No-14 社会革命と政治革命

 

※ ここに掲載してある文章は、日本共産党発行の「月刊学習」誌に、1970年代、3年以上に渡って掲載されたものの転載です。管理人によるオリジナルでは有りません。
トップページを参照のこと。

    

 

(この章の学習ポイント)

「革命とはなにか」と言うことの基本的な事柄を学ぶのが今月の学習の重点です。
「革命」と言うことばは、今日、われわれの身の回りにあるマルクス主義以外の文献で、さまざまな意味に使われています。そのことから起こる混乱を避ける為に、先ず「革命」と言う言葉の歴史的な由来について述べました。
より重要なのは後半です。
「革命」と言う概念を厳密な社会科学的概念に仕上げる為に、マルクス主義は「社会革命」と「政治革命」とを区別し、しかもそのうえで、政治革命が社会革命のキー・ポイントで有ることを示し、両者を統一的に理解します。ここのところをハッキリ学びとって下さい。

1、「革命」と言うことばについて

今日、われわれの周りに有る新聞や雑誌やその他の文献で、「革命」と言うことばは、色々な意味に使われています。又この言葉を読んだり聞いたりする人々も、それぞれが、自分があらかじめ持っている印象と結びつけて、この言葉を理解することが多いのです。
その結果、「革命」と言えば、無条件に血生臭いものだと考えたり、甚だしい暴力行為が行われる無秩序な社会状態が出現することだと考えたりする人が少なくない訳です。
そして、革命についてのこのような正しくない理解がまだかなり広く行き渡っていると言うことが、「共産党は革命をやろうとしている党だから」と言う言い方をすることによって、反共宣伝の手段に利用されています。

確かに共産党は革命をやろうとしています。だが、その場合に、言うところの「革命」とはなにか、と言うことを正しく理解する必要が有ります。私たち自身が、革命運動の正しい路線を踏み外さないようにする為にも、共産主義・マルクス主義に対するいわれのない嫌悪感や恐怖感をまだ持っている人たちからこのような筋違いな感情を取り除いて、故意に行われている反共宣伝の影響力を断ち切る為にも、「革命とはなにか」と言うことについてのマルクス主義的な理解を正しく掴んでこれを広く人々の間に宣伝することは、非常に重要なことであります。

そこで先ず「革」と「命」と言う二つの漢字から成り立っているこの「革命」と言う言葉が、どのような意味を持っているのか、と言うことから述べましょう。
―― ―― この二つの漢字を組合わせて「革命」と言う熟語が作られたのは、非常に古い時代の中国に於いてでした。西暦紀元前の7世紀から11世紀にかけて、現在の河南省を中心とする黄河の流域地方に「殷」又は「夏」と言う国家が有ったとされており、有名な歴史の本『史記』にも述べられていますが、「夏」と言う国家が本当に有ったかどうかについては、確かなことは分かっていません。
しかし「殷」については、発掘された考古学的な証拠も有って、実在したことが確かです。『史記』によれば、禹(う)と言う人がいて、その当時大きな洪水が相続いて起こったのを13年間も掛って治水工事に努め、大いに功績が有ったと言うので、天下の諸侯が禹を支持し、初め辞退していた禹が天使の位につき、これが夏王朝の始めだと言います。
その後、禹の子孫が次々に天子になったのですが、その末に桀(けつ)と言う暴虐な王が出たので、諸侯の一人であった湯と言う人が他の諸侯と連合して兵を率いて桀を打ち、ここに夏王朝は滅びました。

そこで湯が王となって建てた国が「殷」です。
湯の子孫が次々に王となり、こうして殷王朝が続いたのですが、またその末に紂(ちゅう)と言う悪王が出ました。同じように諸侯の連合軍によって紂が打たれ、殷王朝は亡びます。
この時に諸侯の軍を結集して紂を撃ったのが、その後で周王朝を建てて「武王」と呼ばれるようになった人です。

