No-14 認識・感情・意志

 

※ ここに掲載してある文章は、日本共産党発行の「月刊学習」誌に、1970年代、3年以上に渡って掲載されたものの転載です。管理人によるオリジナルでは有りません。
トップページを参照のこと。

    

 

去年の一月号に、この入門講座を書きはじめるにあたって、「これから約一年間の予定で、この講座を連載します」と私は書きました。既に一年間は過ぎましたが、まだ書きたいことがたくさん残っています。編集部の許しを得たので、ことしの年末までの予定で更にこの講座を書きつづけることにしました。

ここでちょっと振り返ってみますと、第1-4回には、弁証法的唯物論の全体をあらかじめ大づかみに理解しておくために、概観的な叙述をおこないました。
第5-8回には、弁証法と切り離せないことに留意しながら、主として唯物論について述べました。
そして第9-13回には、唯物論の立場にたって、弁証法について、とりわけ弁証法の三つの基本法則について述べました。
なお弁証法のカテゴリーについて述べなければならないのですが、それはあとまわしにして、今回から数回続けて、認識について述べることにいたします。
なぜカテゴリーをあとまわしにするかというと、認識の発展についての理解を深めておくことが、弁証法のカテゴリー(これは、主要なものだけにかぎっても、10以上ある)をバラバラにではなく、互いに連関のあるものとして、見とおしよく述べるために必要だからです。

ところで、認識に関係のある事柄は、この講座のなかで、とりわけ第6-8回に意識について述べたなかで、既にいろいろ述べておきました。しかしそれだけで認識について必要なことをすペて述べ終わった訳ではないので、既に述べたことを基礎におきながら、それをいっそう展開されたかたちで述べる必要が有る訳です。
既に述べたといっても、もう半年以上も前のことなので、以下の叙述では、復習する意味をも含めて、まず前に述べたことを整理して述べなおし、それから新しいことを述べるようにしたいと思います。

1 意識も認識も物質の反映である。では、意識と認識とはどう違うか。

第六回に、意識は生きている人間の身体の(とりわけ、人間の頭脳の) 機能(働き)であること、意識は常になにものかについての意識である、すなわち、意識は物質の反映である、ということを述べました。
この二つのことは、そのまま認識についてもあてはまります。すなわら、認識は生きている人間の身体の(とりわけ頭脳の)機能(働き)であり、また、認識は常になにものかについての認識であり、認識は物質の反映です。それでは、意識と認識とは全く同じなのでしょうか。そうでは有りません。では、意識と認識とはどう違うのでしょうか。

具体的な例について考えてみましょう。あなたが、毎朝仕事に出かける前に、「赤旗」を配達してくれ、と頼まれたとします。
「『赤旗』を配達するには、毎朝一時問早く起きなければならない。これは相当きついや、嫌だなあ。でも、一人でも多くの人が『赤旗』を読めるようにすることは、いま、日本の政治の流れを変えるために大事なことだ。よし、頑張ってやることにしよう」、こんなことが次々にあなたの頭脳にうかんでは消えてゆき、その結果あなたが「よろしい、やりましょう」と言ったとします。

この場合に、さきの「 」の中のことを、あなたはすべて意識したのであり、それはあなたの意識内容です。さてそのなかで、「これは相当きついや、いやだなあ」というのは、あなたの感情です。
「よし、頑張ってやることにしよう」というのは、あなたの意志です。これに対して、「『赤旗』を配達するには、毎朝一時間早く起きなければならない」、「一人でも多くの人が『赤旗』を読めろようにすることは、いま、日本の政治の流れを変えるために大事なことだ」という二つは、あなたの認識です。

認識も感情も意志も、意識に属しています。意識は、認識をも感情をも意志をも含んでいます。つまり、意識はこれら三つのどの一つよりも広い機能です。これに対して、認識・感情・意志の三つは、いずれも意識に属していて、いわば意識の一部分をなしており、意識よりも狭い機能です。
これらの三つは、いずれも物質(客観的実在)を反映する機能ですが、その反映の仕方が同じでは有りません。どのように違っているのでしょうか。

