覚書-不可知論に関するスケッチ

    

 

不可知論とは

人間は意識の中に、客観世界を正しく認識しうるか否か?と言う問題に対して、「認識できない」或いは「全ては認識できない」とする哲学的主張を不可知論と言う訳です。大雑把に言えば。
そして不可知論は、ヒュームとカントをそれぞれの代表者とする、二つの潮流に大きく分類されます。その潮流に沿ってスケッチし、最初に先ず不可知論の具体的な中身を見てみましょう。

本文「世界の認識可能性」参照のこと

 

ヒューム型不可知論

「認識できない」とする代表がイギリスのディビット・ヒューム(1711年5月7日- 1776年8月25日)です。
ヒュームにあっては世界の認識可能性が全面的に否定されます。意識がその外の何かを正しく反映しているかどうか知りようが無いし、そもそもそう言う何かが意識の外に実在するかどうかさえ、知りようが無いと言うことです。

人間の認識が全て感覚器官に生じる印象と、これから作られる観念で成り立つ以上、我々が知り得るのはその印象と観念だけで有り、その外に出ることはできない。
人間が語り得るのは印象だけであり、その外に有る「物」について語ることはできない。それが意識の外に有る「なにか」を正しく写し取っているかどうか知りようがないし、そもそもそう言う何かが意識の外に実在するかどうかさえ、知ることはできない。ということです。

そもそも観念は個々人の意識の内にだけある。だから観念同士の比較は可能でも、意識の外に有る物質と意識内の観念とで相互に比較など出来ず、比較できないものについて、それが一致するかどうかなどということ自体無意味である。一言でいえば、今目の前に展開している世界が、本当に実在しているものなのかどうか、それすら確かめようがない、という主張です。

この不可知論に対し、「理論」で反論することはなかなか難しい、と言うか、個人的「意識内」の土俵の上での議論は往々にして水掛け論になってしまいがちです。
弁証法的唯物論に丸ごと「洗脳」され、不可知論批判の急先鋒たることを自認している私でさえ、時々、フッと目の前の出来事が、「本当は自分だけの、頭の中での出来事なんじゃないか?」なんて錯覚に、一瞬陥ることが有ります。
まして「普通の人」がヒュームの不可知論的主張に対し、何となく納得してしまったとしても、そのこと自体は結構有りそうなことだろうと思っているところです。

ではこの、一見厄介なヒューム型不可知論に対し、どう言う反駁の仕方が有るのでしょうか。

 

弁証法的唯物論からのヒューム型不可知論への批判

唯物論からの不可知論への批判は、主にエンゲルスの仕事です。
ヒューム型不可知論に対し、エンゲルスは「実践」の立場からあっさりと、そして明確に批判しています。つまり「やってみれば分かる」と言うことです。
エンゲルスは次のような機知に富んだ文章で、ヒューム型不可知論を痛烈に皮肉っています。

人間の行動は、人間の小ざかしさが困難を考えだすよりもずっと前に、この困難を解決していた。プディングの味は食ってみれば分かる。
これらの対象のうちにわれわれが知覚する色々な性質に応じて我われがそれらの対象を自分の役に立たせるその瞬間に、われわれは、われわれの感覚、知覚が正しいか正しくないかについて、間違いのない吟味をしているのである。
若しもこれらの知覚が間違っているならば、ある対象を一定の用途に当てることができると考えたわれわれの評価も間違っているに違いないし、従って、それを使おうとする我々の企ても失敗するに違いない。
しかし、もしもわれわれがその目的を遂げるのに成功するならば、すなわち、その対象がそれについてのわれわれの観念に一致しており、われわれがそれを役だてようと思った目的に応ずることが分かるならば、そのことは、その限りで、対象とその性質についてのわれわれの知覚がわれわれの外にある実在に一致してい るということの積極的な証明である」(空想から科学へ』1892年英語版序文)

頭の中だけで「不可知論」を唱えているヒューム氏であっても、実際の生活の場では意識の外に有る「物」や世界の実在を、実は全く疑っていないのです。
不意に目の前に馬車が飛び出して来た時、「意識の外に有るこの馬車が、実在しているかどうか、本当は解らない」などと、その馬車の実在性を一瞬でも疑うことなど有り得ません。躊躇なく飛び退く筈なのです。
若し そうしなかったらヒューム氏は「馬車に引き殺される」と言う実践を通して、その馬車の実在性をヒューム氏自身が身をもって証明することとなるでしょう。