この時代についての『史記』の記述は、どこまでを本当の歴史と考えてよいか分からないものなのですが、しかしとにかく「湯が桀を打って、殷が夏に代わり、又武王が紂を打って、周が殷に代わった」と言う歴史的事実が有った、と言うように周王朝の時代には既に考えられていました。
そして、紂を攻めて殷を滅ぼした武王の行為と、武王の子孫が代々王になっている周王朝とを正当化する為に「易姓革命」と言うことが言われたのです。ここに「姓」と言うのは、今日我々が、私の姓は「萩原」であり、現在の日本の首相の姓は「三木」である、と言う場合の「姓」と同じです。
禹以下の夏王朝の代々の王の姓は「じ(女偏に以、と言う字だが、変換できず)であり、湯以下の殷王朝の代々の姓は「子(し)であり、周王朝の代々の王の姓は「姫(き)であった、とされています。
「易姓」とは、「姓が易(かわ)る」と言う意味であり、同一の王朝が続く限り王の姓が同じであるのに、姓の違ったものが王位に就くことによって姓が変わることを言うのです。

次に「革命」とは「命が革(あらたま)る」と言う意味です。
「命」とは「天命」すなわち「天の命令」のことです。この言葉は古代中国の宗教思想と結びついています。
殷の遺跡からは亀の甲や牛の肩甲骨に文字を刻みこんだものが沢山発掘されていて、これが占いに使われたものだと言うことが知られています。
天が人間を支配しており、人間は天の命令に従わなければならない、と言うのがこの時代の中国人の宗教思想であり、天の命令を知る為にしきりに占いが行われたのです。そして地上の王が「天子」と呼ばれたのは、文字通り「天の子」と言う意味である、天子は天の命令を受けて王として国土や人民を支配しているのだ、と考えられていました。
この考えはずっと後の時代迄続き、代々の中国の王(それは秦の始皇帝以来「皇帝」と称するようになります)は、天を祭ることを重要な行事として行っています。

ところでこの天子に徳が有れば、人民がなつき従うので、天命が変わらないけれども、もしも天子に徳が無く、悪政を行うならば、天命が革り、別の、徳のある人が天の命令を受けて天子になると言う考えが生まれました。この考えを短い言葉で言い表したのが「革命」と言うことばです。
ですから「易姓革命」と言う場合の「易姓」は、王朝の交代が有って天子の姓が変わると言う事実を言い表したに過ぎませんが、「革命」の方は、天命と言う宗教的思想を拠り所にして、旧王朝の悪王を討伐して、違った姓のものが天子になると言う政治的変革を理論づけ、正当化しようとする言葉です。
このような正当化する理論を必要としたのは、紂を討伐した州の武王並びにその子孫やその政権に繋がる人々であり、従って「革命」と言うことば並びに理論は、その後長く中国の支配者層によって利用されたものであり、漢が秦に代わる場合にも、唐が隋に代わる場合にも、このような王朝の交代に当たって新王朝を建てた人やその支持者たちは「天命革る」と言って自分たちの行為を正当化したのでした。

このような意味での「革命」理論は、我が国にも既に推古朝の頃に入っていたと考えられます。そして明治時代になって、ヨーロッパ諸国の政治思想が我が国に移入されてきた時に、その中に現れる「レヴォリューション」と言う言葉に「革命」と言うこの古い古い言葉を充てるようになったのです。
「レヴォリューション」と言う言葉には勿論「天命」などと言う宗教的観念との結びつきは無いのですが、そんなことは無視して、例えば「フランス革命」と言うように、あのルイ王朝を打倒して共和制を樹立した歴史的事実を、明治時代の人は「革命」と言う言葉で表すようになったのです。そしてこのような言葉遣いが現在にまで及んでいます。

では「レヴォリューション」と言う言葉は果たして厳密に使われているでしょうか。
この言葉は「フランス革命」、「ロシア革命」と言うように、主として政治的変革を表す為に使われますが、しかし又「産業革命」と訳されている「インダストリアル・レヴォリューション」と言うような使い方も有って、この後の方の流れを引く言葉遣いとして今日でも「技術革命」などと言われています。
こうなると「「レヴォリューション」と言う言葉の意味も非常に曖昧で有って「急激な変化」と言うような漠然とした意味しか持たなくなってしまいます。しかしそれでは「革命」又は「「レヴォリューション」と言う言葉を厳密な社会科学的用語として使うことが出来なくなってしまいます。
それでは困る訳で、一般にこのように曖昧に使われている言葉に厳密な科学的規定を与えて、「革命(レヴォリューション)」と言う言葉を社会科学的用語に高めたのがマルクス主義です。