認識

認識は、客観的事物(事実)をありのままに、客観的に反映しようとするものです。ただし、客観的に反映するということは、認識の理想であって、人間は常に客観的事物(事実)をありのままに反映できる訳では有りません。しかし認識は、この理想を実現しようと、あるいは少しでもこの理想に近づこうと、常にめざしているものであって、その為にいろいろな努力・工夫がなされているのです。

例えば、ある物体の温度が知りたい場合には、手で触ってみれば、大体のことは分かりますそれは、皮膚には温度感覚器官が備わっているからです。しかし次のようなことがあります。
A・B・Cという三つの容器に氷水、ぬるま湯、熱い湯を入れておいて、左手を氷水に、右手を熱い湯に数分間浸しておきます。それから両手を同時にぬるま湯に入れるのです。

すると、左手は暖いと感じ、右手は冷いと感じます。同じ人の左手と右手でありながら、それが前にどういう状態におかれていたかの違いによって、同じぬるま湯を、一方は暖いと、他方は冷いと、感じるのです。
こうなってみると、皮膚の温度感覚器官というものは、必ずしも物体の温度を客観的に反映できるものではない、ということが分かります

温度計をぬるま湯に突っ込んでその目盛を目で読み取れば、手を突っ込むよりもはるかに客観的にぬるま湯(という物体)の温度を反映することができます。 ―― ―― これはごく簡単な場合についての一つの例にすぎませんが、一般的にいって、客観的事物を客観的に反映するためにどのような努力・工夫が必要かということは、大切な問題です。
これについてはのちにもっと詳しく述べましょう。

今ここで重要なことは、実際にはその理想を達成できないことが多くあるにしても、認識は常に客観的事物(事実)を客観的に反映しようと目指しているものであり、また多かれ少なかれ客観的に反映しているものだ、ということをハッキリ理解しておくことです。
この客観性という特徴を持っているので、認識は、たんに自分個人にとってだけのものではなく、何人にとっても同じように通用するものとして扱われています。
実際に、だれか他人が熱い物体に触ろうとしているのをみれば、それは熱いから火傷をしないように注意したまえ、と言うでしょう。
これは、「その物体は熱い」という認識が、決して自分一人だけのものではなく、他人にとっても同様に通用するものとして扱われている、ということをしめすものに他なりません。

    

 

感情

これに対して、感情は主観的なものであり、個人差の大きいものです。
好きだとか嫌いだとか、楽しいとか不愉快だとかいうことは、なぜそうなのかと聞かれても、「嫌だから嫌だ」とでも言う以外に説明のしようがないものです。
感情は、理由なしに、直接に、あたかも外からわれわれの心をおそってくるかのように決定されるものです。それだけにわれわれは、同じ事柄についても、他人が必ずしも自分と同じ感情を持つものではない、ということをよく心得ていて、認識の場合とは違って、他人にも自分の感情が通用するとは期待しません。

しかし、だからといって感情は、決して無意義なものでも価値のないものでも有りません。人間は感情の動物だなどといわれるように、感情が激しい人とそうでない人との違いはあるが、感情を持たない人は有りません。そして感情にも正当な感情と不当な感情があります。
食べ物に好き嫌いが激しくて、栄養が有りかつ多くの人が食べている物を嫌いだといって食べない、というようなのは不当な感情といえましょう。それは自分自身の健康を守るのに有害で、自己を傷つける感情ですから。

だが他方、政治的奴隷状態に反発し、解放を求める感情のように、人間の権利に根ざした正当な感情もあります。 金で誘惑されても応ぜず、刑罰を加えると脅されても屈しない頑固な感情が、その人を社会的不義から守る強力な支えとなる場合も少なくないのです。

