No-15 実践と認識

 

※ ここに掲載してある文章は、日本共産党発行の「月刊学習」誌に、1970年代、3年以上に渡って掲載されたものの転載です。管理人によるオリジナルでは有りません。
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1、実践とは何か

前回には、意志は自由だろうか、すなわち、意志はそれ自身で、自発的に、自由に、自己自身を決定するものだろうか、という問題を取り上げて、そうではないということを説明しました。意志が自ら独立に、自由に、意志を決定しているように見える場合にも、実際には、感情や認識が意志に迫って一定の方向に意志を決定させているのであり、その場合に、取り分け、社会的に重要な行動を行おうというように意志決定が行われる場合には、その人が社会の現状とこれを変革する道とをどう認識しているかが、意志決定の重要な決め手になるのだということを述べました。

前回には、毎朝仕事に出かける前に「赤旗」を配ってくれ、と頼まれた時、それを引き受けるかどうか、という問題を例にして、前述のことを説明したのでしたが、この場合に、毎朝「赤旗」を配るということは一つの行動であり、この例を使って、行動と認識との関係を考えたのです。どうでもよいようなつまらない行動の場合は別として、人間が幾らかでも重要性を持つ行動をする場合には、その動機、理由として一定の認識が有ると言うことを述べたのであります。
ところでこの場合に、「行動」と言ったのですが、それを「実践」と言い換えても話は通じます。その限りでは、「実践」と「行動」は同じ意味で使われる言葉です。だから前回にわれわれは既に、実践認識との関係のある一つの側面を考えて明らかにしたのです。
すなわちある人がどのような実践をするか又はしないかということの基礎に、その人がどのような認識を持っているか、その認識が浅い表面的なものであるか、深く徹底したものであるか、という問題が有るのだということを明らかにしたのであります。

ところで今、前述のような場合には、「行動」と「実践」とは同じ云いで使われる言葉だと申しました。しかし、マルクス主義哲学では、実践」という言葉はもっと広くかつ深い意味で使われているのであって、したがって又、実践と認識との関係をも、前回に述べたこと以外の、さまざまな見地から捉えられなければなりません。今回はこの問題を考えることにしましょう。

人間は、身体という側面からみれば、ひと固まりの物質であり、物質的環境の中でこの環境とさまざまの交互作用を行いながら生きています。人間がその物質的環境と行う全ての交互作用が、すなわち生きている人間のあらゆる営みが、全て実践なのであります。だが、この講座の第六回に述べたように、人間の身体は意識という機能(働き)を持っています。従って、人間の身体がその物質的環境と行うあらゆる交互作用は、人間の身体の意識的な(意識を伴った、意識された)運動であり、意識的な活動であります。ここに、人間の実践が人間以外の動物の行動と区別される重要な特徴が有ります。
この講座の第五回に、物質の運動には様々の運動形態が有るということを述べました。人間の行う実践も、物質の一つの運動形態に他なりませんが、しかし今述べたようにそれが意識的な運動であるという点で、物質のその他の運動形態とは著しく違っているのです。

やはり第五回に述べておいたように、この意識的な運動形態は、物質の社会的運動形態と呼ばれます。その理由は人間の実践がそもそものはじめから(猿から人間への進化が行われ、生物学的運動形態からもう一つ高次の運動形態への進化が行われたその時以来)、社会的で

あったからです。
第六回に、意識の起源について述べた際に、道具を作ることとことばが生まれたこととが、脳の発達を促し、猿から決定的に区別された原始人がこの地球上に出現するようになった二つの重要な出来事であったということを述べておきましたが、この道具を作るということも、ことばが生まれたということも、一匹の孤立した猿又は原始人によって行われたことではなく、猿又は原始人の集団の中で初めて行われ得たことであり、したがって又、人間の意識はそもそも初めから社会的意識であったのであり、人間の実践は社会的実践だったのであります。

