No- 7 意識の役割

 

※ ここに掲載してある文章は、日本共産党発行の「月刊学習」誌に、1970年代、3年以上に渡って掲載されたものの転載です。管理人によるオリジナルでは有りません。
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1、一般化して反映する

前回「意識の起源」について述べた際に、猿から人間への進化にあたって脳の急速な発達を促し人間に特有の意識を生まれさせた原因として、「道具をつくること」と「ことばが生まれたこと」を挙げました。そしてその時述べたように、ことばは労働における共同作業の必要から生まれたのであります。

ところで、今日われわれが使っていることばは、非常に複雑なものです。ことばに、日本語とか英語とかドイツ語とか言うような、いろいろの違ったことばがあることも、よく知られている事実です。これらのことばは民族語と呼ばれています。又、日本語と言う一つの民族語の中にも、例えば東北地方に住む人のことばと九州地方に住む人のことばとの間には、多少の違いが有ります。このような一つの地域で用いられる言葉は方言と呼ばれています。
だが、このような言葉のいろいろな種類や相違にもかかわらず、ことばにはあらゆることばに共通した一般的な特徴があります。それは、ことばは物事を一般化して表すことが出来るということです。

ことばの中にも、固有名詞と呼ばれていて、ただ一つのもの又は人だけを表すものも有ります。例えば「金星」とか「土星とか言うようなことばは、ただ一つの天体(星)を表しますし、「カール・マルクス」とか「加藤清正」とか言うようなことばは、ただ一人の人間だけを表します。このようなことばの場合には、ことばとそれが表す(または指し示す)対象(もの又は人)との関係は一対一の関係に有ります。だが、このようにことばとそれを表す対象との関係が一対一である場合は、比較的少ないのです。大多数のことばにあっては、ことばとそれが表すものとの関係は、一体多の関係に有ります。

例えば、「星」と言う一つのことばは、天空に輝く多数の星のどれでも表しますし、「人間」と言う一つのことばで、地球上に生きている数十億の人間のどの一人をも表すことが出来るばかりでなく過去に死んでしまった人たちや、これから先に生まれてくるであろうはるかに多数の人々をも表すことができるのです。
今まで例に挙げた名詞ばかりでなく、例えば「走る」とか「転がる」とかいうような動詞でも、人間・動物・物体などのある種の運動を表します。夏に海水浴に行って人間が砂浜で転がるのも、ボウリングの球がレーンの上を転がるのも、同じ「ころがる」と言うことばで表されます。このような場合には「ころがる」と言う一つのことばは多くの人や物体のある特定の運動状態を表している訳で、ことばとそれが表す対象の状態との関係は、やはり、一対多の関係にある訳です。

ことばとそれが表すものとの関係がこのように一対多の関係であるということは、非常に重要なことです。と言うのは、このことは、対象を一般化して反映するという特有の働き(機能)が意識にある、と言うことを意味しているからです。
感覚は目の前にある一つの対象(例えば一つのリンゴ)をこのもの(この一個のリンゴ)としてしか反映しません。しかし意識は、ことばを持っているお陰で、同じ一つの対象を「リンゴ」としても、果物としても、また「食物」しても反映します。リンゴ、ナシ、ミカンなどを「果物」として捉えること、又、果物、パン、肉などを「食物」として捉えること  ――  これが一般化して捉えると言う働きなのです。この働きは前述のようにことばと密接に結びついています。

ことばのこのような働きは、われわれの日常生活でも大きな役割を果たしています。例えばあるところに行く為に道を聞いたとします。「この道を5分ばかりゆくと右側に郵便局が有ります。その少し先に十字路が有るから、そこで左に曲がり、さらに少し行くと坂が有るから、その坂を登りきって、そこで右に曲がりなさい」、このように教えられれば、われわれは直ちに自分のゆく道を理解します。「郵便局」、「十字路」、「坂」などのことばは、それが指し示す対象と一対多の関係にあることばですが、これらのことばによってわれわれは未だ一度も見たこと(感覚したこと)のない建物や道を特徴づけることができ、他人に道を教えることも教えられることも出来るのです。そしてこのことは、道を聞くと言うような単純な場合ばかりでなく、仕事の仕方や、どのような社会的任務をどのように果たすべきか、と言うようなことを他人から教えられたり、又他人に教えたりする場合にも当てはまります。

私はこれまで、対象を一般化して反映するという意識の働き(機能)を、ことばとそれが表す対象との関係が一対多の関係にあるということにもとづけて説明してきました。だがさらに一歩突っ込んで、前回に述べたように、意識が生まれた(猿から人間へと進化するに当たって)と言うことと、ことばが生まれた(労働における共同作業の必要によって)と言うこととが不可分に結びついていることを考えるならば、ことばを持たない意識というものはないのであり、前述のようなことばの働きというものは、まさに意識そのものの働きに他ならないのです。だからマルクスとエンゲルスは『ドイツイデオロギー』で次のように述べています。