産業革命」などと言う場合には、他の言い方が無いので、我々も又止むを得ずそう言いますが、しかしその場合には「革命」と言う言葉を比喩的に使っているのだと考えるべきです。そして、このような使い方とは区別して、社会科学的用語としての「革命」とは何を意味するかと言うことを、ハッキリと理解しましょう。
次にマルクス主義によって与えられた「革命」と言う言葉の科学的に厳密な意味について述べることにします。

    

 

2、社会革命について

私たちは今までに既に、歴史についてのマルクス主義の理論である史的唯物論は、人類社会の歴史を階級闘争の歴史として捉えると言うこと、この階級闘争の基礎には、それぞれの時代の階級闘争に一定の内容を与える経済的諸関係が有ると言うこと、更に、この経済的諸関係を分析して、社会の歴史的発展を科学的に捉える要になるのが「生産関係」と言うカテゴリーであることを学んできました。
この講座の第八回に述べたように、同じ生産関係のもとでも、例えば封建的生産関係のもとでも、生産力が有る程度発展すると、封建的であると言う基本的性格は変わらないままで有っても、農業経営の形態が(例えば、家父長制的経営から小農経営へと)変化します。これも社会の発展で有るには違い有りません。
しかし、社会が飛躍的に発展するのは、生産関係そのものが変化する時であり、大局的に見るならば、人類の社会の発展は生産関係の変化・交代として捉えることが出来ます。この生産関係の変化・交代を、例えば、封建的生産関係に資本主義的生産関係が取って代わること、又、資本主義的生産関係に社会主義的生産関係が取って代わることを、「社会革命」と言うのです。
だから、先に述べたことをこの言葉を使って表現するならば、人類の社会の基本的発展は社会革命を通じて行われる、と言うことが出来る訳です。

マルクスはこのことを、更に生産力の発展と結び付けて、次のように『経済学批判』の「序文」で述べました。
「社会の物質的生産力はその発展の有る段階で、その生産力が従来その内部で働いてきた既存の生産関係と、或いは同じことの法律的表現に過ぎないが、所有関係と、矛盾するようになる。
これらの関係は、生産力の発展の為の形態からその桎梏に替わる。その時に社会革命の時代が始まる」

読めば分かるように、これは社会革命の時代がどのような条件のもとで始まるかを述べたものであって、社会革命の結果、何がどうなるかと言うことは、直接には述べられていません。
しかし、少し考えて読めば分かるように、生産関係(又は、同じことの法律的表現=所有関係)が生産力の発展にとっての桎梏になることによって「社会革命の時代」が始まると言うのですから、この社会革命によってもたらされるものは、生産関係(所有関係)の変化・交代に他ならないのです。

だが更に、生産関係が変化すると言うことはただそれだけでは済みません。この講座の第9回に述べたように、生産諸関係の総体である土台が変化すれば、それは上部構造の変化を引き起こします。だからマルクスは先に引用した文章のすぐ次に、「経済的基礎の変化とともに、巨大な上部構造の全体が、或いは徐々に、或いは急激にくつがえる」と述べているのです。
ここでなぜ「或いは徐々に、或いは急激に」と断る必要が有るかと言うことは、既に第9回に述べたことですから繰り返しません。
徐々にくつがえるものまで含めれば、相当の歴史的時間が経過することになりますが、しかしとにかく(と言うのは、社会革命と言うのは決して短期間に終わるものではなく、或る程度長い歴史的過程を経るものですが、この過程が終わった段階で考えれば)、上部構造の全体が変革される訳です。
こうして、社会革命は、上部構造の全体の変革をも意味します。 ―― ―― まとめて言えば、社会革命とは、生産関係の交代とそれに伴う上部構造の全体的変化とを言うのです。

念を押すまでも無いと思いますが、あえて注意しておくならば、生産関係の変化を伴わないような、単なる王朝の交代は、マルクス主義の科学的用語で言うとことの社会革命では有りません。単に支配者である王家の姓が変わるだけならば、それは何らの社会の発展をもたらしません。
王政から共和制への変化であっても、生産関係の変化と関わりの無いものであれば、やはりそれは社会革命では有りません。史的唯物論が社会革命をこのように限定して捉えるのは、あくまでも人類社会の歴史的発展を捉えることを重視して、社会の本当の意味での発展をもたらすものと、そうでないものとを区別しようとするからです。

