No- 7 生産力の構成要素

 

※ ここに掲載してある文章は、日本共産党発行の「月刊学習」誌に、1970年代、3年以上に渡って掲載されたものの転載です。管理人によるオリジナルでは有りません。
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1、労働過程の三要素

生産活動を行うに当たって、人間は自然に働きかねなければならず、従ってここに、人間と自然との関係が生まれます。
しかしただそれだけではなく、この生産活動に当たって、人間は他の人間と一定の関係や繋がりを結ぶのであり、こうした人間相互の社会的な関係や繋がりの中で初めて、人間は自然に働きかけ、生産活動を行うことが出来るのでした。
この人間と人間との関係が「生産関係」と呼ばれること、そして生産関係がどのようなものであるかと言うことについては、前回に述べました。

だが生産活動に当たっての人間と自然との関係については、前回には、人間が自然に対して働きかけるに当たって発揮する能動的な力が生産力と呼ばれる、と言うことを述べ、この生産力の発展が生産用具(=労働手段)の発達と密接に関連していることを述べたに留まり、生産力にはどのような構成要素が属するかについては述べることが出来ませんでした。
それで今回は、この問題について述べることにします。だがしかし、この問題について述べるには、それに先だって先ず、労働過程について述べておく必要が有ります。
―― ―― 生産活動をするに当たって人間が自然に働きかけると言うことは、人間が労働すると言うことです。労働することによって人間は、猿から進化して人間になったのであり、そして今後、社会形態や人間の能力がどのように発展したとしても、労働することなしに人間は生きて行くことはできません。
だから労働がどのようなものであるかと言うことは、社会形態がどのようであるかに関係なしに捉えることができるし、またそのように捉えられなければなりません。マルクスは『資本論』第一巻の第三篇第五章第一節で、労働過程をこのような、人間の歴史の全体に共通のものとして捉え、先ず次のように述べています。

「労働は、先ず第一に、人間と自然との間の一過程である。この過程で人間は自分と自然との物質代謝を自分自身の行為によって媒介し、規制し、制御するのである。
人間は、自然素材に対して彼自身一つの自然力として相対する。彼は、自然素材を、彼自身の生活の為に使用されうる形態で獲得する為に、彼の肉体に属する自然力、腕や脚、頭や手を動かす。人間はこの労働によって自分の外の自然に働きかけてそれを変化させ、そうすることによって同時に自分自身の自然(天性)を変化させる。
彼は彼自身の自然のうちに眠っている潜在能力を発現させ、その諸力の営みを彼自身の統御に従わせる」

少し難しい表現が使われていますが、この叙述から読み取るべきことが二つあると思います。その一つは、人間が「一つの自然力」として自然素材に相対し、自分の「肉体に属する自然力」を動かす、と言われていることです。
人間が労働過程において自然と関係することが出来るのは、自分自身が一つの自然力、つまり自然の一部であるからなのです。だから労働過程は、自然力としての人間と自然素材との、つまり自然の一部分と自然の他の一部分との交互作用であり、一つの自然的過程なのです。そして、同じように自然の一部分であるとは言っても、人間は自然力として、相手側は自然素材として捉えられています。
大自然の中で行われる自然の一部分とその他の一部分との交互作用では有りますが、人間の側が「力」として能動性・積極性を持っていることに、注意すべきです。

読み取ることの第二は、この交互作用によって人間もまた被る変化は、人間自身が自分の能力を発現させ、発展させることだ、と言うことです。
実際に、我々が持っている器用な手は、人間がサルから受け継いだあの不細工な手を、労働することによって人間が自ら変化させてきたものですし、又人間の身体の中で最も特徴のある器官である頭脳も、労働することによって人間が自分自身を変化・発展させてきたことの成果です。

