武蔵野台地の縁に建つ皇居 -2(南側半周-半蔵門から大手門)
北の丸周辺(皇居を代表する景観)
半蔵門から桜田濠、桜田門、二重橋と皇居外苑、坂下門、桔梗門など、皇居を代表する「絵葉書的」景観が続く。同時に霞が関、丸の内、銀座と、日本の政治・経済の中心を横目に見ながらのコースでもある。
※ 皇居、お濠、その地形などについての概要は「武蔵野台地の縁に建つ皇居-1」に記載しておきました。参照して下さい。
地形図
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撮影マップ
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代官町通りと内堀通り
写真左側から代官町通りが入り、右側の内堀通りと交差する。内堀通りの右側は一番町。
正面のお濠は半蔵濠。その半蔵濠に沿って遊歩道を歩く。
半蔵濠
半蔵濠と千鳥ヶ淵は現在、代官町通りで仕切られているが、かってはそこに通路も橋もなく半蔵濠と千鳥ヶ淵は繋がっていたらしい。従って今のように通り抜けは出来無かった。現在も二つの濠は水路で繋がっており、水面標高は同じ15.98メートル。江戸城の濠の中では一番高い。
正面左奥に半蔵門が見える。
桜の名所
千鳥ヶ淵から続くこの辺も桜の名所。
警備中の警察官がカメラを見て話しかけて来たので聞いていると、きれいなことで知られる枝垂桜が有ると言う。おそらくこのトイレ脇の桜だと思う。
写真右側に、道を挟んで英国大使館が広がる。
英国大使館
番町のシンボル的存在。
明治以降の日本との深い関係も反映しているのだろう、一等地の広い敷地に正に威風堂々。
半蔵門、半蔵濠と桜田濠
半蔵門に続く土手によって、半蔵濠と桜田濠が仕切られる。
半蔵濠は北側の千鳥ヶ淵と水路で繋がっており、水面標高は同じ15.98メートル。それに対し南側(土手を越えて右側)の桜田濠は3.82メートルでその高低差は10メートル以上も有る。この差はそのまま山の手台地と東京低地の高低差と言うことになるのだが、元々千鳥ヶ淵、半蔵濠は地形を利用してのダムとして始まった訳で、半蔵門土手がダムの堰堤のような役割をしている。
※ 千鳥ヶ淵、牛ヶ淵、半蔵濠の関係については、こちらも。
半蔵濠
桜田濠
この高低差。
将軍警護と半蔵門
城の正面の門・大手門に対し、裏口に当たる門を一般に搦手門と称する。有事の際、領主などが脱出する為の役割を持っていて、取り分け厳重な防御となっている。小型で狭く目立たない様式が多く少人数でも警備できるように設計してあった。元々の半蔵門は太平洋戦争で焼失。現在の門は和田倉門の高麗門を移築したものだそうだ。
半蔵門の名前の由来は、この門を警護した徳川家の家来服部正成・正就父子の通称「半蔵」からくると言う説が有力だが、山王祭の山車の像が半分しか入れなかったから、と言う説も有る。若しかしたら他の門に比べ最初から小さかったのかも知れない。
半蔵門は西の丸(現在の皇居)に直接繋がる一番近い門で、一般公開はされていない。
甲州街道、地形的にも重要?
都道401号線。(内堀通り)を挟んで、半蔵門からそのまま繋がる形で国道20号線(甲州街道・新宿通り)が真っすぐ新宿まで通っている。甲州街道は江戸と甲府を繋ぎ、江戸城陥落の際の将軍避難路を想定した軍事上重要な街道で、半蔵門そのものが家康警護に貢献した伊賀忍者筆頭、服部半蔵に由来したと言われているものだし、沿道には関所や様々な防護システムを配していた。途中の八王子にも「八王子千人同心」と言う警備・治安組織を置いた。
こう言う事情から甲州街道沿いには、親徳川家の雰囲気が高く、新選組の近藤勇、土方歳三なども多摩地区の出身。
上記したように、将軍警護と言う点で重要な門だったのだろうが、同時に地形的にも特別に警護を要する門ではなかっただろうか。既に述べたようにこの門に続く土手は、高低差10メートル以上の濠を堰き止めるダム堰堤のような役割も持っている。ここが決壊すれば千鳥ヶ淵、半蔵濠の水が一気に桜田濠を経て、東京低地である今の外苑や和田倉門、大手門などを襲う。逆に千鳥ヶ淵や半蔵門の水位が下がり濠としての防御機能が落ちるだろう。
他の門はいざという時わざとその土手を切ったり、北桔橋のようにはね上げて外敵からの侵入を防ぐ戦術が取れただろうが、この半蔵濠の土手は安易にそれが出来なかったのではなかろうか。
新宿通りと内藤新宿
