖線越え

羽村駅と多摩川をつなぐ都道163号線は、途中の新奥多摩街道を横切った先で急な下り坂になる。お寺坂、或いは禅林寺坂とも通称されるこの坂は、そこに横たわる立川崖線を切り通して車が通れるようにした道路で、かっては今よりも急峻だったという。坂の途中に、かってここを昇り降りした馬を労わる為の水飲み場跡がある。

羽村駅から見てのこの下り坂つまり立川崖線が、逆に多摩川から見たとき流れを阻む壁として、玉川上水工事の大きな障害となる。
羽村駅は崖線上の立川面、多摩川は崖線下の沖積面にあるのだが、直線距離僅か800メートル弱のこの間で、高低差は20メートル程もある。この高低差は下流に行ったからといって縮まる訳ではない。
玉川上水を江戸まで通すには、先ずこの立川崖線をどこかで乗り越えて水を沖積面から立川面に上げる必要がある。

 

標高差の中で高さを吸収

今はポンプなどの揚水設備を使って、下流からでもどこからでも水を汲み上げ、どこにでも給水することが出来る。しかし自然の勾配だけを使って水を流すしかなかった時代、水を崖上に上げる為にどうするか? 結局上流から下流に向かっての、標高低下の中で、元々の高低差を吸収するしかない。水路を極力水平に保って(凸凹さえなければ、水は水平でも流れる)下流に流せば、周囲の標高が自然に下がって行く中で、いつか周りと同じ高さになる。
羽村堰で取水した玉川上水を、多摩川とほぼ平行して下流方向(東南)にコース取りをしているのはその為だし、事実羽村堰から拝島までの間、玉川上水の勾配は非常に平坦で流れもゆったりしている。

羽村から拝島迄直線距離にして約5キロ、その僅かな間で水を完全に立川面に上げることが出来たのは、羽村堰の位置が比較的多摩川の上流部だったからだろう。一般に上流部ほど勾配が大きく高低差を吸収しやすい。取水堰の位置を2回付け替え、結局今の羽村堰に決定したのも、これより下流からの取水では立川崖線を越えるだけの標高差が得られなかったからだと考えられる。

※ 上水の勾配を極力水平に保って流せば、下流に行くに従って周りの標高が低下し、いつか水を崖の上に上げることが出来る、とは言っても、そんなに都合のいい水平地盤が最初からそこに有る訳もなく、おそらく崖を削って上水路を通す地盤を開いたのだろう。当時の技術や工期の関係で、必然的にその幅は用水の幅ギリギリだったのだろう。多摩川の洪水などでその縁が洗われたりしたらひとたまりも無かったと思われる。
福生加美上水公園の近くに、多摩川からの浸食による「上水付け替え工事跡」の碑が建っている。

又、水路を水平に保つための地盤掘削による礫層ぶち抜き、いわゆる水喰らい土については上記の通り。

 

拝島で立川面乗せ

見てきたように立川崖線越えの為に利用されたのが自然の標高差で、羽村から拝島に至る間の標高低下の中に、立川崖線との高低差を吸収し、水を崖線の上に上げ、水喰らい土等の試行錯誤は有りながら、拝島では完全に水を立川面に乗せている(この間の様相は上記したように地形図を参照して下さい)。
玉川上水のコース取りを、多摩川にほぼ平行する形で下流方向に取っているのは、この標高低下を最大限に利用する為だろう。これは標高差の大きい上流部だからこそ出来たことで、この手法は次の国分寺崖線越えには使えない。

 

国分寺崖線越え

次(拝島から玉川上水駅)の課題は国分寺崖線越えである。
その為に取った手法は、未だ崖線が未発達で高低差が目立たない地点で越えてしまうことだった。それが今の玉川上水駅付近。ここで越えておかないとその先、長く、次第に高さを増してゆく国分寺崖線が壁となる。