「われわれは人間が『意識』を持っていることを見出す。しかしこれも初めから『純粋な』意識としてではない。『精神』は物質に『憑かれて』いるという呪いをもともと負わされており、この場合に物質は運動する空気層すなわち音の、つまり言語の形で表れる。
言語は意識と同じように古い  ――  言語は実践的な意識であり、他の人間にとっても存在し、したがって又私自身にとってもそれでこそ初めて存在する現実的な意識である。そして言語は意識と同じように他の人間との交通の欲望、その必要から初めて発生する。……意識は勿論最初は単に身近な感性的環境についての意識に過ぎず、又意識的になりつつある個人の外にある他の人間や事物との限られた繋がりの意識であるに過ぎない。それは同時に自然についての意識であり、そして自然は初めは人間に向かって全くよそよそしい全能かつ不可侵な力として現れ、人間はそれに対して純粋に動物的な態度をとり、それによって人間は家畜のように威圧される。したがってそれは自然についての純粋に動物的な意識である(自然宗教)。……しかも他方では周りの諸個人と結合関係に入らざるを得ないという必然性の意識が、自分はとにかく社会の中に住んでいるのだということについての意識の端緒が現れる。この端緒はこの段階の社会生活そのものと同じように動物的であり、それは単なる群居意識である。そしてここで人間が羊から区別される点はただ、彼の意識が彼の本能にとって代わっているという点、または彼の本能が意識的なそれであるという点だけである。
この羊意識或いは種族意識は、生産性の上昇、欲望の増加、及びこの両者の基となっている人口の増加によってさらに一層の発展と発達を遂げてゆく。
それとともに分業が発展するが、これはもともと性行為における分業に他ならず、次には自然的素質(例えば体力)、欲望、偶然などによってひとりでに、すなわち『自然成長的』に出来上がる分業であった。分業は、物質的労働と精神的労働との分割が現れる瞬間から、初めて現実的に分業となる。この瞬間から意識は、現に行われている実践の意識とは何か別なものであるかのように、また現実的な何物をも表していないのに現実的に何物かを表してでもいるかのように、現実的に自ら思いこむことが出来るようになる」

大変に長い引用をしましたが、この引用文の後半の部分は、動物的な意識(動物が持っている意識と言う意味ではなく、未だ動物に近い状態にあった人間の意識)から今日のわれわれが持っているような、本当に人間的な意識への発展がどのようにして起こったかを述べています。それは「生産性の上昇、欲望の増加、及びこの両者の基となっている人口の増加」による、と言うのですが、特に「物質的労働と精神的労働との分割が現れる瞬間から」意識が「現に行われている実践の意識とは何か別なものであるかのように……自ら思いこむことが出来るようになる」と言っていることに注目してください。
私は既にこの講座の第二回目に、唯物論と観念論との違いを説明するに当たって、専ら精神的労働に携わっている人々(階級)の考え方として観念論が生まれたということを述べておきました。前回に述べたように、意識は物質を反映するのであり、さらに今回強調したように、意識はこの物質的対象を一般化して反映するのでありますが、意識が持っているこの優れた機能が現に行われている実践から離れる場合には、その優れた機能が逆に作用して、現実的なものを何も表していないのに、現実的に何物かを表しているかのように思いこむという虚偽意識が生まれるのであります。観念論哲学はまさにこのような虚偽意識なのです。

    

 

最後のところが難しくて分かりません。物質的対象を一般化して反映するという意識の働きが優れた機能だと言われていながら、それが逆に虚偽意識を生み出すと言うようなことがなぜ起こるのですか。

確かに分かりにくい問題だと思います。例をとってお話しましょう。
感覚は目の前にある物質的対象を直接に反映することしかできません。感覚とそれが反映する対象との関係は、常に一対一の関係です。だから、感覚だけしか持たない場合には、具体的にかつ現実的に存在するものから離れることはあり得ない訳です。石や砂だけしか存在しない環境に置かれているときには、感覚は石や砂だけしか反映しません。だが人間は、意識の持つ一般化して反映するという働きによって、石や砂を「食べられないもの」=「非食物」として反映します。そして、食物がそこには存在していないということを意識します。
つまり、一般化するという働きは、存在する対象を反映するだけでなく、ある対象が存在しないということの意識へと導くのです。このような存在しないものを意識する働きは、想像力とよばれており、やはり意識の持つ重要な機能であります。想像力は、それが正しく働く場合には、芸術活動の源泉となるばかりでなく、後に述べるように実践活動に欠くことの出来ない重要な働きです。
だがそれが誤った方向に働くと、空想・幻想・妄想などと呼ばれるものとなり、虚偽意識の生まれる源泉になります。