次にマルクスは、「労働過程の単純な諸要素」として、

  1. 「合目的的な活動又は労働そのもの」
  2. 「その対象」
  3. 「その手段」

の三つを挙げています。
1)の労働そのものについての説明は、自然素材に対する一つの自然力としての人間の交互作用として既に終わっています。
2)の労働対象についてマルクスは次のように述べています。 ―― 「人間の為に根源的に食料、完成生活手段を用意している土地(経済的には水もそれに含まれる)は、人間の手を加えることなしに、人間的労働の一般的対象として存在する。労働によって大地との直接的な結びつきから引き離されるだけのものは、全て、天然に存在する労働対象である。その生活基盤である水から離されて捕えられる魚、原始林で切られる木、鉱脈から剥ぎ取られる鉱石が、それである。
これに対して、労働対象がそれ自体既にいわば過去の労働によって濾過されているならば、我々はこれを原料と呼ぶ。例えば既に剥ぎ取られてこれから洗鉱される鉱石。原料はすべて労働対象であるが、労働対象は全て原料であるとは限らない。労働対象が原料で有るのは、既にそれが労働によって媒介された変化を受けているときだけである」
―― ―― 読めば分かるように、労働対象は「天然に存在する労働対象」と「原料」とに区分されており、また特に土地は、「天然に存在する労働対象」をそのうちに含むものとして、特別扱いされており、「労働の一般的対象」と呼ばれています。

次に3)の労働手段についてマルクスは長い説明を与えています。
先ず「労働手段とは、労働者によって彼と労働対象との間に入れられ、この対象への彼の働きかけの導体として彼に役立つ物又は諸物の複合体である」と言う一般的規定が与えられています。ここで「労働者」と言っているのが、賃金労働者と言う階級としてのそれのことではなく、広く一般に「労働する人」のことであるのは言うまでも有りません。
野生の果物を手でもぎ取ってくると言うような例外的な少数の場合を除いて、労働する人が直接に触れるのは、労働対象では無くて労働手段だと言うことを指摘した後で、「こうして、自然的なものそのものが、彼の活動の器官になる。その器官を彼は、.........彼自身の肉体器官に付け加えて、彼の自然の姿を引き延ばすのである」とマルクスは述べています。
「自然的なものそのもの」と言うのですから、有り合わせの石とか折れた木の枝とかを考えているのでしょうが、このようなものが労働する人と労働対象との間に入ることによって、労働手段は何よりも先ず労働する人間の肉体器官を補強するものとして捉えられています。

次に労働対象としても土地が特別扱いされていたように、労働手段としての土地についてもこう述べられています。
―― ―― 「土地は彼の根源的な食糧倉庫であるが、同様に又彼の労働手段の根源的な武器庫でも有る。それは、例えば、彼が投げたり、こすったり、圧したり、切ったりするのに使う石を提供する。土地はそれ自体一つの労働手段であるが、それが農業で労働手段として役立つ為には、更に一連の労働手段と既に比較的高度に発達した労働力とを前提する。
一般に労働過程が幾らかでも発達しているならば、既にそれは加工された労働手段を必要とする」

―― ―― 初めに述べられていることは、土地が自然のままの労働手段(例えば、石)をそのうちに含んでいて、人間に提供してくれると言う、いわば当たり前のことですが、重要なのは後半です。
労働手段も、労働過程が幾らかでも発達している場合には、自然のままの物では無くて、加工された物でなければならないと言うことが「一般に」と言ってでは有るけれども、その前に述べられていること、すなわち土地が農業で労働手段となる為には他の一連の労働手段(おそらく、鋤、鍬、鎌などのことでしょう)が前提されており、また既に比較的高度に発達した労働力が前提されていなければならない、と言うことを受ける形で述べられています。
加工された労働手段が無ければ、土地は存在していても農業での労働手段にはならない、と言う指摘は重要です。