以前読んだ不破哲三さんの著書の中で、こんなことが書いてあったのを(おぼろげに)覚えています(本の題名と正確な内容は覚えていませんが)。
不破さんが東大に入学して、哲学だったか何かの最初の授業で、教授が「自分は不可知論者だ。世界の実在性について確信を持っていない」というような自己紹介を、まず最初に滔々と述べるのだそうです。
その後おもむろに本を開いて哲学の講義をしたと言うのですが、不破さんは、「実在しているかどうか確信の持てない本を見て、実在しているかどうか分からない学生に向かって講義をする」その教授の論理矛盾に滑稽さを感じた。
……という内容です。

ヒューム型不可知論は現実から遊離した、全く頭の中だけで捏ねあげた理屈にすぎないのです。観念論者で有ればこそ出来る芸当だと言えるでしょう。
そして油断をしていると我々も又、その現実からかけ離れた妄想の舞台で問題を考えてしまい、解決不能なドツボに陥ってしまう危険性が有る訳です。
ドツボから脱出するカギは「実践」です。

    

 

カント型不可知論

「全ては認識できない」とする代表がドイツ古典哲学のエマヌエル・カント(1724年4月22日 - 1804年2月12日)です。
カントはヒュームと違って、意識の外に何かが存在することは承認され前提されます。
しかし人間が感覚器官などの認識装置を通して知り得るのは現象だけで、その奥に有る客観的実在そのもの、すなわち「物自体」は原理上認識できない、と主張されます。
つまり人間は対象が示す現象や性質は汲みつくすことが出来るけれども、物自体には永遠に到達できない、と言うことです。
ここでカントは不可知論に陥ります。

「物自体」は唯物論で言う物質そのものです。つまりカントは感覚の外に客観的実在としての物質は認めている訳です。これはカントの唯物論的側面です。しかし同時にカントにとっての物質は、感覚によって認識することの不可能な彼岸に遠ざけられ、言わば実体を伴わない抽象的な存在になってしまいます。
カントに於ける不可知論は、観念論と唯物論と言う、相対立する哲学的傾向の調停・妥協の産物だとも言えます。従って破綻します。

 

ヘーゲルによるカントの不可知論批判

カントの不可知論に対し、先ず観念論の立場から偉大なヘーゲルが反駁します。
ヘーゲルの批判の要旨は次のようなものです。

  • 現象と物自体は切り離せない。我々が現象を知るということは、我々との関係においてそのように現象する「物自体」を知ることに他ならない。
    現象を全て知るならば、物自体の全ての諸性質・属性を知ったことになる、と先ず結論します。
  • 現象を全て知り尽くし、属性を全て汲みつくした後に、なおかつ残ると言う「物自体」とはどんなものか? それは単にそのものが我々の意識の外に存在していると言う、抽象的な事実だけではないか。と言う訳です。


例えばリンゴのリンゴたる全ての現象・属性を汲みつくした後に残る、リンゴの「物自体」と、同じくミカンのミカンたる全ての現象・属性を汲みつくした後に残る、ミカンの「物自体」と、その違いはどこに有るのか? 若しどこか違いを見出せるとしたら、それは未だ汲み尽くすべき現象・属性が残っていることであって、カントの言う「物自体」とは言えない。
人間、ナメクジ、水、電子など何でも、そのものをそのものたらしめている、全ての現象・属性を全て汲み尽し、剥ぎ取った後に残る、それぞれの「物自体」の間には何の違いも無い。認識すべきどのような具体的内容も残っていない筈だ。
カントが絶対に認識不可能だとする「物自体」なるものは、ただ存在すると言う抽象的事実以外のどのような意味も持たない。ヘーゲルの主張はこう言うことでしょう。
元々カントに於いては「物自体」が意識の外に存在することは、最初から承認・前提されている訳で、「認識不可能な物自体」と言う彼の主張はますます無意味と言うことになります。

要約するならば、現象から絶対的に区別される「物自体」なるものは、頭の中で作り上げられた抽象物に過ぎず、現実世界に存在するものではない。なんら考慮の対象になるものでは無い、と言うことです。
流石にヘーゲル、見事な批判だと私は思います。
どなたか、「物自体」の信奉者の方、一度ヘーゲルに再反論してみては如何ですか。