第七回に、意識の役割について述べた際に『ドイツ・イデオロギー』から長い引用をしておきました。その一部分をもう一度引用するならばこう述べられています。「意識は勿論最初は単に身近な感性的環境についての意識に過ぎず、又意識的になりつつある個人の外にある他の人間や事物との限られた繋がりの意識であるに過ぎない。それは同時に自然についての意識であり、………しかも他方では周りの諸個人と結合関係に入らざるを得ないという必然性の意識が、自分はとにかく社会の中に住んでいるのだということについての意識の端緒が現れる。………それは単なる群居意識である。………この羊意識或いは種族意識は、生産性の上昇、欲望の増加、及びこの両者の基となっている人口の増加によってさらに一層の発展と発達を遂げてゆく」

ここには、人間が未だようやく猿から進化したばかりの原始的な状態にあり、人間の実践が極めて原始的な石器を作り、それによって生産活動(狩り又は野生の植物の採集)を行い得るに過ぎなかった時代には、人間の意識もそれに照応した群居意識に過ぎなかったことが述べられており、更に意識のその後の発展が生産性の上昇とそれによって促される欲望の増加によるものであることが述べられています。
前に述べたように、意識的活動であるということが人間の実践の重要な特徴でありますが、しかし「人間自身は彼らの生活手段を生産し始めるや否や動物とは別なるもの(すなわち、意識を持った動物)になり始める」(『ドイツ・イデオロギー』のであり、その後の意識の発展は生産性の上昇によって促されるのでありますから、意識から出発して人間と人間の社会を捉えてはならないのであり(若しもそのような捉え方をすれば、それは観念論である)、生産活動を中心とする人間の実践から出発して意識を持った存在である人間及び人間の社会を捉えなければならないのです。

そして、認識は、前回に説明したように、感情や意志とともに意識という統一的な働きを構成している契機なのですから、認識を理解する場合にも実践を出発点としてこれを捉えなければならないのであり、実践と認識との関係を捉える場合に基礎となるのは常に実践であります。マルクス主義哲学が「実践的唯物論」と呼ばれる場合が有るのもこの為であり、又レーニンが「生活、実践の観点が、認識論の第一の、根本的な観点でなければならない」(『唯物論と経験批判論』)と言っているのも、この意味においてであります。

さて、以上に述べてきたことから明らかなように、マルクス主義哲学で「実践」というのは、人間の個々の行動のことではなくて、人間が自然の改造(主として生産活動によって)と社会的諸関係の変革(階級社会では、主として階級闘争によって)とを通して、人間自身の生存と生活を維持し確保する活動の全体のことであります。それは人間の身体が物質的っ環境と行う意識的な交互作用の全体を言うのであります。
「意識的」ということが、人間以外の動物が行う行動から人間の実践を区別する特徴として強調されなければならないと同時に、身体を通しての物質的環境との交互作用を伴わない、単なる意識又は認識(或いは、体系化された認識である理論)は実践では無い、ということも強調されなければなりません。だから、科学者が行う理論活動を「理論的実践」と呼ぶような言葉づかいは、正しくありません。
認識(理論)が実践を導くのもであり、革命的理論なしには革命的実践も有り得ない、ということは正しいのであり、その意味で認識(理論)の重要性を強調しなければならず、理論活動の意義を高く評価しなければならないのですが、そのことと「理論的実践」というような言葉づかいをして混乱を持ち込むこととは、全く別問題であります。

さらにもう一つ、人間の実践が、そもそも初めから、又いつの時代にも、社会的実践であるということを強調して置かなければなりません。社会を変革しようとする実践が社会的実践であることは言うまでも有りませんが、自然を相手にしているように見える諸実践も、社会的諸関係の中にある人間の実践であり、自分一人の為に行っている積りの場合にすらも、何らかの社会的影響を常に持っているのであって、社会的でない実践と云ったものは存在しないのであります。

