玉川上水-1(羽村堰から清岩院橋)

 

玉川上水スタート

玉川兄弟の像

  羽村堰の公園内に玉川兄弟の銅像が建っている。玉川上水の象徴でもある。
幕府から直接玉川上水工事を請け負い完成させた功労者。立って堰を指しているのが兄庄右衛門,坐って測量用の杖尺を持つのが弟の清右衛門。
この工事の為、当初幕府から6000両が拠出されたが、途中この難工事の為に資金を使い果たし、兄弟は家を売り払って費用に充てたという。
多摩川沿い地域の農家の出だったらしいが、工事の完成により名字・帯刀を許され、玉川姓を名乗ることとなった。上水役として上水の永代管理を任されること にもなる(3代目に水道料金取り立ての不正により、お役御免、名字・帯刀も取り上げられたとのこと)。1911年(明治44)政府は玉川兄弟の功績を賞し て,両人に従五位を追贈した、そうである。

幕府から玉川兄弟に工事実施の命が下ったのが、1653年の正月、着工が同年4月。四谷大木戸までの本線開通が11月15日とされるから、この難工事を1年足らずで完成させたことになる(1653年2月10日着工、翌年8月2日本線開通とする史料もあるようだ)。

ただこの玉川兄弟について、銅像碑文にも記されているのだが、出身が地元羽村なのか江戸の町人だったのか、又、工事における位置づけと役割など、必ずしも確定しているとは言い難いようだ。

 

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地形図

クリック、拡大表示でご覧ください。

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撮影Map

クリックするとGooglemapと連動して表示されます。

2018年、突然Googlemapでの表示が不調となり、解決の方法も有りません(Googleの仕様変更かも)。しかしmap上の位置関係は判別できますので、引き続きそのまま表示します。

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玉川上水最大の難所区間

羽村から拝島まで2回に分けて取り上げる。
この区間、玉川上水スタート地点で有るとともに、上水43キロを通して最大の難所でもあった。

 

多摩川からの取水口決定、2度の失敗と、二つの付け替え工事

当初日野から取水し現在の京王線多磨霊園駅付近(府中市)を通す案が試みられたが、試験通水で水喰らい土によって断念、次に福生からの取水を試みたが岩盤に当たってこれも断念。
玉川上水工事総奉行、川越藩主・松平信綱の命を受けた家臣の安松金右衛門の案により、取水堰は現在の羽村に決定した経過が有る。
又実際に玉川上水掘削の過程で、或いは完成後、2ヶ所の付け替え工事(加美上水公園水喰らい土公園)を余儀なくされている。

しかし難所で有れば有るほど、その理由・原因と、それを先人たちがどうやって克服したかを振り返ることで、より一層興味深さが増す。
難所となった原因は次の2点に尽きる。地形地質

 

地形-横たわる立川崖線の壁

今回のコースで最大の難題となったのは「立川崖線超え」だろう。立川崖線は多摩川が武蔵野台地を削った河岸段丘だが、上掲地形図を見て分かる通り、これが幾重にも重なりながら壁のように多摩川と並行して横たわっている。台地上の羽村駅と多摩川との高低差はほぼ20メートル強。この崖を超えない限り多摩川から取水した玉川上水の水は結局多摩川に戻るしかない。台地と多摩川の高低差は下流に行ったからと言って解消される訳ではないから、地形のままに漫然と水を流したのでは絶対に崖線の壁を超えることは出来ない。

 

下流への標高差の中で、高低差を吸収

では先人たちはどうやってこの難題を解決したか?
当たり前のことだが川の流れに沿って地盤全体の標高も下がる。若しこの時その流れに並行して、極力水平に水を流すことが出来れば(凸凹さえなければ水は水平でも流れる)、いつか周囲の地盤の高さと並ぶ。崖線の壁を超えることが出来る訳だ。