同じ緯度を維持しながらのコースで、国分寺崖線越え

羽村から拝島迄、多摩川にほぼ沿う形で南下してきた玉川上水は、拝島で大きくコースを左に変え、今度はほぼ同じ緯度を維持しながら、今の玉川上水駅を目標に東に向かう。
北西の青梅を扇頂とする扇状地形に在って北上するコースは昇り勾配となる。又南下するコースでは高さを増してきた国分寺崖線にぶつかり、越えることが難しくなる。
同緯度での拝島からの東進は、流れを維持しつつ崖線を越える為のギリギリのコース取りだったと言えよう。そしてその為にも玉川上水駅とほぼ同じ緯度の拝島で、兎も角も立川崖線を超えておかなくてはならなかった。

関東造盆地運動

実はこの間の玉川上水のコースは完全な同緯度、つまり東から真西へではなくやや北上している。それによって国分寺崖線のより未発達な地点で超えることが出来ている訳だが、北上コースは台地扇頂部に近くなって、本来なら標高が上がり水を流すのが困難になる筈である。それが可能だったのは「関東造盆地運動」による台地中央部の沈降が貢献して下り勾配を維持出来たからだろう。ここでも奇跡とも言うべき絶妙なコース取りと言える。それを下の地形断面図で示す。

 

地形断面図

拝島から玉川上水駅(国分寺崖線越え)迄の直線断面(KASHMIR 3Dを使っての断面図)。
拝島から玉川上水駅まで、若干北上する形でのコース取りと、それにもかかわらず下り勾配になっている様子が見て取れる。
途中、立川断層(立川崖線ではない)が横切り、それを迂回する形で大曲りと言うエポックが有るが、全体としては地形のままに水を流せばいいことになる。
立川面に上がり切ったこの間の玉川上水は次の国分寺崖線越えまで、実際ほぼ直線で起伏の少ない自然な流れとなっていることが歩いて実感できる。コース全体からみても比較的工事が容易だった区間だったのではないだろうか。

勾配図.gif

 

※ 神田上水と玉川上水

国分寺崖線を超えて武蔵野面に水を上げた次の当面の目標は、井の頭池。
実は既に井の頭池を水源とする神田上水が江戸まで整備されていた。だからここまで持ってくれば江戸までの通水は取り敢えず保証される。しかし単純に神田上水に合流させれば済むと言う話ではなかった。それは神田上水の標高。元々自然河川を整備した神田上水は、地形の最も低い谷筋を流れている。関口大洗堰で堰き止めて水位を上げたとは言っても、配水できるのは江戸の下町域だけ。大事な江戸城に供給は出来ない。
玉川上水は神田上水とほぼ並行したコースを取りながらも、やはり台地の峰筋、分水嶺を通る形で流している。

 

関口大洗堰と四谷大木戸の標高

多摩川上水の最終地点を四谷大木戸に設定したのもその標高。四谷大木戸の海抜高度は33メートルで江戸市内でも最も高い所に位置し(自然成立の山としては23区最高とされる愛宕山の標高が25.7m―愛宕神社境内の三角点の記録)、その後市内にくまなく、特に江戸城に水を滞りなく流す為に、これ以外の選択肢は無かったと言える。
四谷大木戸から先、最終の霊巖島(中央区新川)までの平均勾配は4.57‰(パーミル)、玉川上水全体の平均勾配、2.14‰より遥かに急でその分、スムーズで勢いのある給水が出来たのだろう。

なお神田上水の最終コース、関口大洗堰の標高は10m。

 

山の手台地の複雑な地形

標高差を利用した立川崖線超え、未発達な地点での国分寺崖線越えを経て、最後の難関は山の手台地に入ってからと言うことになる。武蔵野扇状台地の終端部であるこのエリアは、台地と谷が鹿の角のように複雑にせめぎ合い、その谷も深い。
高井戸の浅間橋から、概ね甲州街道に沿って順調に流れて来た玉川上水が、現在の京王線代田橋駅手前で急に甲州街道から右(南)に離れ、その後もVターンを繰り返しながら奇妙なコースを取る。ひとえにこの区間の入り組んだ窪地を避けてのことだが、平面の地図を見ただけではこの事情は理解できない。こちらの本文と地形図を参照のこと。

