No- 6 物質と意識

 

※ ここに掲載してある文章は、日本共産党発行の「月刊学習」誌に、1970年代、3年以上に渡って掲載されたものの転載です。管理人によるオリジナルでは有りません。
トップページを参照のこと。

    

 

1、意識とはなにか

前回は「物質とその運動」について述べましたね。今回は「物質と意識」について述べましょう。
「物質と意識」というように言っても、なにも物質とは別に、物質から離れて「意識」という独立した実体があるという意味では有りません。
「実体」とは、少し難しい哲学用語ですが、「それ自身で存在するもの」のことです。

実体と派生したもの

例えばここに1つのリンゴが有るとします。リンゴはなにか別のものが有って、そのおかげで初めて存在する、という訳では有りません。リンゴはそれ自身で存在しています。だからリンゴは一つの実体です。
しかし、リンゴの色とか味とかはそれ自身では存在しません。リンゴが有って初めて、その色や味が存在します。

一般に色や味は、常になにかの色であり、なにかの味です。だからわれわれは色や味のようなものを「性質」とよんで、「実体」とは区別します。性質は常になんらかの実体の性質であり、実体が存在しないのに性質だけが独立に(それ自身で)存在することは有りません。
また例えばここに1本のナイフがあるとします。ナイフはそれ自身で存在していますから、やはり一つの実体です。
われわれはナイフで木や紙を切ることができます。切れるということは、ナイフの働き(機能)です。 「機能」も常に何らかの実体の機能であって、実体が何も無いのに、例えば「切れる」といったような働き(機能)だけがそれ自身で存在すると言うことは有りません。

さて、「世界には運動する物質以外のなにものもない」と言うレーニンのことばを前回に引用しました。これは物質だけが実体である、という意味です。
さきに例に挙げたリンゴやナイフが物質であることは言うまでも有りません。物質が、そして物質だけが実体であると認める哲学 ―― ―― それが唯物論哲学なのです。
そして逆に、意識だとか精神だとかを実体だと認める哲学が観念論哲学なのです。

この講座の第四回目に、哲学の根本問題についてのエンゲルスの言葉を引用して解説した際に、「もとのもの」と「派生したもの」と言う言葉を使いました。
すなわち物質・自然・存在が「もとのもの」であり、意識・観念・精神・思考は「派生したもの」であると主張するのが唯物論だ、というように申しました。ここで「もとのもの」と「派生したもの」ということばを使ったのは、どららからどららが出てきたか、という発生・発展の見地から両者の関係を捉えたからです。同じことを、それ自身で存在するものと、なにかがまず有って、始めて、それのおかげで存在するものとの区別という見地から捉えるならば、さきに述べたように、「物質だけが実体であると認める哲学が唯物論哲学だ」と言い表わすことができる訳です。

意識は人間の身体(脳)の機能

では意識とははなんでしょうか。例えばわれわれは、1日以上もなにも食べずにいれば大変に腹が減ります。腹が減っているということは、物質で有るところの人間の身体の1つの状態です。
だがそれと同時にわれわれは、腹が減ったと感じ、なにか食べたいと願望し、食べる物をどうして手に入れようかと考えます。この感じたり、願望したり、考えたりすることが「意識する」ということです。つまり人間には意識があるのです。

―― ―― 犬や猿でも、長い時間の間なにも食べずにいれば、一生懸命に餌を探し回ります。だがこの場合に犬や猿が、人間と同じように空腹だと感じ、食べたいと願い、どこかに餌は無いかと考えているかどうかは分かりません。われわれが見ることができるのは、犬や猿が餌を探し回るという行動だけであって、犬や猿に意識が有るかどうかは、その行動を見ただけでは分からないからです。
一般的に言って、人間以外の動物に意識が、または意識に似たなにものかが有るかどうかという問題は難しい問題です。

今は、空腹だ、といった身体の状態という比較的簡単な事柄についての意識を問題にしました。だが人間の場合には、自然環境や社会状態のような複雑な事柄についても、明らかににさまざまな意識をもっています。そしてこのような複雑な事柄については、人間以外の動物が意識を持たないことは明らかだと言って良いでしょう。だから、人間以外の動物に意識があるかどうかという難しい問題はここではお預けにしておいて、意識といえばそれは人間に関してのことだというように限って、以下の話をを進めることにします。