羽村堰から拝島までの間で、多摩川水面の標高はほぼ26メートル下がる。この間を水平かそれに近い勾配で玉川上水を流すことが出来れば、羽村堰地点での高低差20メートル強を吸収できることになる。実際この間、玉川上水面は6.2メートルしか下がっていない(この数値は厳密な測量の結果ではありません、カシミール3Dの地形データによります)。
羽村堰から拝島に至る間、周囲の地形は結構起伏がある。しかしそこに流れている玉川上水は非常にゆったりと流れている。つまりそれだけゆるい勾配を維持していることが見て取れる。地形的にはより平坦な拝島から下流よりも流れが緩やかである。これによって上水水面と立川崖線との相対的高低差を吸収している。

なおこの手法は川の上流域でしか使えない。上流部は標高の高さは当然だが勾配も急で、下流に向かって急速に標高を下げる。この標高差が有って初めて崖線の上に水を上げることが出来た。
同じ手法を、次の「国分寺崖線越え」には使えない。

 

加美上水公園での付け替え工事

これは私の憶測になるのだが、極力水平を保って水を流すと言ってもそんなに都合のいい地盤が最初から用意されている訳じゃない。場所によっては立川崖線の台地側を削って水路を通す地盤を造る必要も有っただろう。人手だけが頼りの当時の技術で限られた工期では、地盤の幅ももそんなに余裕をもって用意できなかっただろう。多摩川に面した側は常に多摩川の洪水に洗われる危険と隣り合わせだった筈だ。
「福生加美上水公園」の近くに、多摩川からの浸食を受けて上水土手が崩れ、台地側への付け替え工事の止むなきに至った碑が建っている。

 

 

地質-扇状地礫層と立川ローム

今回の区間で工事を困難にした要因として、立川崖線の地形と共に、扇状地礫層と立川ローム層の薄さと言う、地質的な問題も有る。

地形だけの問題なら、立ちはだかる立川崖線の壁を切通せば平坦なコースを確保できる。鉄道の軌道でよくやっていることだ。
実は鉄道と水路は一部共通点がある。鉄道も高低差・凸凹を嫌う。だから低い所は高架で通し、高い所は切通しやトンネルで極力平坦を維持する。JR中央本線の国分寺駅から国立駅に掛けて、列車が深い谷を通るが、これは国分寺崖線の崖を切通している。こう言う例は鉄路の至る所で見られる。

 

水喰らい土公園と大曲

しかし同じ方法を玉川上水で使う訳には行かなかった。
武蔵野台地は多摩川が積み上げた扇状地礫層が基盤となっている。その上を火山灰由来の関東ローム層が覆っているのだが、武蔵野面と比べ地層形成の新しい立川面や沖積面はこのローム層の堆積が薄い。立川ローム層は約3メートル。
このローム層を突き破って下の礫層まで掘り下げてしまうと、水は全てこの礫層に吸い込まれてしまう。これが「水喰らい土」。だから切り通せる深さに限りがあるのだ。鉄道にとって礫層はいい基盤になるが水路としては致命的なのだ。立川面を流れる残堀川は度重なる改修工事で至る所河底が礫層にまで達した為、名前の通り堀だけ残る水無川になっている。

その名も「水喰らい土公園」は立川崖線の最後の段差を越えようと、ローム層を突き破り礫層に達した失敗現場である。幸い東側に付け替えることで無事水を流すことが出来たのは稀有の幸いと言えるだろう。

大曲も武蔵野面に上がる手前の立川面だが、北西から押し寄せている立川断層を避ける為のコース変更である。立川断層は立川・国分寺崖線などと比べてそれ程高くはない。それでもそれを切通して真っ直ぐ水を流すことが出来なかったのだろう。

 

 

 

羽村堰へのアプローチ

まいまいず井戸

 羽村駅のすぐ前に、武蔵野台地の地質学的特徴を如実に表している遺跡 ― と言っても1960年(昭和35年)、町営水道開設まで、現役の井戸だったらしい ― が有る。まいまいず井戸。
羽村駅東口のロータリーから、道を挟んで直ぐ右前、五ノ神神社境内にある。
「まいまい」とはカタツムリのこと。地表面をすり鉢状に粘土層まで掘り下げ、その底から垂直に掘り下げた井戸。その形状がカタツムリの殻に似ていることからの呼称。