3、政治革命について

さて、次に重要なことは、2で述べたような社会革命がどのようにして起こるか、と言うことです。生産力と生産関係の矛盾と言い、又土台と上部構造との矛盾と言っても、これらの矛盾が自動的に働く訳では有りません。
この講座の第10回に述べたように、これらの矛盾は階級闘争の激化として現れ、階級闘争を通じてのみ解決されて行くのです。
生産関係の変化・交代も、上部構造の全体的変化も、階級闘争を通してのみ行われます。そしてこの場合に、特に注目しなければならないのは、国家の果たす役割です。
それは、前回に国家の死滅について述べた際にエンゲルスの『空想から科学へ』のことばを引用して説明しておいたように、その時々の搾取階級(支配階級)がその搾取と支配を可能ならしめている生産関係を維持し、被搾取階級を与えられた抑圧条件(奴隷制、農奴制、賃労働制)の中に無理やりに抑えつけておく為の組織が国家だからです。
だから、生産力と生産関係の矛盾が激化し、既存の生産関係を変えて新しい生産関係を確立しようとする階級の力が強くなり、階級闘争が激化する場合に、このような生産関係の変化・交代を妨げようとしてその前に立ちふさがるのは、既存の搾取階級の手に握られている国家なのです。
こうして、社会革命の時代には国家権力の問題が特に重々しく前面に出てきます。

社会革命を遂行して、新しい生産関係とそれに照応した上部構造を作り出そうとする階級は、その激しい階級闘争において、国家権力の問題を素通りすることはできません。
国家権力が従来の搾取階級(支配階級)の手中に有る限り、この国家権力が社会革命を遂行しようとする階級の階級闘争を弾圧し、社会革命を実現させない力として働くからです。
こう言う訳で、社会革命を遂行するに当たっては、革命を遂行しようとする階級が従来の支配階級の手から国家権力を奪い取ることが出来るかどうか、と言うことが革命の成否を決定するキー・ポイントになります。階級闘争の勝利を決定する天王山になる訳です。

このようにして、社会革命を遂行すると言う歴史的課題は、従来の支配階級が握っている国家権力を、新しい生産関係を作り出そうとする階級が奪い取ることが出来るかどうかという政治闘争の課題に集約されて現れます。
だから、社会革命の実現の為の集約された課題と言う意味で、国家権力が有る階級の手から別の階級の手に移ることを、特に「政治革命」と言うのです。
レーニンが「革命と言う概念の厳密に科学的な意義においても、その実践的=政治的な意義においても、国家権力が一つの階級の手から他の階級の手に移ることが、革命の第一の主要な、基本的な標識である」(戦術に関する手紙)と言ったのは、まさに、一つには政治革命がなんであるかを規定したものであり、更にもう一つには、「主要な、基本的な標識」と言う言葉によって、政治革命が社会革命の全てでは無いが、しかしキー・ポイントである、と言うことを述べたものに他なりません。

以上に述べた意味において、政治革命が特に重視される為に、ただ「革命」と言う言葉で「政治革命」が意味されることがしばしばあります。ロシアの「十月社会主義革命」と言うような言葉遣いがそれで有って「十月」と言う時期の指定で表されているものは政治革命であり、社会革命としての社会主義革命は言うまでも無くはるかに長い時間の経過の中で行われたのです。
我々はここで、政治革命の重要性を知ると同時に、それが重要なのは社会革命のキー・ポイントをなすからだ、と言うことをハッキリ理解する必要が有ります。

同一の支配階級の支配が維持され続ける中で行われる政権担当者の交代、例えば王朝の交代、或いは君主制から共和制への移行は、政治革命では有りません。それは有る階級から別の階級への国家権力の移行ではなく、従ってまた、社会革命と政治革命とを区別し、しかもこの両者を厳密に結合して理解するのがマルクス主義によって確立された「革命」の科学的概念です。

以上は先ず基本的な事柄を明らかにする為に、問題を単純化して述べました。
社会革命をめぐっての階級闘争を基本的な二階級の闘争として述べたのがそれで、実際にはこの二階級以外の諸階級・諸階層の動向が革命の成否を左右する重要な要因になります。
又、政治革命がどのような形態で行われるかについても、今回はまだ何も述べておりません。
革命が平和的か非平和的かと言う問題は、政治革命が遂行される形態に主として関わりますが、ここでは簡単に、その形態は多様である、とだけ述べておきます。
これらの問題を更に詳しく述べることを含めて、革命の問題は次号以下に続きます。

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