家康が江戸に入府した際、譜代の家臣内藤清成に広大な土地を与えこの新宿を守らせた(内藤新宿と呼ばれていた)。駿馬塚
甲州街道に続く甲府、或いは高遠藩も徳川家親藩。
桜田濠に沿って
お濠は半蔵濠から桜田濠に変わる。水面は10メートル以上低くなる。ここでは石垣でなく土塁で固めてある。皇居でも屈指の景観。
正面に、通称「桜田門」と呼ばれる警視庁の建物が見える。
三宅坂を下る
三宅坂は山の手台地(右側)と東京低地(左側)を繋いでいる。坂に沿って国立劇場(手前)と最高裁判所(奥)
桜田濠と桜田門
三宅坂をほぼ下りきった位置に、桜田門が見える。
外桜田門
桜田門には、この外桜田門と、次に取り上げる内桜田門があり、一般に「桜田門」はこの外桜田門を指す。
内桜田門は通常「桔梗門」と呼ばれる。
警視庁(右)、東京高等裁判所(中央奥)、法務省旧本館(左赤レンガ)
内堀通りを挟んで、桜田門の反対側。この奥に霞が関の官庁街が広がる。
警視庁は「桜田門」の通称を持っている。
枡形門
江戸城の他の門と同じく、枡形門になっているが、他の門と違い「外枡形」。枡形が城の外に張り出している形式で、枡形全体が濠で囲まれている。
写真右側の高麗門と呼ばれる一ノ門から枡形と呼ばれる空間に入り、右に鍵の手に曲がって渡櫓門と呼ばれる二ノ門をくぐる。
皇居外苑
桜田門を抜けると広大な皇居外苑に出る。日比谷通りを挟んで右側に丸の内高層ビル群。日本経済の中心。
中央左側、二重橋に続く道。
外苑松林
戦後、焼け野原のこの地に「何を植えましょうか」と天皇に聞いたところ、「暫く待つがよかろう」と答えたとのこと。それで「松」になったのだそうだが、真偽は分からない。
内堀通り(前方微かに車や人通りが見えるが、分かるかなあ?)を境に、こちら内側の芝生は立ち入り禁止。内堀通りから外側は自由に入れる。
昔この芝生が、代々木公園などと並んで、男女カップル(当時、アベックと言った)の夜のお楽しみの場所として有名で、その盗撮写真が週刊誌などで特集が組まれたりしていた。今はあまり聞かないがどうなんだろう?
二重橋(皇居正門)
言わずと知れた記念写真の名所。かっての西の丸大手門、現在皇居正門。
手前の石橋と後方の鉄橋が並行している。一般的にはこの石橋の二重アーチを差して、或いは並んでいる二つの橋を差して「二重橋」と呼ぶとの理解が有るが、実際は奥の鉄橋が二重橋なんだそうだ。今鉄橋は一重だが、掛け替えられる前の橋が、壕が深かったことから途中に橋桁を渡してその上に橋を架けるという、上下二段に架けられた二重構造であったことから、「二重橋」と呼ばれるようになったとのこと。
この橋は外国大使の親任等で(馬車か自動車か選べるそうだが、圧倒的に馬車を希望する大使が多いらしい)渡る。最初に手前石橋を渡り、ついで奥の鉄橋を渡って皇居に入る。つまり皇居の正門になる。
正門石橋
伏見櫓と併せ、皇居を代表する絵葉書的風景。
正門鉄橋
皇居一般参観時にはこの鉄橋を渡る。
皇居正門
伏見櫓と伏見多聞
二重橋濠の右側に建っているのが伏見櫓とそれに続く手前の伏見多聞。
坂下門
門の奥、右側に宮内庁が見える。この門は宮内庁職員等の通用門になっているそうだ。
又昨年、春・秋と「乾通り一般公開」の際、入場門ともなった。
坂下門と蛤濠、宮内庁
桔梗門
昔この門の瓦に太田道灌の家紋が(桔梗)ついていたことから付いた名前だとのことだが、内桜田門とも呼ばれるらしい。
皇居参拝者、勤労奉仕者などの出入り口となっている。現在は平日所定の時間にここに集まれば、特に予約なしで皇居参拝が出来るらしい。
和田倉橋
一旦内堀通りの外側に出て、和田倉濠、そこに掛かる和田倉橋を見る。この辺出入りや通行に制限はない。
橋の先に和田倉門の一ノ門(高麗門)が有った筈だが、その高麗門は今の半蔵門として移築されたとのこと。
和田倉門の渡櫓門(跡)
枡形から渡櫓門の石垣を抜ける。門の先は会津松平藩23万石の上屋敷が広がっていた。今その一部が噴水公園となっている。
噴水公園
和田倉門を抜け、御幸通りとの間が和田倉噴水公園となっている。
巽櫓と富士見櫓
噴水公園を出た内堀通りから、遠方、富士見櫓が見える。手前は巽櫓。濠は桔梗濠。
内堀通りと桔梗濠
内堀通りを桔梗濠沿いに更に北上、前方、大手門が見えて来た。写真右側、内堀通りの外側には和田倉濠など。
大手門
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