さて人間も、頭を強く打って気を失うというような状態に、一時的に陥ることがあります。このような状態にあるときには、人間も意識を持ちません。だが、人間が正常な健康状態にあるときには、人間は必ず意識を持っています。
しかしまた、意識だけが独立に存在しているということも有りません。意識は必ず人間の身体と、しかも正常な状態で生きている人間の身体と結びついて存在しています。
人間の身体は、前回に物質の運動形態について述べたことから分かるように、最高度に発達した物質です。
この最高度に発達した物質である人間の身体と結びついてのみ意識が存在すると言うことは、意識が実体ではないことを示しています。すなわち、意識は人間の身体の機能(働き)なのです。

以前に弁証法的唯物論について述べたもののなかで、「意識は最高度に発達した物質である人間の頭脳の機能である」と書いてあるのを読んだことがあります。
いま、「人間の頭脳」といわないで、「人間の身体」と言ったのは、なぜですか。

尤もな質問です。人間の身体のなかで、例えば消化という機能を果たしているのは主として胃と腸です。同じような意味で、意識という機能を果たしているのは主として頭脳、とりわけ大脳だと考えられています。
しかし、死んでしまえば、消化にせよ意識にせよ、身体のあらゆる機能は停止されます。生命(生きていること)がこれらあらゆる機能の基礎をなしている訳です。
ところが、胃や腸も、頭脳も、それだけで生きている訳ではない。身体が全体として生きているのであり、この全体として生きている身体から切り離されて、頭脳だけで意識という機能が働く訳では有りません。
だから私は、意識を人間の身体の機能であると捉える方が正しいと思うのです。
だからといって勿論、有機的に結合している人間の身体の諸部分・諸器官のなかで、頭脳が特に意識という機能と深く結びついているということを、否定するつもりは有りません。

    

 

2、 意識の起源

物質は環境を反映する

以上に述べたことから分かるように、意識は、生きている人間の身体という最高度に発展した物質と結び付いています。
この結び付きを切り離して、意識だけを独立させて捉える考え方は観念論に陥ります。

では、意識はどのようにして生まれたのでしょうか。
それはいうまでもなく、物質が発展する過程で、とりわけ生物進化の過程で生まれたのです。
物質はすべて、その環境を反映すると言う性質を持っています。無生物でもそうです。
例えば、日なたにある石は暖かく、日陰にある石は冷たいのですが、これは石がその温度によって、それが置かれていた環境を反映していることを意味します。
原子の中に捉えられている電子と、陰極線のように原子から飛び出してきた電子とは、異なった運動をしますが、このこともまた電子がその運動によって、それが置かれている環境を反映していることを意味します。

この意味でレーニンは、「全物質は、その本性上感覚と同類の性質、すなわち反映すると言う性質を持っている、と推測することは論理的である。(『唯物論と経験批判論』第1章5)と述べたのです。ここで「論理的である」というのは、「すじ道のとおった考え方だ」という意味です。

無生物ですらそうなのですから、生物となればなおさらのことです。生物が下等なものから高等なものへと進化したのは、それが環境に適応する能力の如何によってでした。
地球の発展の歴史のなかで、生物の生活環境はさまざまに変化しました。この変化に適用できた種は生き残り、適用できなかった種は死滅しました。
今日われわれは化石として、これらの過去に死滅した種が極めて多数存在したことの証拠を持っています。

環境に適応する為には、何らかの仕方で、環境の状態や変化を捉えなければなりません。つまり、それを反映しなければなりません。
環境の状態や変化をより正確に、より速やかに反映する能力が高ければ高いほど、その種はより良く環境に適応でき、生き残る可能性を持つ訳です。
今日生存しているもろもろの種は、非常に長い生物進化の歴史のなかで、生存競争に勝って生き残って来た種ですから、従って又、環境の状態や変化を反映する優れた能力を持っている訳です。

