国分寺・国分尼寺跡
武蔵国分寺・国分尼寺跡、薬師堂
野川源流の一つ、「元町用水・お鷹の道」関連として、国分寺の地名の由来ともなっている武蔵国分寺・国分尼寺を取り上げる。
かっての国分寺と今の国分寺
そもそも国分寺は奈良時代、聖武天皇の勅命で諸国に建てられた由緒あるお寺。その中でも武蔵国分寺は国分寺崖線を背に、その南側に広大な寺域を持ち、諸国の国分寺の中でも最大級の規模だったとか。
その後新田義貞による鎌倉攻めの戦乱によって灰燼に帰し、その跡の一部が「武蔵国分寺跡」として残っている。
最初に訪ねた時、国分寺跡の所在を地元の人に聞いたことが有って、「何もない所だよ」と言われたが、確かに伽藍の復元もされないまま芝生が広がっている状態。基石や瓦欠片で微かに往時を偲ぶのみ。
現在の国分寺
武蔵国分寺跡の脇に、同じく「国分寺」」がこじんまりとして落ち着いた雰囲気で建っている。
但しこの国分寺は、武蔵国分寺とは直接の関係は全くないのだそうだ。
薬師堂
戦乱の際、唯一焼け残った薬師如来像を安置する為、新田義貞が寄進したのが薬師堂で、国分寺の金堂跡に建てられていたものを、江戸時代今の場所に移転したのだそうな。
地形図
地形図、並びに撮影Mapは野川源流部ページで共用です。クリックして拡大表示でご覧ください。
国分寺崖線が、北の武蔵野面と南の立川面をハッキリ分けています。全てはその境界部分に集中していることが分かります。
撮影データMap
クリックするとGooglemapと連動して表示されます。 (2018年、突然Googlemapでの表示が不調となり、解決の方法も有りません。しかしmap上の位置関係は判別できますので、引き続きそのまま表示します)。
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