ヘーゲルのような徹底した観念論者からすれば、カントの中途半端が我慢ならなかったのでしょう。ヘーゲルの批判はカントの主に観念論的部分に向けられます。
その結果、ヘーゲルの批判は唯物論の主張すれすれのものになります。
「ある観念論者が他の観念論者の観念論の基礎を批判するとき、そのことによって勝利するのは常に唯物論である」と言うことです。

 

弁証法的唯物論からのカント型不可知論批判

唯物論の側からヘーゲルに付け加えることは、一つしか有りません。それは、ここでもまたしても「実践」です。現象や性質を理解するだけでなく、若し人間が、物そのものを作ることが出来たら、カントの言う「物自体」に到達することになる。後に認識不可能な「物自体」などどこにも残らない。と言うことです。

エンゲルスはアリザリンと言う染料を例に出して、「物自体」を批判しています。
この染料はかって、あかね草という植物の根からしか取れなかったのですが、有機化学の発達によってアリザリンの分子構造が分かり、その認識に基づいてコールタールなど、安い原料から大量に作ることが出来るようになりました。
この時、アリザリンという物質に、人間が認識できる現象と認識不可能とされるアリザリン自体が有る、などと言う主張は無意味になります。
コールタールから作り出したアリザリンは、あかね草の根から取ったアリザリンと全く同じものです。それを作り出したとき、人間にとって原理的に到達できないアリザリン自体が未だ残っているなどと言う主張は、もう成り立たないでしょう。

昆布のうまみがグルタミン酸ナトリウムと言う物質であることを突き止め、大豆や小麦粉など、安い原料から同じものを作るシステムを構築し、「味の素」として製品化した鈴木三郎助は、グルタミン酸ナトリウム自体に到達できた人間だと言えるでしょう。
後にグルタミン酸ナトリウムの「物自体」などと言うものは残っていません。

エンゲルスの時代と比較して、格段に進歩している現代の有機化学工業は、日々カントの「物自体」への反証になっていると言えます。
勿論有機化学だけでは有りません。
かって神の仕業として恐れられた神鳴り=カミナリも、既に空中放電として解明され、必要ならいつでも再現できます。人間の手で再生産出来るモノを「認識不可能」だとは言えないでしょう。
今では電磁気学的認識の深まりの中で、電子レベル、或いは光子レベルでの様々な操作によって、人間は電気を、生活から産業の隅々まであらゆるレベルで役に立たせています。

 

不可知論の弊害

観念論の側からヘーゲル、或いはエンゲルスを中心とする弁証法的唯物論の側から、完膚なきまでに批判されている筈の不可知論を、何故今頃取り上げなければならないのか?
そもそも不可知論は、どこに問題が有って何故批判される必要があるのか? と言う問題に移ります。

人間の歴史への、法則的展望の否定

最初に先ず、マルクス主義の立場から不可知論の弊害を述べるなら、人間社会の法則的発展を否定し、刹那的・虚無的な思考と行動、無政府主義的な運動への落とし込みでしょう。連合赤軍等の極左暴力セクト、或いはオウム等に走った青年たちの思想的背景に、やはり不可知論的思考構造を挙げなければなりません。

史的唯物論は人間社会とその歴史にもまた客観的発展法則が貫かれてお り、資本主義の崩壊と社会主義への移行を必然的なものとして主張し、その客観的法則性を与えています。それに対し「社会は人間の意志によって決まるのだか ら、そこに客観的な法則など無い。社会がどうなるかは科学では分からない」との主張がなされます。つまり1寸先は闇だ、と言うことです。
若しもそうであるなら、社会を変革しょうとする実践はなんの展望もないことになり、一方には修正資本主義のようなものが出てくるし、他方には客観的な社会情勢を無視、或いは情勢の成熟に力を注ぐのでなく、自分の主観的意志でなにもかも決めようとする、刹那主義的な「連合赤軍」派のようなものがでてくることになります。