高等動物は環境を反映する特別に発達した器官として感覚器官をもっています。これらの器官はすべて前述のように生物進化の過程で形成されてきたものであり、それぞれの種の生活様式に適した特徴をもっています。
例えば、犬のように低い姿勢で地上を走り回る種は嗅覚が発達しており、ワシやタカのように上空を飛び回る種は遠くまで見える視覚を備えている、と言うように。
そして感覚器官の発達は、それだけで孤立しているものではなく、それに相応した中枢神経の発達を相伴っていて、大雑把な言い方をすれば、動物は高等で有ればあるほど、身体の大きさと比較して大きな脳を持っている、と言えるでしょう。

脳の発達と、道具、言葉

ところで、人類がある種の類人猿(それは今日の学説ではオーストラロビテクスとよばれている猿だった、とされています)から進化したものだということはよく知られていますが、化石の研究によると、このオーストラロピテクスは、今日生存している類人猿(例えばゴリラ)と比較して、まだそれほど大きな脳を持っていた訳では有りません。それが北京原人となるとかなり大きな脳をもっていたと推定されるし、現在の人類ははるかに大きな脳をもっています。猿から人間へと進化するに当たって、どうしてこのように脳の発達が急速に促されたのでしょうか。
その理由は、道具を作ることと言葉が生まれたことにあると考えられます。

既にオーストラロビテクスがある種の道具を使ったことが知られています。それは、オーストラロピテクスの化石が出てくるそのまわりから、かれらの餌になったと思われる他の動物の骨がでてくるのですが、そのなかに頭蓋骨に穴があいたりヒビがはいったりしたものが発見されるからであって、このことは、かれらが先の尖った石かなにかで他の野獣の頭を殴ってこれを倒したものと推定されています。

だがしかし、かれらは未だ石器を作ったのではなく、おそらく自然のままの石で都合の良い形をしたものを見つけて、それを道具として使ったのでしょう。
けれども、このような都合のよい形をした石はそんなに多数見つかるものではないから、やがて石を割ったり、欠かしたりして、都合のよい形に変えることが必要になります。つまり必要に迫られて道具を作るようになったのです。

例え非常に幼稚なものであったにしても、道具をつくるということは、それを使うときのことを予想して、その目的に適うようにに目の前にある材料を加工すると言うことを意味します。
勿論それには、手先が器用でなければなりませんが、同時に、目の前にあるものを感覚するだけでなく、将来それを使うときのことを予想できると言うことが必要です。
そしてこの予想は、過去に他の道具(おそらく自然のままの石)を使ったときの経験が記憶されていて、これが将来の目的へと投射されることによって生まれるものです。
難しい言い方をすれば、過去が未来へと媒介されることによって始めて、道具を作るという現在の行動(作業)が可能になるのです。

勿論このようなことができるようになるには、何世代もの長い時間が必要だったに違い有りません。しかしそのような必要が脳の発達を促したのであり、目の前に有るこのものを感覚するという能力を超えて将来おこり得るであろうさまざまな場合を一つにまとめて予想すると言う、意識の重要な特徴の一つが漸次的に形成されていったのです。

もう一つの重要な問題、ことばの発生も、労働における共同作業の必要から起こりました。樹上生活から地上の生活に移った猿は、専ら地上で生活していた他の動物に比べて、最初のあいだは地上での行動がそれ程すばしこかったとは考えられません。それが他の動物を餌として捕らえることが出来る為には、一対一ではなく、集団として行動して一匹の相手をしとめる必要があったでしょう。
集団行動にはなんらかの合図が必要であり、最初はおそらく「それっ」といったような単純な意味を持つ掛け声ののようなものが生まれ、次第に複雑な行動をお互いに通じ合うことができるような言葉へと発展していったものと思われます。
そしてこのことがまた、脳の発達を促したのであり、また逆に発達した脳はより複雑な意味をお互いに言葉によって伝えあうことを可能にしていったに違い有りません。