    

 

2、実践は認識の出発点であり、又その目的である

以上に述べた実践の理解に立脚して、実践と認識との関係を、基本的な幾つかの側面から考えることにしましょう。

人間には確かに知識欲というものが有ります。何か見慣れない物を見れば、あれはなんだろうかと考えますし、ある出来事が起これば、どうしてこんなことが起こったのだろうか、とその原因を知りたいという要求が起こります。こうした知識欲kとい言うものが有るのは事実ですが、しかし人類の歴史においてさまざまの知識が獲得され、蓄積されて、更にそれらの知識が整理され、体系づけられて、諸科学や哲学が発展してきたということの原因を、そもそもあらゆる人間に生まれつき備わっている知識欲なるものに求めるという考えは、観念論であって、正しくありません。

ある人々は次のようにさえ主張します。
聞きなれぬ物音がすれば、ウマやウサギでさえ聞き耳を立てる。猿ともなれば、もっと多くのものに関心を示す。動物さえ知識欲を持っている。まして人間はなおさらだ、と。  ――  しかし、ウマやウサギが聞き耳を立てるのは、自己の生命を守ろうとする本能によって、危険なものが身近に迫ってくるか否かを知ろうとしているのです。
一般的に言って、どんな動物でも、何らかの仕方で環境を反映して、生命を脅かす危険なもの、及び生命の維持に必要なもの(例えば、餌)が有るかないかを知ることなしには、生存を続けることはできません。
高等動物の場合にはこの反映は感覚器官によって行われます。大雑把な言い方をすれば、感覚器官が発達していて、環境を反映する能力の高い種ほど、高い程度の自己保存の能力を持っている、と言えるでしょう。

だが、人間が自分がやっていることに基づいて、他の動物も同じことをやっているのだと考えれば、それは一種の擬人観であって、正しくありません。例えば、目玉のある動物は人間と同じように物を見ているのだと考えたら、、大きな間違いです。人間は文字のような複雑な記号の区別を正確に見分けますが、そんなことのできる動物は人間以外にありません。
一般的に言ってそれぞれの動物の種には、その生活環境や生活形態に応じて、その生命の維持に必要な程度に感覚器官が発達しています。見通しの悪いジャングルに住む動物は、視覚よりも嗅覚や聴覚が発達しているし、上空を飛ぶワシやタカは遠目が効く、と言った具合に。
餌に有りつくということは、生存の第一条件ですから、何を餌にしているかによって、感覚器官の発達状態は大きく影響されています。リンクスという山猫の一種は、ウサギしか食べません。その為に、リンクスが繁殖し、それに食われて野ウサギの数が減ると、その後を追って、リンクスの数が減り始めると言われています。餌が足りなくなって、飢え死にするのでしょう。
これは不自由なことで、一般的に言って、雑食の種ほど種の維持に有利な条件を持っていると言えます。この点では人間が最高でしょう。人間ほど多種多様なものを食べる種はいないのです。人間は、直接に食べられない物でも、焼いたり煮たりして食べることを知っています。
そして、餌の種類が多いということは、それだけ多様なものに関心を持つ(あえて人間的なことばを使えば)ということを意味します。
草食であった猿が地上に降りて、肉食もする人間に進化する過程で、感覚器官の機能の多様化が行われたであろうことは、疑いの余地がないと思います。人間があらゆるものを知ろうとする知識欲を持っていることの生物学的進化論的根拠は、上記のことにあると考えられます。