この後に「人類史の発端では、ならされた、つまりそれ自体既に労働によって変化された、飼育された動物が、労働手段として重要な役割を演じている」と言う家畜についての指摘が有り、更に「労働手段の使用と創造」が「特に人間の労働過程を特徴づけるもの」であることが指摘されています。そしてその後でマルクスは、前回に既に引用した「遺骨の構造が.........」と言う文章を書いています。
マルクスはもともと、この第三篇第五章第一節で、労働過程を、人間の全歴史に共通のものとして述べているのです。
それなのにここで「種々の経済的時代を区別する」ものについて言及しているのは、不必要な言及であるように思われます。だがこの言及は、労働過程の三要素についての叙述としては不必要で有っても、我々史的唯物論を学ぶ者にとっては重要な言及です。だがそのことについては後で述べることにしましょう。

マルクスは更に、労働手段の中で、労働対象に作用を及ぼしてこれを変化させるような「機械的労働手段」を「生産の骨格・筋肉系統」と呼んで、労働対象の容器として役立つ管・槽・籠・壺などに比べて「有る一つの社会的生産時代のはるかに決定的な特徴をあらわすものである」と言っています。なお後者は「生産の脈管系統」と呼ばれ、これが重要な役割を演ずるのは化学工業で初めてだ、と述べています。
更にマルクスは、広い意味での労働手段として、労働する場所としての土地、労働用の建物、運が、道路を上げていますが、今日の我々は更に、鉄道、トラックなどの輸送機関、電話等の通信機関などを付け加えることが出来るでしょう。これらのものは、直接に労働過程の中に入らないけれども、それらなしには労働過程が進むことが出来ないか、または不完全にしか進むことが出来ないものであり、「補助的労働手段」と呼ばれるに相応しいものです。

    

 

2、生産力の構成要素は何か

さて1で我々は『資本論』の叙述に従って労働過程の三要素について述べてきました。以上によって明らかになったことから直ちに、労働過程の三要素がそのまま生産力の構成要素であると考えて良いでしょうか。
いやそのように簡単に結論を出すことはできません。何故でしょうか。

「生産力」とは、史的唯物論のカテゴリーです。今まで我々は、生産力とは、生産活動をするに当たって人間が自然に対して発揮する能動的な力である、と考えてきました。だがこの際に重要なことは、この能動的な力を「生産力」と言うカテゴリーが歴史的に発展するものとして捉えているのである、この能動性の程度を生産力の水準として捉えようとしているのであり、従って史的唯物論のカテゴリーとしての「生産力」は、社会的なものに関わるカテゴリーで有って、自然的なものに関わるカテゴリーでは無い、と言うことです。
―― ―― これに反して『資本論』の第一巻第三篇第五章第一節における労働過程の叙述は、一で述べたように、労働過程を人間のあらゆる歴史的発展段階に共通のものとして、「一つの自然力」としての人間が自然素材に対して行う交互作用として、すなわち一つの自然的過程として捉えようとしています。
生産活動における人間の自然に対する関係を捉えている点では同じですが、この関係を歴史的・社会的なものとして捉えるか、歴史の全体を貫いて変わらない自然的なものとして捉えるか、と言うことが違っているのです。

そこで今我々は、『資本論』における労働過程についての叙述に立脚し、これに導かれながら、生産力の構成要素は何であるかを考えようとしている訳ですが、その場合に必要なことは、労働過程の三要素が生産の歴史的発展においてどのような役割を果たすかを明らかにすることです。
勿論、労働過程の三要素は、バラバラでは労働過程を成立させることが出来ず、統一されていなければならないことは当然であり、従って三要素のうちのどの一つも欠けていることは許されないのですが、しかし、生産はどのようにして発展するのかと言う歴史的見地から問題を捉えるならば、労働過程の三つの要素が同じ重みで生産の歴史的発展に寄与しているのではない、と言うことが分かってきます。
そのことを更に具体的に考えて行きましょう。