さて、「存在」と言うことばは、非常に一般的なことばです。石や動植物のような物質的なものも「存在」ですし、詩や音楽のような芸術的作品も「存在」です。さらに「希望がある」、「見通しがあるなどと語られる場合には、「希望」とか「見通し」と言うような観念的なものまでが、一般化されて「存在」と言うことばで指し示されるものの中に加えられている訳です。このように極めて一般的な「存在」と言うことばに、さらに先に述べた想像力が加わると、「全知全能の存在」=「神」と言う観念が作り出され、石や砂だけしか存在しない環境の中で「目の前にある石が神の恵みによって突然にパンに変わる」などと言う空想が生まれます。このようにして虚偽意識が作り出されるのです。

2、意識の能動的役割

前節の終わりの所では、虚偽意識を生み出すという、意識の悪い面、消極的な面について述べました。しかしこのような意識の消極的な面だけに目を奪われてはなりません。むしろより重要なことは、意識の持つ積極的な面を正しく理解し、この理解に基づいて自分の意識を能動的に活用することです。
既に何度も述べたように、感覚は一つの与えられた対象を直接的に反映することしかできません。これに反して、意識は対象を反映するだけでなく、対象と対象との、ある出来事と他の出来事との関係をを反映することができ、さらにこのような関係を一般化して反映することが出来ます。この講座の第二回目に農耕労働に従事している人々は、原始的な生産活動を続ける中で「種子を蒔く前に土地を耕した方がよい」と言う観念を持つようになる、ということを述べました。これは種子と土地との、又、植物の成長と言う出来事と土地を耕す労働と言う出来事との関係が、人間の意識に一般化された関係として反映されたものに他なりません。このような一般化された関係は「法則」と呼ばれます。

「法則」と言うことばには、二つの使い方が有ります。自然や社会そのものの中に客観的に存在している、事物と事物との、出来事と出来事との一般的な関係そのものを「法則」と呼ぶ場合が有ります(客観的法則)。
第二に、このような客観的かつ一般的関係が人間の意識に反映され(ことばや数学的な方式などで表現され)たものを「法則」と呼びます。或いは又、前者(客観的法則)を「法則性」と呼び、後者だけを「法則」と呼ぶことによって、ことばを使い分ける場合も有ります。
いずれにせよ、自然科学・社会科学で「法則」(万有引力の法則とか、価値法則など)と呼ばれているものは後者であり、それらは、自然や社会の中に客観的に存在している一般的な関係が、人間の意識に反映されたものである、と言うことを忘れてはなりません。逆に言えば、意識はこのような自然や社会の客観的法則性を反映して(これには勿論、何十万年  ――  現在の知見からすれば『何百万年』、※管理人注)  ――  にも渡る人間の実践活動と、これに基づく科学者たちの研究が必要だったのですが)、それを「法則」として表現することが出来るのであります。この講座の第五回目に、「物質の運動形態と運動法則」について述べた際に、説明なしに「法則」と言うことばを使いましたが、そこで述べたことを今述べた「法則」についての説明によって、より深く理解しなおして欲しいと思います。

さて、「法則」を捉える事が出来るということは、人間の意識の極めて大きな働きです。いわゆる産業革命の時代以来、大工場工業が成立し、産業が飛躍的な発展を遂げたのは、その時代以来自然科学が大きな発展を遂げ、多くの自然「法則」が人間の意識によって捉えられ、それが技術化されたことによるものであります。
生産取り分け工業的生産とは、そのままでは人間の生活の役に立たない対象(物質、自然によって与えられるがままの物)に働きかける(人間の労働を加える)ことによって、これを人間の生活にとって有用な姿に作り替えることに他なりません。その場合に、物と物との客観的関係が「法則」として一般的にかつ精密に捉えられていて始めて、人間はどのような労働をすることによって何をどのように変化させることが出来るかを、予め知ることが出来るのです。自然「法則」を知らないでむやみやたらに労働しても、生産活動とはなり得ないことは、明らかです。

ところで、現在われわれが特に強調しなければならないことは、社会制度をどのように変革するかということについても、社会「法則」を知っていなければならない、と言うことです。
第五回目の終わり近くで述べたように、社会的運動形態はそれに特有の社会「法則」に従っており、又、社会的運動形態は物質の一連の運動形態の発展の最も高次の段階として現れてきたものです。社会法則は、ある種の観念論者たちが主張しているように、人間が勝手に変えることのできるものでもなければ、人間が自分の頭の中で勝手に作り出したものでもありません。社会そのものの中に客観的に存在している法則性を、社会的実践(革命運動)とそれに基づく科学的研究とによって人間の意識が反映したものに他なりません。
先に生産活動が自然「法則」を知らなければ成り立たないということを述べましたが、それと同じように、革命運動も社会「法則」を知り、これに基づいて実践するのでなければ、成り立たないのであります。