これまでに述べたことは、いくらかの推測に基づくものです。およそ百万年前に起こったことを、まったく確実に叙述するということは、残念ながら今日のわれわれの研究によってはまだ不可能なことです。
だが、猿から人間への進化がおこなわれ、その過程で人間に特有の意識が生まれたということは否定できない事実です。この事実がどのようにして行われたかと言うことの大筋は、若干の推測を交えた記述であるとはいえ、上記のことと大きく食い違っているとは考えられません。細部についての詳細は、今後の研究によって、更に明らかになることでしょう。


※ 管理人 注
現在ヒトの進化については相当精密に描写できるところまで来ています。
少し前までは、 分子生物学の所見から、ヒトは約500万年前にチンパンジー等との共通の祖先と枝分かれしたとされていました。 しかし最近、古い人骨化石の発見が相次いでいます。
特に 2002年の7月、中央アフリカのチャドで発見された化石人類「サヘラントロプス・チャデンシス(愛称-トゥーマイ)」は、約700万年前とされ、チンパンジーと共通祖先から分かれた、最初の人類ではないかとされています。


 

質問があります。最近、わが国の生物学者たちによって、ニホンザルの生態の研究が大変に進歩し、また、欧米の学者によって、ゴリラの研究も進んでいると聞いています。
それによると、ニホンザルやゴリラもことばを持っているということです。そうだとすると、労働における共同作業の必要からことばが生まれた、と言う先の説明と矛盾するのではないでしょうか。

確かにあなたが言われるように、それらの研究によって、日本猿やゴリラの発する音声に、20種類或いは30種類以上の違いがあるということが明らかにされています。ニホンザルが集団で行動する場合には、斥候の役目をする数匹の若者猿が先頭に進み、そのなき声によって、後に続く全集団が前進を止めたり、再び前進を開始したりするそうです。
このようななき声は、「止まれ、警戒せよ」とか「危険なし、前進せよ」とかいう意味を持つものと理解できる訳であり、これらのなき声を猿の言葉と呼ぶことも、ある意味では正しいと思われます。

しかし同じ研究によると、猿の場合にこのようにある特定の音声がかれらの行動にとっての合図になるのは、生命の安全を守る為とか、餌を探す為とかいう、かれらの本能的行動と結びついている場合だけに限られるということです。一匹の猿がその経験によって得た、必ずしも本能的とはいえない事柄についての知歳は、なき声によってでは無く、身ぶりによって他の猿に伝えられる、というのです。

この点に、猿のなき声をはたして言葉と呼んででよいかどうか、疑問があります。ニホンザルのことば、ゴリラのことばなどと言いたければ、なにもそう言って悪いということは有りませんけれども、それはかれらの本能と密着したものであり、原始人が労働における共同作業の必要から使うようになり、共同作業の複雑化に伴ってどんどん発展していった、あの人間の言葉とは区別しなければならないもののように思われます。

オーストラロビテクスが一種の猿であったかぎり、かれらも又、ニホンザルやゴリラと同様に、かれらの本能と結び付いた何十種類かのなき声をもっていたことでしょう。
それにもかかわらず、かれらの新しい経験、元来樹上生活をしていたかれらの本能だけによっては解決できない事柄についての新しい経験を、どうしてニホンザルの場合に言われているように身ぶりによってではなく、音声によって、あるいは音声の一定の組み合わせによって相互に伝えあうようになり、それが人間のことばにまで発展するようになったのか、その点が私のもっとも知りたいことなのですが、ニホンザルやゴリラの「ことば」についての諸研究を私が今までに読んだかぎりでは、私にはまだ分からないのです。
この点を解明するような研究を知っている方があったら、ぜひ教えてください。お願いします。


※ 管理人 注
人間の言葉と、動物の「ことば」の質的な違いとして二つ挙げられるようです。

  1. 恣意性
    「音声言語の恣意性と語義の転化」参照
  2. 分節
    人間の言葉は「音節(音素)」の組み合わせで、無数の「単語」が作られ、単語の組み合わせで無限の「言葉 ―― 文章」が作られる ―― 二重分節。
    このことによって、有る限られた単位(音節)の組み合わせによって、無限の新しい事柄・表現に対応できる。