前述のように、『資本論』における労働過程についての叙述は、元来、生産力の構成要素について述べたものではないにもかかわらず、我々が生産力の構成要素について考えようとする場合に、重要な示唆を与えてくれる叙述がその中に含まれています。その最も重要なことばは、既に前回に引用しましたが、もう一度引用するならば、次のことばです。「何が作られるかではなく、どのようにして、どんな労働手段で作られるかが、種々の経済的時代を区別するのである」 ―― ―― これは明らかに、社会的・歴史的見地から述べたことばです。ここから読み取るべきことは、経済的時代区分の基準になるような生産の発展段階を考える為には、従って、生産力の発展水準を特徴づける目印を知る為には、何が生産されるかでは無くて、どのようにして生産されるか、どんな労働手段で生産が行われるかを問題にしなければならない、と言うことです。

実際に、生産物を見ただけでは、それがどのような生産関係のもとで、どのような発展水準に有る生産力によって生産された物であるかを、我々は知ることが出来ません。例えば、綿織物を見ても、それが手回しの紡ぎ車によって綿花から綿糸にされ、農民の家族の労働によって小さな個人用の機織り機によって織られた物であるのか、蒸気機関又は電気モーターを原動力として使う大きな紡績工場で糸に紡がれ、同様に大規模な織物工場で賃金労働者の労働によって織られたものであるかを区別することが出来ません。
どのようにして生産されるかに注目することによって、我々は、生産の発展を問題にする場合に、生産の仕方に注意を集めることになります。そして、生産力の構成要素としては、何よりも先ず、労働手段(=生産用具)が挙げられるべきだ、と言うことになります。

だが先に述べたように、労働過程の三要素は、統一されなければなりません。そして労働対象も労働手段も、それ自身で他の要素と結びつく力は有りませんから、第一の要素である労働そのものが、自分自身と他の二つの要素とを結びつけることによって、三つの要素の統一を実現するのです。
だが、この統一が実現される為には、労働そのものが労働手段に相応しいものになっていなければなりません。
すなわち、新しいより発達した労働手段が現れてくる場合には、同時に、その労働手段を使いこなせるような労働そのものが存在しなければ、この労働手段は社会的な生産力にならない訳で有り、このことから当然、一定の労働手段に対する労働の熟練度が要求されます。
こうして、生産力の構成要素には、「社会的・歴史的に与えられている労働手段に関して一定の熟練度を持っている労働そのもの」が属します。

こうして、労働過程の三要素の中で、後に残っているのは労働対象だけです。そして、生産力の構成要素に関して従来行われてきた諸見解の対立も、まさにこの労働対象をめぐって起こっているのです。
―― ―― 労働対象を全て生産力の構成要素に入れる見解、これを全て排除する見解、一部の労働対象だけを入れる見解と言うように三分することが出来ますが、更にこの第三の見解は、労働対象のどの部分を生産力の構成要素に入れるかに関して、幾つもの見解に分かれています。

先ず、労働対象なしには労働は行われ得ないのだから、あらゆる労働対象が生産力の構成要素である、と言う見解が有ります。これは比較的素朴な見解と言えるでしょう。
しかし前述のように、「生産力」と言うカテゴリーは社会的・歴史的なカテゴリーで有って、我々は生産の歴史的発展を捉える為にこのカテゴリーを必要としているのですから、純然たる自然的要素を「生産力」の構成要素の中に入れることはできません。
と言うのは、自然も又歴史的に発展することは事実ですが、自然の発展には社会の発展とは比べ物にならない長い時間の経過が必要なので、社会の歴史的発展を考える場合には(砂漠の位置が移動したり、河の道筋が若干変化するという程度の変化は有るにしても)、自然は大体において不変であると考えてよく、従ってこのような不変の自然的要素が、歴史的に変化・発展するものである人間の自然に対する能動的な力の構成要素になると言うことはおかしいからです。