無知・蒙昧へのいざない

次に、主に科学と不可知論との関係でその弊害について述べてみます。
不可知論の問題点は、一言で言って「科学への軽視、或いは敵視」でしょう。つまり人々を科学的思考から退け、無知・蒙昧へいざなう「理論的」主柱になっているのです。
そしてそのことによって「霊感商法」など、今だに深刻な被害が現実のものとなっています。不可知論の克服は現在的な課題でもあるのです。
マスコミ(女性誌、TVのワイドショーなど)までが先導役を買って、宜保 愛子だの細木数子だののいかがわしい人物の提灯持ちをして、背後霊だの水子霊だの、心霊写真だのと、庶民を無知蒙昧に引きずり込みながら、その責任をボカス役割を担っているのが不可知論です。つまりは「世の中には科学で説明のつかない現象が有る」として、その説明を更なる科学的探究に求めるのでなく、摩訶不思議な世界に人々を落とし込むのです。
オウム真理教や幸福の科学等を含む新興宗教の多くが、「科学の限界」を説いて信者獲得の論法に使っています。「科学の力には限界があり、医学の進歩だけではあなたの病気は治らない。信仰だけがあなたの病気を治す」、「人の幸・不幸の問題は科学が立ち入れない領域だ。ここを解決するのは信仰だけだ」と云った具合です。

グールドとNOMA(科学と不可知論)

著名な古生物学、進化生物学者でもあるスティーブン・ジェイ・グールドと言う人がいます。この人は「自分は不可知論者だ」と著書の中で述べつつ、この書籍、「Rocks of Ages(邦訳題で「神と科学は共存できるか?」)」の中でグールドは、「NOMA-重複しない教導権」なる概念を新設、科学的教導権の及ぶ領域と、宗教的教導権の及ぶ領域を分別し、双方が相手の領域には立ち入るべきではない、との主張を展開しています。つまり、自身科学者でもある立場から、科学が立ち入ることのできない領域を設定し、そこに立ち入ることは相手の教導権の侵害になると、科学の手を縛ったのです。
同じく著名な進化生物学者である、リチャード・ドーキンスから、「宗教に対し、犬のように仰向けにひっくり返ってご機嫌をとると言う芸当を見せている(『神は妄想である』86ページ)」と、痛烈に批判されています。

グールド自身は優れた自然科学者であり、その分野で数多くの業績も挙げていいます。又本書でもスペースを割いて主張している通り、アメリカ南部での創造論・創造科学・インテリジェントデザイン論に対する強い批判と、関連の裁判での証言に立っている。その点では一部宗教の暴走に対し鋭い批判の急先鋒でも有りました。
しかしやはり、2002年の死の前に著されたこの書は、科学者としての彼の晩年を汚した1冊になったと、私は残念に思うものです。

現在流布している不可知論的思想は、主にカント型不可知論の様々なバリエーションです。カントは「現象」と「物自体」との間に、超えることのできな い境界線を設け、その先は人間にとって原理的に認識不可能な領域だとした訳です。その境界を超えて真理をつかむには、人間の科学的認識ではダメだ、と言うことになり、結局そこに人間を超越した神のようなものを想定せざるを得ないことになります。
グールドのNOMAは正にその境界線の設定です。科学の「教導権」が及ぶ範囲と言う形で、科学の側から科学の限界を設け、その先は宗教の、神の教導権の範囲だとする、卑屈な科学の自己規制です。認識の限界を認めた時その向こうに信仰が出てくるのは、けだし必然なのです。

グールドはこの「Rocks of Ages(邦訳題で「神と科学は共存できるか?」)」の中で、「科学は岩石の年代(エイジ・オブ・ロックス)を得るが、宗教は千歳の岩(ロック・オブ・エイ ジ)を得るのだ。科学は天がどう動くかを研究し、宗教は天国への行き方を研究する」と書いている。神や宗教に対する思想信条・評価は別として、不可知論は観念論への不可避的な入り口となるのです。

グールドのMOMAには大きく言って2つの問題が有るでしょう。

  1. ドーキンスが皮肉を込めて指摘したように、仮に(今の段階で)科学が解答を用意できていないとして、ではその解答を何故宗教・神なら用意できるのか?と言うことです。
    神とはいっても実際に「解答」を出すのは神学者だったり、職業宗教家だったり、要するに現実に生きている人間に過ぎない。グールドがが言うように、仮に「究極的意味」や、「道徳的価値観」、或いは「芸術や美の意味」が本当に科学の教導権の及ばない領域だとして、何故神学者や牧師だけが教導権を発揮する権利を持つのか? 何故ここに庭師が入らないのか?調理人が入らないのか?画家や彫刻師が入らないのか? 或いは医師や精神科医が入らないのか?
    ドーキンスの言うようにNOMAは、宗教に対する度し難い程に過剰な敬意ではないのか?ということでしょう。
     