    それに対し、分節を持たない動物の「ことば」は、持っている鳴き声のバリエーションだけの表現しかできず、それを組み合わせて新しい表現を作ることはできない。しかもその鳴き声のバリエーションは概ね生得的であって、訓練によって新しい事柄に対応する鳴き声を身につける、ということもできない。
    つまり、ニホンザルやパタスモンキー等に、30種類の鳴き声のバリエーションが有るとして、表現できる事柄もその30種類に限られると言うことだ。

 

3、意識は物質を反映する

意識は社会的なもの

以上に述べたことによって、われわれ人間が持っている意識の働きは、無生物にさえ備わっている、環境を反映するという性質が最高度に発展したものだ、ということが分かったと思います。
意識は確かに、一面では個人的なものです。 われわれは他人の意識を覗いて見ることはできません。
他人の表情をみて、怒っているな、とか、喜んでいるな、とかいうことを推察できるだけであって、他人がなにを意識しているかを正確に知る手段をわれわれはもっていません。 そういう意味では、意識は確かに個人個人に属している内面的な事柄です。
しかし他面、意識はその起源からいって、社会的なものなのです。
自分ひとりにしか使えない道具というものはないので、道具を作るということはそもそも一つの社会的な行為でした。
ことばの場合はもっと明瞭に、互いになにごとかを伝えあうという社会的な場面で生まれました。 この点からみるならば、意識はそもそもの始めから社会的意識として生まれたものなのです。

意識をまったく個人的なものとだけ考え、わたくしという一個人の意識をもっとも確実なもの、根本的なものとしてとらえ、このように解せられた意識から出発してあらゆる問題を解決しようとしたものが、例えば、近世のはじめの哲学者デカルト(1596-1650)でした。
意識のこのようなとらえ方は、いろいろに変形されながら、現代の観念論哲学のなかに根づよく残っています。
これに反して、弁証法的唯物論は、意識がそのそもそもの起源からいって社会的なものであることを重視し、個人的意識よりもむしろ社会的意識により多くの注意をむけます。

さて、意識は常に、なにものかについての認識です。
この「なにものか」というなかには、いま現におこっている自然現象や社会現象はもちろん、過去のできごと、過去の体験(それについての記憶)も、将来おこるであろうことへの期待や予想も含まれます。

現にいま目の前にあるものが物質であり、それについての意識が物質の反映であることは言うまでも有りません。だが更に、過去の体験というのも、過去におけるなんらかの物質的なものについての意識であり、それがいま反省という意識の一つの働きによって現在の意識に呼び戻されているのですから、やはり、間接的にではあるが、物質の反映です。
将来起こるであろうことへの期待というのも、現にある物質的なものがわれわれの意識に反映されており、その物質的なものが将来変化するであろうことをわれわれが期待するのですから、やはり物質的なものの間接的な反映なのです。

例えば、われわれが社会主義化された日本を期待するということは、現存している資本主義的な物質的社会関係(生産関係)を意識内に反映していると同時に、この社会関係の持っているさまざまな欠陥をも反映(意識)しており、したがって、このような欠陥の除去された社会関係が実現されることへの期待がわれわれの意識内に生まれるのです。
このようなことは、さきに述べたように、原始的な道具をつくる場合にも既に見いだされたことです。
目の前にある材料としての石は、まだ道具として使うのに適した形をしていません。そこに感覚されている石には、道具に適した性質(例えば、先が尖っていること)がまだ欠けています。

単なる感覚とは違って、いま現にあるものを反映するだけでなく、そこに欠けているもの(いまだ存在しないもの)があるということをも反映できるということが意識の重要な特徴であり、単なる感覚よりも意識がすすんだもの、高度なものである所以なのです。
この機能があったからこそ、原始人は材料としての石を加工して原始的な石器をつくることができたのであり、またこのような労働をとおして意識の前述の機能が発展し、多様で複雑な事柄についてもまだそこになにが欠けているかを意識できるようになってきたのです。

現存するものの反映をとおして現存しないものを意識するという意識のこの機能は、まだ欠けているものを存在させるようにするという実践行動へと人間を導きます。その意味で意識がはたす積極的な役割りについては、次回に更に詳しく述べましょう。

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