武蔵野台地は元々玉川によって形成された扇状地で有り、砂礫層の堆積をなしている。その上にまた火山噴出物由来の地層である関東 ローム層が覆っている。従って特に崖線上、それも扇状地の扇頂部では地下水脈まで深く、地質は脆く崩れやすい。当時の掘削技術で垂直な縦井戸を深く掘 ることは難しかったのだろう。崩れやすい地層を一旦安息角としてのすり鉢状に粘土層まで掘り下げ、そこから水脈までを垂直に掘り下げるより方法がなかった。日々の水の調達は大変だっただろう。
同様の構造を持つ井戸はここだけでなく、特に扇状地では結構ポピュラーに見られるようだ。

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立川崖線の上と下(立川面と沖積面)

崖線と町並み

なお上掲地形図・或いはGooglemapで羽村駅周辺を見ると興味深いことが分かる。北西から南東に伸びる青梅線を挟んで、その両側の町並みや道路が全く異なる様相を見せる。青梅線の東側では道路が整然としており、それに沿って家並みも区画化されている。それに対し西側では道路も家並みも整然とは言い難い。

これはこの地で、青梅線が立川崖線とほぼ並行して通っており、崖線上の立川面と下の沖積面との境界線をなす格好になっている為である。
崖線の上、立川面では上記まいまいず井戸に見られるように、水の確保が容易でなかった。その為に人の定住が遅れ、それが逆に近年の都市開発を容易にしたのであり、崖線の下は禅林寺に見られるように湧水(ハケの水)が豊富だった為、古くから人が定住し、その地権関係が入り組んで都市再開発の障害となった為だろう。こう言うケースはアチコチで見られる。

 

羽村から狭山丘陵まで、奇跡の1本道

羽村堰から500メートル余り下流から、真東に真っすぐ伸びる細い道が見える。これは「羽村堰第三水門」で取水された水を村山・山口貯水池に送る導水管が埋設されていて、その工事の為の鉄道(羽村山口軽便鉄道)敷だったのだが、不自然なほど真っすぐなコースが取れたのも、おそらく人の定住のない原野だったからではないか。

 

お寺坂

羽村駅から多摩川に向かう途中、都道29号を超えたところから長い坂が延びる。お寺坂、或いは禅林寺坂と呼ばれるこの坂は、立川崖線の上(立川面)と下(沖積面)を繋ぐ道路。坂の長さは立川崖線の高さを示し、かってはもっと急だったと言うし、さらにもっと昔は崖のままに階段状のところを上がり降りしたのだろう。

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馬の水飲み場跡

坂の途中にある。右側の説明板には以下のように記されている。

ここには、豊かな湧き水を利用した馬の水飲み場がありました。坂の下に住む農家の人たちは、畑がハケ上(段丘)に有ったので、この坂に大変苦労し、肥料や収穫物の運搬は、荷車を引く馬に頼っていました。この為急な坂をのぼった所に水飲み場を作り、馬をいたわりました。
明治27年(1894)に青梅鉄道が開通してからは、多摩川の砂利を羽村駅まで運搬する馬の水飲み場としても多いに利用されました。
この坂は、近くに禅林寺があるので、お寺坂と呼ばれ、明治時代の中頃までは、荷車がやっと通れるほどの道幅でした。
昭和62年3月
羽村市教育委員会

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中里介山の墓

禅林寺墓地に葬られている中里介山の墓。中里介山は長編小説『大菩薩峠』の作者で有名だし、そのことで禅林寺も知られている。
だがここで中里介山の墓を取り上げたのは、その為ではない。

禅林寺の建物は立川崖線の下、沖積面に建っているが、墓地は崖線の上、立川面に有って、崖を挟んで隣り合わせている。この地形を視覚化できる格好の場所なのだ。

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立川崖線の上と下

禅林寺墓地から多摩川を見下ろす。
常に一番低きを流れる水を、この高低差を超えて流すにはどうするか?