感情にはこのように個人差が大きく、同じ状況におかれたからといってだれもが同じ感情を持つ訳では有りませんが、しかしそれでもやはり客観的事物(事実)を反映しているのです。
ただその反映の仕方が、それぞれの人の個性を通して反映されるので、それぞれの人の意識内で屈折されて、違った結果を生じるのです。
こに個性と言ったのは、それぞれの人が生まれてからその時にいたるまでの生活体験が集約されたもののことであって、不変のものではなく、今後の生活体験によって集約されなおし、変わってゆくものではあるけれども、しかし急には変わらないものであり、それぞれの人の感情の持ち方、行動の仕方などを特徴づけているもののことです。

意思

最後に意志ですが、これはそれぞれの人の行動を内面的に決定するものです。内面的にというのは、意志の外に、外面的な条件が伴わなければ、意志だけがあっても、必ずしもその行動が実現されるとは限らないからです。
例えば登山をしようと意志したとしても、病気になったとか、天候が悪くなったとかの原因によって、登山という行動が実現されない、というような場合があります。しかしそもそも何か有ることをやろうという意志がなければ、その人はその行動をしないでしょう。
だから、意志は行動にとって欠くことのできないものです。動物でさえも、水を飲むまいとしているときには、水槽のなかへ頭を突っ込んでやっても、これに水を飲ませることはできません。
まして人間の場合に、あることをやろうという意志を持たない人に、他人が強制してその行動をおこなわせることはできないのです。

このように行動を強制できないということは、ある意志をもつようにと他人を強制することもできない、ということを意味します。したがって意志は、それぞれの人の心の内から発するものであり、意志自身が、自発的に、自由に、自己自身を決定するものであるかのように見えます。
古くからさまざまな哲学者が、「自由意志論」(意志は自由におのれ自身を決定する、と言う主張)を唱えているのも、外見的には確かにそうみえるところがあるからです。
だが、もしもそうだとすると、意志は客観的事物(事実)の反映ではない、ということになってしまいます。

意識は物質を反映する、と主張する弁証法的唯物論は、意識の機能に属する意志という機能について、自由意志論者のいうような主張を認めることはできません。
ではこの問題はどう解決されるのでしょうか。 ―― ―― ―― 次に、弁証法的唯物論の立場にたつ哲学者と、自由意志論をとなえる哲学者との論争と言うかたちで、この問題についての両者の主張を述べてみましょう。

ちょっと待った。その前に聞きたいことがあります。「意識」と「認識」の違いについては説明がありましたが、「知識」というのはなんですか。
認識と知識とは同じですか。違うとすれば、どう違うのですか。

大体同じだと考えてよろしい。だが「大体」と言うのは、細かくみれば違いがあるからです。

まず、ことばの使い方として、認識は「認識する」と動詞にすることができますが、「知識する」というのはおかしいでしょう。このことば使い方の違いにみられるように、「認識」という場合には、作用(働き)の面からみられていることが多い。
これに反して、「知識」ということばは、作用(働き)によって得られた結果を表わすのです。「あの人は知識が豊富だ」という言い方をしますね。これは、その人が過去に行ったさまざまの認識活動の結果として、現在多くのことを知っていることを意味します。
これに対して、「あの人の認識は鈍い」といいますが、「あの人の知識は鈍い」とはいいません。その理由は、「鈍い」といわれているのは、過去におこなった認識活動の結果についてではなくて、その人が現におこなっている認識活動・認識作用についてだからです。

しかし「認識」ということばを作用ではなくて結果を表わすのに使うこともあります。「君はこれこれの事柄についての認識がまだ足りない」というように。
この場合には「知識」と言い換えてもよい。すなわち「君はこれこれの事柄について知識がまだ足りない」といっても、全く同じことを意味します。