だが、より重要なのは、人間になってから、すなわち生産活動をするようになってからのことです。第七回に「意識の能動的役割」について述べた際に既に指摘しておいたように、人間は生産活動を通じて自然法則を知り、自然法則を知ってこれを利用することによって生産性を高めてきたのです。
人類社会に初めから科学者がいた訳ではありません。全てが労働する人間であり続けた長い人類の歴史の中で、人間は実践(生産的労働)を通じてさまざまの認識を獲得して来たのであり、又同時に、より多くの認識を持つことが生産性を高め、自己の生存を維持するのに有利だということを体験して来たのです。先に述べたように人類という種は、多様なものを食べるという生物学的条件によって既に多様なものに関心を向ける生物学的理由を持っていたと思われますが、生産活動を通じてこの理由が飛躍的に増大し、今日のわれわれのように、およそどんなことにも関心を示し、どんなことでも出来る限り広く、かつ深く知りたいと願う知識欲を持つようになったのであります。

以上に述べてきたことから分かるように、人間の認識はそもそも実践の(人類の歴史の初めの時代、すなわち原始時代には、自己の生命を守り維持するために必要な生産活動の)必要から生まれ、実践(生産活動)の発展を通して発展して来たものであって、人間がそもそものはじめから持っていた(とある人々によって主張されている)知識欲によって生まれ、かつ発展させられてきたものではありません。実践こそが認識の出発点であり、又、人類の認識を発展させてきた原動力なのであります。現在の人類が持っている知識欲は、実践の発展の結果として人類が持つようになったものであって、知識欲が認識の発展の、又、認識の発展に基づく実践の発展の原動力では無いのです。

実践の発展によって、社会の生産力は著しく高度に発展しました。生産力の発展をもたらしたものは分業の発展です。分業が発展した結果、精神的労働と肉体的労働との分離が生じました。このことは、階級分裂の結果でもあり、又原因でもあったのですが、主として、或いは専ら、精神的労働に携わる人々の集団が成立したことによって、知る為に知るという活動が生まれました。すなわち、直接に実践と結びついているのではなく、専ら知識を高める為に知識を追求するという活動が生じました。科学者の行っている研究活動はこのような活動であり、自然及び社会についての認識を深めることを目的として、ひたすら研究に励む人々の存在によって、人類の認識は飛躍的な発展を遂げたのです。
しかし、直接に実践と結びついていないということは、いかなる意味でも実践と結びついていないということと同じではありません。
研究活動が独立したということは、前述のように分業の発展の結果なのであって、社会的分業の一つとしてこのような活動が生まれ、それが社会的に高く評価されてきたし、今も評価されているということは、この研究活動の成果が、仮に今直ぐではないとしても、実践の発展にとって大きな意義を持っていることが過去の経験を通して人々に知られているからなのです。だから、一見したところ社会的実践と関係が無いように見える研究活動も、間接的には社会的実践の発展の為に寄与しているのであります。
例えば、非常に抽象的なことをやっているように見える数学者の研究成果も、物理学の発展に役立ち、今度はこれが工学の発展に役立ち、技術の発展を促して生産力の発展をもたらす、といった具合に。
ですから、「知る為に知る」ということは、研究活動に携わっている個々の人にとってはそうであっても、人類社会全体からみればやはり実践の発展の為に認識の発展を求めているのであり、従って「科学の為の科学」というようなスローガンは正しくありません。
今日の極めて高い水準における科学者の研究活動についても、依然として実践こそが認識の目的なので有ります。

このことは、科学の発展という見地からみても重要なことです。実践との結びつき(すぐ実践に役立つという意味では無く、大局的な意味で)を忘れてしまうと、科学者の関心がとかく枝葉末節の問題に向けられて、科学そのものの発展をも停滞させる結果に陥ります。ことに社会科学の場合には、そのような階級の実践と結びつくことを科学者自身が求めているかによって、その研究内容に大きな、正反対と言って良い違いが生まれます。このことは科学の階級性の問題であって、非常に重要な問題ですが、又機会を改めて詳しく述べたいと思います。