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墓地と禅林寺を繋ぐ石段

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崖線を背負う禅林寺

背後に立川崖線の崖が見える。
墓地の有る崖線の上と禅林寺とは、約11メートルの高低差。更にここから多摩川までは5メートル下がる。
合わせて16メートル、羽村駅からは20メートルの高低差を、これから玉川上水は超えてゆく必要がある。

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崖線の下には湧水(ハケの水)が付き物。今は枯れているがかっては豊富な湧水が有ったのだろう。

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玉川水神社、陣屋跡

奥多摩街道を挟んで、羽村堰の直ぐ脇に立っている。
何度か来ているがこんなフェンスは初めて。

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2015年1月撮影。無粋なフェンスは無かった。

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羽村堰

玉川上水は今でも東京都民水道用水源の大動脈として立派に現役を果たしている。その水の取り入れ口がここ羽村堰。
勿論玉川兄弟の時代とは大きく様相を変えていることだろうが、玉石で囲まれた堰の姿は趣があって見栄えがする。コストは掛っただろうがコンクリート壁ではこの雰囲気は出ない。

第一水門、第二水門、小吐水門

写真右側奥が第一水門。ここから多摩川の水を取りこむ。
多摩川が大きく蛇行し、流れを緩めると同時に、その流れを丁度受け止めるような絶妙な位置に水門が開いている。大水の時などはここを締めて土砂の浸入等を防ぐ。

写真下側が第二水門で、第一水門で取り入れた水を一定量に調整して玉川上水に流す。
その調整が写真ほぼ中央、第一水門脇の小吐水門。余った水をここから多摩川に戻す。

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奔流

第二水門から玉川上水として流れ出す。利根川水系と並んで東京都民の大水源である。
それにしてもこの玉石の護岸は趣が有る。造るのは大変だったろうが。

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下流側から、多摩川に張り出した堰。
この堰は固定堰(写真左)と投渡堰(なげわたしぜき―写真右)の2つの堰で構成されている。投渡堰とは堰の支柱の桁に丸太や木の枝を柵状に設置する方法であり、大雨時に多摩川本流が増水した場合、玉川上水の水門の破壊と洪水を回避する目的で、堰に設置した丸太等を取り払って多摩川本流に流す仕組みになっている。この仕組みは堰が設置された1654年(承応3年)からほぼ変わらず現在に至っている。(Wikipediaより)

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羽村堰第三水門と、東京水道局羽村導水ポンプ所

ここで羽村堰から取り入れた水の大半が取水され、村山貯水池(通称、多摩湖)と山口貯水池(通称、狭山湖)に送水される。その送水管の敷設路・建設用の軌道敷跡が、ポンプ所から東に奇跡の一直線として上掲地形図で確認できる。これは「羽村山口軽便鉄道」敷跡
残りの水が、中央の水門から玉川上水に流される。

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村山・山口貯水池への送水スタート地点

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羽村大橋から下流方向

第三水門で取水され大幅に水量を減らして、玉川上水は流れてゆく。

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堂橋

奥多摩街道が乗っている立川崖線との高低差が顕著に分かる場所。玉川上水の水面はこの橋の更に下。
前方の奥多摩街道の高さまで上げないと水はその先まで持ってゆけない。

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堂橋より下流方向

極力水平を保ちつつゆったりと流れる玉川上水。
右側奥の多摩川本流から既に相当高さを上げつつ、左側、立川崖線との高低差を詰めてゆく。

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清流

自然河川の水は、季節によって、日によって、時間によって違うが、今日は本当にきれいだった。

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福生加美上水公園

徐々に地盤が高くなってゆく。相対的に玉川上水の水面が低くなってゆく。

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富士山の見える丘

徒歩1分とあるが、富士山ビューポイントまでホンの僅か。

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立川崖線越えと付け替え工事

加美上水公園付近の地形図と断面図を表示しておいた。この辺りで上水が(一つの)崖線を超えているのが推測できる。
水面を極力水平に保って水を流しながら、周りの標高が下がるのに合わせて崖線を超えた訳だが、おそらくその為に崖線側の崖を削り水平の地盤を造ったのだろう。しかし当時としてはゆとりのある幅広い地盤を用意する訳にも行かず、その狭い水路地盤を多摩川が洗うことも多々あったと思われる。それによる付け替え工事の必要が生じたものと思われる。