2、意志は自由だろうか

  • Z
    意志は自由におのれ自身を決定するのであって、客観的事物 (事実)を反映するのでは有りません。例えば、富士山を見たからといって、全ての人が富士山に登山しようという意志を持つ訳では有りません。

    ある人はそういう意志を持つかも知れないけれど、他の人は持たないでしょう。
    このことは、意志が外界の事物を反映することによって決まるものではないことを示しています
    同じように富士山を見ながら、登ろうと意志する人も、そのように意志しない人もあるということは、登ろうという意志はそれぞれの人の心の内から決定されることを示しています。
    では心の、あるいは意識の(といってもよいが)どんな働きが意志を決定するのでしょうか。認識でしょうか。

    富士山はかたちがなだらかで比較的登りやすいということを認識したからといって、この認識は富士登山をしようと決意するのに大きな困難はないということを教えるだけで、そこから登ろうという意志が生まれる訳では有りません。
    また、感情でしょうか。富士山をみて、美しい、気持ちが良い、といった感情が生まれたとしても、この感情は見ているだけで満足されるものであって、そこから登ろうという意志が生まれる訳では有りません。

    認識でも感情でもないとすれば、残るのは意志だけです。つまり、意志だけが意志を決定するのです。他のなにものによってでもなく、意志がみずから意志を決定するのですから、この決定は自由な決定です。すなわち、意志はみずから、自由に、おのれ自身を決定するのです。
     
  • B
    そうでは有りません。
    まず最初に指摘しなければならないことは、同じ外界の事物に接しながら人によって違った意志が生まれるということは、意志が外界の事物の反映ではないということの論拠にはならない、ということです。

    あなたがこのことを論拠にしたのは、あなたが反映ということを、写真機のレンズを通してフィルムの上に風景や人物の像が映るように、感覚器官を通して意識のなかに外界の事物の像が映ることだと、機械的に考えているからです。
    「意識が物質を反映する」という場合の「反映」とは、そのような単純なことをいっているのでは有りません。
    さきに感覚について、それぞれの人の個性を通して、それぞれの人の意識内で屈折されて反映する、と述べましたが、意志の場合も同様です。

    個性すなわち、それぞれの人が生まれてからその時に至るまでの生活体験が集約されたものは、非常に複雑なものなので、これを単純に類型に分けるようなやり方は正しくないのですが、富士登山を意志するかしないかと言う、いま出されている問題に関連させて、あえて単純化していうならば、その人の過去の生活体験のなかから、足腰の強さに自信をもつスポーツマン型の個性が形成されていて、しかも自然を愛する傾向が併せ持たれているか、それとも、足腰の強さには自信がなく、読書や思索を愛するような書斎人型の個性が形成されているか、又はスポーツマン型ではあるが自然よりもむしろボウリングのようなものを愛する傾向を持っているか、などといったことが問題になるでしょう。

    こういう個性の違いによって、同じ富士山をみても、ある人は登山という肉体の運動と結びつけてこれを反映し、富士登山をしたいと意志するでしょうし、ある人は詩作や絵画という芸術活動と結びつけてこれを反映し、詩をつくろうとか、絵を描こうとか意志するでしょうし、ある人はなんの感動もなくこれを反映して、つぎの停車駅で弁当を買おう、などと意志するでしょう。

    次に、あなたは認識および感情と意志とが無関係だと論証したと思っており、そこから残るのは意志だけだから、意志が意志を決定するのだ、と主張していますが、これも間違っています。
    富士登山という例は、あまり深い認識を必要としない例なので、例をかえて、「赤渡」を配達してくれと頼まれたという前の例をもう一度とりあげて考えてみましょう。
    毎朝一時間も早く起きるなんて嫌だなあという感情に動かされて、「嫌だからお断りします」という場合があります。これは、あたかも意志が水から自己を決定したかのようにみえるかも知れませんが、実際にはその人の感情がその人の意志を決定したのです。