質問が有ります。今わざわざ「すぐ実践に役に立つという意味でなく」と断ったのはなぜですか。研究者はすぐ役に立つ研究をやった方が良いのでは有りませんか。

科学を発展させる為には、原理的なものを深く掘り下げてゆくことが必要です。こう言う基礎理論の研究は、それだけではいきなり実践の(例えば産業の)発展に役立ちません。しかし、果樹でも根を強く張らせないと良い果実を売ることが出来ないように、基礎理論の発展なしには、直接に役立つ応用理論を発展させることができません。
科学者が目の前ですぐ役に立つことだけを考えていると、視野が狭くなってしまい、科学を大きく発展させる為に必要な科学の根を強く張らせることができません。
しかし又、基礎理論の研究に携わる場合にも、究極的には実践の発展に役立てるのだという大局的な見通しを失うと、科学の発展を横道にそらし、科学を知的な遊びにしてしまう危険が有るのです。新しい理論的認識の要求は、常に人間の実践的な要求によって呼び起こされているのですから。

3、実践は認識の真理性の基準である

実践と認識との関係でもう一つ重要なことは、実践が認識の真理性(真であるということ)の基準である、ということです。このことについては、第八回に「不可知論の批判」をした際に、簡単にではあるが触れておきました。  ――  認識とは、既に何回も述べたように、外界の(すなわち、人間の意識の外にある)事物の人間の意識内への反映です。意識内にあるのは観念です。従って、外界の事物が反映された結果、意識内にある観念が生まれます。
この観念が外界の事物に一致していれば、その認識は真であり、一致していなければ、その認識は偽(誤り、間違い)であります。では、ある認識が真であるか偽であるかは、何によって決まるのでしょうか。マルクス主義者は、その基準になるものが実践だ、と主張しているので有ります。

具体的な例を挙げて説明しましょう。
鉄道を通す為に、ある山にトンネルを掘る必要が有るとします。その場合に、工事計画を作る人々は、その山がどのような地質学的時代に属する地層からなる山であるか、又予定されているトンネルの道筋に断層が有るかないか、などを調査します。その為には、予定されている道筋の所どころをボーリングしたりなどして調べる訳ですが、こうした調査によって、予定されているトンネルの道筋の地質についての有る認識が得られます。そして、この認識に基づいて工事計画が立てられる訳です。
実際に工事を始めた時、全てが予め立てた計画通りに進めば、その計画の基礎になった(トンネルの道筋の地質についての)認識は真で有った訳です。
ところが、工事を進める途中で、思いがけなかった場所に断層が有ったり、突然に大量の水が噴き出したりして、工事が計画通りに進まないようなことが起こったら、さきの認識が間違っていた(偽であった)訳です。
予め行った地質調査によって、トンネルの道筋に当たる場所の地質についての一定の観念が調査をした人々の意識内に生まれていた訳ですが、この観念が外界の事物(この場合には、トンネルの道筋に当たる場所の地質)と一致していたかどうかは、このようにして、トンネルを掘るという実践によって確かめられます。このことを、認識の真理性の基準は実践である、という訳です。

先に述べたように、人間は単に自分の知識欲を満足させる為に認識活動をするのではなく、獲得した認識によって実践を有効ならしめる為に認識するのであり、そして実践は、認識が真である場合、すなわち、認識活動によって得られた観念が外界の事物に一致している場合にのみ、その認識に導かれて有効に働くことが、すなわち、予め立てた目的を達成することが出来るのです。

ここで注意しておきたいことは、この場合の実践とは、自分の一人の実践のことではなくて、広く人類の実践を意味するということです。なんでも自分でやってみるまでは真だか偽だか分からない、という意味では有りません。マルクス主義の革命理論が真理であるというのは、この理論に導かれた革命的実践によって、既に多くの国々で実際に社会主義革命が成功しており、したがってこの理論が、社会の歴史的発展の事実に一致していることが、これらの国々の人民大衆の実践によって検証済みである、という意味です。だからこそわれわれは、この理論を実践の指針として、わが国の革命の為の戦略、戦術を立てることが出来るのです。

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