このように考えると、労働対象で有っても、それが純然たる自然的要素では無くて、既に人間の労働が過去に加えられているものは、そのことによって社会的・歴史的な性格を持っており、生産力の構成要素に入れるべきだ、と言うことになります。
従って、労働対象を全て生産力の構成要素から排除せよ、と言う見解も正しくありません。
では、どのような労働対象が、社会的・歴史的な性格を持っているでしょうか。
一例をあげれば、農業用の植物の種子は、それが多くの場合に前年度の生産活動の収穫物で有ると言うだけでなく、過去における長年の栽培の結果、品種改良の行われてきた栽培用植物の種子であり、実際に、その植物がかって野生の植物で有った時代に比べて著しく多くの収穫量をもたらすものになっているのですから、これは当然、生産力の構成要素に入るべきです。
こうして、マルクスが「原料」と呼んでいるものは、生産力の構成要素に入れるべきだ、と言うことになります。

最後に残っているのは「天然に存在する労働対象」です。これは全て生産力の構成要素から排除されるべきでしょうか。
―― ―― この問題を考えるに当たって重要な示唆を与えてくれているのが、農業での労働手段としての土地についてのマルクスの叙述です。すなわち「一連の他の労働手段と既に比較的高度に発達した労働力とを前提する」と言う叙述です。
マルクスは一括して短く述べていますが、土地はそれではどのような他の労働手段が既に存在する場合に農業での労働手段になりうるか、と言うことを具体的に考えてみると、どのような土地がどのような労働手段によって、と言うように具体的に考えなければならないことが分かってきます。

例えば中国でより古い時代に農耕文化が発達したのは、陜西省あたりのかなりの山地の、黄河の支流の又支流と言った、比較的小さな水流の両側に少しばかりの平地が開けている、と言った自然的条件の土地ででした。このことは、労働手段が未だ未発達で、石器の農具しかなかった時代には、あまり水量の多い河の水は人間の手に負えず、灌漑用水になり得ず、そのような水を利用しなければならない土地は農業の為の労働手段にはなり得なかった、と言うことを示しています。
そして金石併用時代になり、労働手段が黄河本流の大量の水を利用できるまでに発達した時に初めて、河南省当たりの黄河大平原が農業地帯になったのであり、揚子江流域、ことにその下流域が農業地帯として発展したのは、更にずっとのちの時代のことでした。

農業における労働手段としての土地について以上述べたのと同じことが「労働の一般的対象」としての土地についても言えます。
鉱石はマルクスが述べているように、土地から剥ぎ取ってくれば良い訳ですが、しかしそれが地表に露出しているのか、地下何メートル、または、何十、何百メートルの位置に埋蔵されているのかと言う条件によって、これを剥ぎ取ることが出来るかどうかは、労働手段の発達の程度に依存します。同じことは水産業や林業についても言えることです。
だから、自然的資源が豊富かどうかということは、それぞれの時代の労働手段との相対的関係の中でだけ決めることが出来るのであって、「天然に依存する労働対象」と言っても、労働手段が未発達である為に、存在はするが利用できない場合には、現実的な労働対象ではなく、労働過程のうちに入ってくることが出来ない訳です。

従って逆に、天然に存在する労働対象が労働過程に入る実在的可能性を持つ(労働過程に入る為の条件が備わっている)と言うことは、社会の生産力(取り分け、その労働対象を生産の為に使用できる労働手段と、これを使いこなす人間の熟練度)の発展によってそうなったのですから、その限りで、社会的・歴史的性格を持っている訳です。

以上に述べたことから、私は、結論的に次のように言いたいと思います。
「労働過程の三要素の中から、生産力の構成要素のうちに入れられるべきでないものは、天然に存在する労働対象の中で、労働手段及び人間の労働の熟練度の発達水準に制約されて、労働過程に入る実在的可能性を持たないものだけである。
前記のものを除いて、労働過程の三要素の、それ以外の全ては、生産力の構成要素をなす」と。
―― ―― なんだ、大騒ぎをして除外されるのはそれだけなのか。それなら労働過程の三要素の全てが生産力の構成要素だと言っても、大して違い無いではないか、と思う人が有るかも知れませんが、過去には生産力の構成要素では無かった天然に存在する労働対象が、その後の労働手段の発達によって現在では生産力の構成要素になっていると言うことが有り得ること、そしてこのこと自体が生産力の発展の一つの結果だと言うことが、大切なのです。

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