上質なパズルを見るような奇跡とも言えるコース取りを経て、兎も角も羽村から取水した多摩川の水を四谷大木戸迄43キロ、流し通すことが出来た。

 

 

地質-扇状地礫層と水喰らい土

上水と鉄道の共通点と違い

次に地質について考えてみる。
立川崖線にしろ国分寺崖線にしろ、勾配の維持だけなら掘って切通しにすれば解決する。実は鉄道の線路も水路と同じく凸凹が苦手で、低いところは高架で通し高いところはトンネルや切通しで平坦を保つ。例えばJR中央本線の国分寺駅から国立駅に至る間は国分寺崖線を切通した深くて長い谷になっている。こういう風景は鉄道路線の至る所で見られる。

同じように玉川上水のコース取りで、行く手に崖線が有ったらそれを切通すことで鉄道のように水を流すことが出来るか、と言うとそうはいかない。
武蔵野台地は多摩川が積み上げた扇状地礫層で出来ていてその上を関東ローム層が覆っているのだが、そのローム層を突き破ってしまえば水は全て礫層の中に逃げてしまう。これが「水喰らい土」だ。特に立川ロームは薄く(3メートルほど)、少し掘れば直ぐ礫層に達する。
その名も「水喰らい土公園」、福生加美上水公園に見られる「付け替え工事」跡、或いは立川断層を避けるための「大曲」など、地形の起伏現場での水喰らい土現象を回避する為の先人の苦労の跡だと言える。

 

 

取水口付け替えと野火止用水

多摩川からの取水、2度の失敗

当初日野から取水し現在の京王線多磨霊園駅付近(府中市)を通す案が試みられたが、試験通水で水喰らい土によって断念、次に福生からの取水を試みたが岩盤に当たってこれも失敗した経過が有る。
玉川上水工事総奉行、川越藩主・松平信綱の命を受けた家臣の安松金右衛門の案により、取水堰は現在の羽村に決定した。

 

智恵伊豆と野火止用水

信綱は玉川上水完成の功績に対し、禄の加増を辞退する代わりに、玉川上水の水、3割を自領に分水する許可を得て、1655年、野火止用水を完成させている。
水喰らい土や岩盤による断念自体、日野取水が地形的に無理筋なコースだったと言えるのだが、そもそも松平信綱は最初から羽村取水しか頭になかったのではなかろうか。日野からの取水で仮に水が流れたとして、府中を通るコースでは野火止台地への分水など地形的に考えられない。

これは私の独断だが、松平信綱が玉川上水の総奉行になった時点で、彼の本当の目的は野火止用水であって、玉川上水はその手段だったのだろう。
野火止用水は25キロを40日で完成させたそうだ。この短期間での完成そのものが実は、前もって用意周到に準備された段取りがあっただろうことを推測させる。

高燥の地である自領野火止への用水確保は信綱にとって宿願だった筈だが、かと言って幕藩体制の時代、他国領を通って多摩川から勝手に用水路掘削等出来る筈も無い。
用水工事の大義名分とその費用を幕府に負わせ、出来あがった玉川上水から工事恩賞としての野火止用水掘削の許可を得た。正に「知恵伊豆」面目躍如と言ったところだろう。
その為にも取水口は羽村でなければならなかった。実際それより下流からの2度にわたる取水の試みは地形的条件で失敗した訳で、特にごり押しする必要もなく穏便に現在の羽村取水とコースが決まり、めでたく小平の地で、川越領野火止への用水路を引くことができた。若しかしたら2度の失敗も、羽村取水を自然なものにする為の、最初から失敗を織り込み済みのことだったかも知れない。

 

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