  2. 本当に「究極的意味」「道徳的価値観」「芸術や美の意味」に対し、科学は教導権を持たず無力なのか?と言うことです。そんなことは断じて有りません。
    ここで詳しくは論じませんが弁証法的唯物論は、善・悪、真・偽、美・醜等の、形而上学的観念論者にとってお手上げの問題に対し、明確な答えを持ち合わせています。例えば 真理について
    しかしNOMAというような形で、科学が立ち入るべきでないとする境界線を設定してしまえば、その領域についての科学的探究を最初から放棄してしまうことになります。

    例えばグールドがNOMAによって、宗教側に教導権を明け渡した「道徳的価値観」ですが、そもそも宗教の側、特にキリスト教とバチカンに、道徳的価値観を説く資格が有るのでしょうか?
    聖書の中には、殺人、近親相姦などがゴロゴロ出て来ます。神の名による生贄の強要、大量虐殺(ノアの大洪水、ソドムとゴモラなど)も目に余ります。又現実の問題として、宗教上の覇権争いに過ぎない十字軍の遠征、神の名のもとに行われた中世の魔女狩り、地動説などの真理を押しつぶしてきた宗教裁判等など。
    現在の世界各地の紛争、中世までの戦争の多くが宗教的教導権の獲得を目指してのものだったのではないか。或いは今、アメリカ南部でキリスト原理主義者によって現実に行われている、堕胎手術を施した医師の殺害や医院への放火。

    勿論キリスト教徒の全てがこうだと言う積りは毛頭ないし、大半のキリスト教徒は献身と平和を求める敬虔な人たちだと思う。しかしキリスト教に限らず宗教一般は、それに批判的・敵対的な勢力に対して非寛容なケースが目立ちすぎます。
    他の全てに優先してこの宗教側に、「道徳的価値観」の教導権を委ねなければならない理由は何一つ無いと、私もドーキンスに激しく同意するものです。

    「芸術や美の意味」にしても同じこと。
    例えば卑近な例に近づけて考えた時、「美人」「ハンサム」の意味、基準でさえも、単なる個人的・主観的な趣向をこえて、そこには進化生物学的な「適応」上の要因が横たわっていると私は思います。科学の俎上に載せることのできる問題なのです。この問題は実際に、或る掲示板上で私自身"論争"を経験したことです。つまり「愛は科学で説明がつかない、説明すべきでない」、と言う立場の人がいて、それに対し私は「そんなことは無いだろう」と、進化生物学的な適応の観点から主張したのですが、興味が有ったらお読みください。神と科学は共存できるか-353 
    無駄に長い文章ですが、上記リンク文章の後半部分です。或いは、こちら もNOMAに関する私の批判的文章です。

 

進化論とバチカン、そして不可知論

カトリックの総本山であるバチカンは、長い間、主に「地動説」と「進化論」に際立って激しい批判の矛先を向けて来ました。それには理由が有ります。

地動説
キリスト教にとって、神のおわします天上世界は特別の存在・全ての中心でなければなりません。太陽を含めた全ての宇宙がこの神のおわします地球を中心に回っていなければならないのです。そうでなかったら神の権威を保つことが難しいでしょう。地動説はこの主張を虚構のものとし、地球を単なる一つの惑星の地位に引き下げてしまいます。ガリレイの宗教裁判は地動説的なものへのバチカンの最後の抵抗だったのでしょう。

進化論
バチカンにとって進化論はさらに深刻です。
旧約聖書の創世記によれば、神は自分に似せて人(アダム)を創った、とされています。神の似姿であるこの人間が若し、「サル」から進化してきたのだとすれば、ではその人間のコピー元で有った神とは一体どういう存在になるのか、と言う深刻な問題を突き付けるからです。バチカンは長い間この進化論を認めて来ませんでした。ダーウィンが「種の起源」を書きあげながら発表を遅らせたのはバチカンへの配慮からでした。
しかしバチカンと言えど、地動説と同じく進化論も否定し通すことが難しくなってきました。進化論も認めるとのニュースも有ったようです。それでもやはり、ヒトの進化を含めて進化論全体を認める訳には行かないでしょう。神の正当性を危うくし、聖書の根幹・教義の根本を否定することになりかねない、ひいてはキリスト教そのモノの虚構性に繋がる、バチカンとすれば重大な危機です。

地動説、進化論を、頭から否定できない現代科学の進展と、聖書や教義との深刻なジレンマの中、おそらく今後バチカンは、急速に不可知論に傾斜してゆくのではないでしょうか。「実際の処、それは科学でも分からないことだ」という形で。

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