    また、一時問もはやく起きるのは嫌だという感情を確かに抱いておりながら、「一人でも多くの人が『赤族』を読めるようにすることは大事なことだ」という認識が嫌だという感情に打ちかって、「よろしい、やりましょう」と答える場合もあります。これはその人の認識がその人の意志を決定しているのです。

    決定された意志の内容は正反対ですが、意志がみずから意志を決定しているのではなく、感情や認識が意志にせまって意志を一定の方向に決定させたのだ、という点では同じです。
    そして、感情も認識も、前に述べたように、主観的にであれ客観的にであれ、物質(客観的事物)を反映しているのですから、結局、意志は、感情や認識を媒介にして(間接的に)ではあるが、物質(客観的事物)を反映することによって決定されるのです。
     
  • Z
    あなたはなかなかまことしやかに説明されましたが、そんな説明に僕はごまかされません。というのは、感情に従って「嫌だ」というか、認識に従って「やりましょう」というか、あなたの説明によっても依然として二つの道が残されているのであって、そのいずれを選択するかは、あなたのいう「反映」とかによっては決まらないでは有りませんか。
    どちらを選択するかは結局意志に委ねられているのであって、それならば、「意志が自由に自己を決定する」ということと同じでは有りませんか。結局あなたもこのことを認めているのですよ。
     
  • B
    そうでは有りません。自分の正面にあるタバコを右手でとるか左手でとるかというような、どちらでもよい場合には、私はなんの理由もなしに右手を出したり左手を出したりするでしょう。 こんなどうでもよい場合にまで、意志は自由に自己を決定するといいたいのなら、その限りではそのことを認めましょう。
    だが重要なのは、二つの道のどちらを選択するかになんの理由もない場合ではなくて、なんらかの理由がある場合です。

    「赤族」の配達を引きうけるかどうかという場合には、「眠いから嫌だ」というのも一つの理由です。「一人でも多くの人が『赤族』を読めるようにするのは大事なことだ」というのも一つの理由です。
    なおその他に、「自分は病弱なので、毎朝一時問はやく起きるということに、長くは耐えられない」という理由を持っている人もあるかも知れません。
    第三の理由が決定的ならば、その人は断ることになるでしょう。
    だが、そんな理由を持たない人にとっては、結局、二つのうちどららの理由が強く意識されるかが、意志決定の決め手になります。

    一時間はやく起きるのは嫌だという感情が強いか弱いかは、それぞれの人の個性によることであって、一人の人については急には変わらないものと思われます。
    そうだとすると、第一の理由よりも第二の理由の方が強く意識されるかどうかは、その人が日本の社会の現状とこれを変革する道をどう認識し、共産党とその機関紙の役割をどう認識しているかによります。
    その人の意志決定が感情に従うか認識に従うかは、その人の社会認識が深いか浅いか、それが感情を制するか感情に屈するかによって決まる訳です。

    認識も感情も意志も、一人の人の意識の機能ですから、それぞれがひとり歩きしている訳ではなく、意識の統一的な働きとして総合されているのであり、それぞれの場合にどの機能が強く作用するかという違いはあっても、常に相互作用しながら働いているのです。
    だから、意志だけがひとり歩きして、自由に自己を決定するというようなことは有り得ません。

意志が自由に自己を決定しようがしまいが、どちらでもよいと思うのですが、どうしてこんなことを論争するのですか。

意志をひとり歩きさせる哲学の典型的な一つはニーチェ(1844-1900)の哲学です。『月刊学習』の1971年十月号で高田求さんが解説しているように、ニーチェの哲学の後継者は、こんにちのわが国で、トロッキストや全共闘のような「新左翼」にも、三島由紀夫や林房雄のような右翼にもみいだされ、この思想との闘争はわれわれのゆるがせにできない任務です。
この傾向の思想を批判する為には、「意志の自由」という主張を弁証法的唯物論はどう批判するのか、また意志をどう理解するのか、を正しく捉えることがその出発点です。

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