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最初の掘削跡

上流方向を見ているので、写真左側が直ぐ切れ込んでいて、その先に流れる多摩川の出水に耐性がなさそうなことが分かる。小河内ダムなどの無かった時代、何度も多摩川の洪水に襲われていたようだ。
その後玉川上水は右側高台の反対側に付け替えられている。

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奥多摩街道に上がる

左にカーブし、玉川上水は一つの断層をほぼ越える。一般に水路がクイっと向きを変える時、段差を超えることが多い。ここから先は立川面を、主に奥多摩街道沿いに流れてゆく。

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宮本橋

橋を渡り今度は玉川上水の左岸を、奥多摩街道沿いに歩く。ここで完全に玉川上水は(一つの)立川崖線を登り切り、別の面上に出たことが、左の道路との高低差で実感できる。

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田村酒造と田村分水

田村酒造は玉川上水と縁が深い。敷地内に引き込まれている「田村分水」は、江戸時代に作られたものとしては、唯一の個人分水である(明治以降造られた「源五右衛門分水」も砂川家個人分水)。

 

  以下、玉川上水辞典から、感謝を込めてそのまま引用させて頂く。

福生市宮本橋の袂に、見事な玉石積みの石垣に囲まれている屋敷が清酒『嘉泉』や『玉川上水』で名高い田村酒造。石垣の中ほどの鉤型に切れ込んだ辺りに田村分水の分水口がある。

田村家は江戸時代初期から福生村の開拓にあたり、代々名主を務めてきた。玉川上水が引かれて約40年後、元禄年間(1688~1704)に分水を認められ水利権を得た個人分水だが、維新前年以後、その下流の福生村の水田開発・農業用水にも利用され、福生分水と呼ばれるようになった。

田村家では九代目半十郎の時代に邸内に井戸を掘り当て、あまりのいい水に嘉泉と呼び、その井戸水で酒造りを始めた。分水口は1升枡ぐらいだが、この分水で水車を回して精米製粉をしていた。明治初期には電気をおこして自家発電をしていたこともある。水車を回した余水は屋敷内を小川のように巡らせて、環境水として利用する

一方、酒蔵の洗い場に引き込んで桶やザルなどの道具を洗うのに利用している。また雑廃水の排水路にもなっている。小河内ダムが完成する以前は酒造米を洗ったり釜を洗うのにも利用されていた。

現在、同分水は田村家の邸内を出た後、500㍍位で暗渠となり金掘公園付近で市の下水路と合流している。

引用ここまで

 

田村酒造に繋がる宿橋脇から上水脇の通路に入ることが出来る。例外的?にフェンス内に入れる場所。上水の水位があまり深くないことも、規制が緩い理由か?

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上水に面した裏木戸風な門

かって、船着き場としても使われていたのかも。

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田村酒造

宿橋を渡って田村酒造の正面に出たところ。敷地を通ってきた分水が流れ出ている。
入り口に門は有るが、解放的で中を覗くのに特段の制約は無さそう。
当家の方と思しき人がいたので「写真を撮らせて貰っていいか?」と聞いたら、快く了解して頂いた。

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田村分水

田村酒造敷地から流れて来た水は、宿橋に続く道路を挟んで流れて行き田村分水となる。灌漑用水や飲用水として使われていたのだろう。
この先、300メートルほどで暗渠となる。

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宿橋

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新橋

次の清岩院橋までの間、玉川上水に沿って通れない。奥多摩街道を歩くことになる。

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清岩院橋

玉川上水から離れていた奥多摩街道が都道166と合流したところで、再び清岩院橋で玉川上水を渡り、今度は右岸を歩く。
この清岩院橋の右詰手前に、清岩院があり境内に湧水が見られる。

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今回はここまで

 

 

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