マルクス主義がまた「科学的社会主義」とも呼ばれていることは、皆さんが良くご存じだと思います。マルクス主義以前の社会主義者たちは、資本主義的社会体制が不合理極まるものであり、不義と不正に満ち満ちたものであることを鋭く指摘しました。しかし彼らがこれに変わるべきものとして提案した社会主義社会体制は、彼ら自身が自分の頭の中からひねり出したものに過ぎませんでした。だから、それがどのように合理的なものであるように考えられていたとしても、それをどのようにして実現するかという手段を持たないものでした。
人間の意識が、現存する社会体制を反映するだけでなく、それに欠けているものを意識することが出来るということは、さきに述べたように、それはそれなりに意識の機能の偉大さを示すものです。しかしその場合に働く想像力が現に行われている実践から離れる場合には、それは空想に陥ってしまうのです。だからマルクス主義以前の社会主義は「空想的」社会主義でした。

マルクスとエンゲルスは、彼らのように空想に走るのではなく、現実に存在している社会関係を科学的に研究することによって、そこに行われている社会「法則」を発見するばかりでなく、現存の社会体制がどのようにして没落し新しい社会体制へと移行して行くかという社会発展の「法則」を明らかにし、このことによって、頭の中で考え出した社会制度として社会主義を説くのではなく、資本主義に代わって歴史的必然的に「法則」に従って実現されるものとしての社会主義を明らかにしました。マルクス主義の社会主義が「科学的社会主義」と呼ばれる所以はここにあります。

エンゲルスはこのことを説明して『空想から科学へ』の中で次のように述べています。

「社会主義の課題は、もはや、できるだけ完全な社会体制を完成することではなくて、これらの階級(プロレタリアートとブルジョアジー)とその対立抗争を必然的に発生させた歴史的な経済的な経過を研究し、この経過によって作り出された経済状態のうちにこの衝突を解決する手段を発見することであった」「これらの手段は、頭の中から案出され得るようなものではなくて、頭によって眼前の物質的な生産事実の中に発見されるべきものである」。

さて、既に何度も述べたように、意識は現存しているものを反映するだけでなく、現存しないもの、そこに未だ欠けているものを意識します。そしてこの欠けているものが存在することが望ましいものである限り、このいまだ存在しないものを存在するようにさせようとする願望や意志が生まれます。
この願望や意志こそが変革をもたらし、新しいものを生まれさせようとする原動力として人間を突き動かすのであり、意識の持つ能動的・積極的な役割はまさにここにあるのです。このような意識の能動的役割なしには、人間の実践行動は生まれません。しかしながら、このような積極的な願望や意志の持つ意義がいかに大きいにしても、それだけでは人間の実践活動はうまくゆかないのです。
先に述べたように「法則」を捉えているということが重要なのであって、この「法則」の知識に裏付けされて初めて、願望や意志による能動的な実践活動がその目的を達成することが出来るのです。ですから、意識の役割を考えるに当たって、私は何よりもまず意識は「法則」を捉える事が出来るということから述べ始めたのです。
このことを忘れて、社会変革の意志、より良い社会を作ろうとする願望、革命的情熱だけを強調し、このことにだけ意識の能動的役割を認めるならば、主観主義に陥る恐れが大きくなります。

最後に出てきた主観主義について、もっと詳しく話して下さい。

主観主義とは何か、どういう場合に主観主義に陥るか、ということについて十分に述べるには、まだ準備が不足しています。もっと先に行ってから再び述べることにして、ここでは今までにお話ししたっことだけからでも言えることを述べるに留めます。

主観主義とは部分的な観念論です。その本人は決して観念論が正しいなどと思っている訳ではない。逆に、唯物論を学び、これを支持し、唯物論者であろうと努力している。それにもかかわらず、幾つかの原因によって、唯物論から逸脱して、観念論に事実上陥っている(取り分け実践上で)という場合が起こる。このような意味での部分的な観念論が「主観主義」と呼ばれているものです。

「いくつかの原因によって」と言ったのは、弁証法について学んでからでないと良く理解できないような原因によって主観主義に陥る場合もあるからです。今までに述べてきたことからだけでも分かる原因について述べますと、物質と意識との関係において、常に物質が基本的なものだということが良く分かっていないか、言葉の上では分かっている積りでも、実践上ではそれと逆のことをやってしまう、と言う場合がそれです。
例えば、ある団体の構成員がどのような社会層の人々から成り立ち、どのような意識の持ち主たちであるかという事実(客観的なもの)を詳しく調査しないで、ある規定の方針(それが革命的情熱に基づくものであっても)を押しつけるというようなことは、意識(自分の考え)を物質(客観的存在)の上位に置くことであり、主観主義であります。

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