No- 8 世界の認識可能性

この講座の第4回に「哲学の根本問題 ―― ―― 唯物論と観念論」という題をつけて、エンゲルスの『フォイエルバッハ論』からの引用文を掲げました。
そこでエンゲルスは、「思考と存在との関係いかん」という問題を「一切の哲学の、特に近代の哲学の、大きな根本問髄」であると述べています。
そしてここで「思考と存在との関係いかん」と言う言葉で言われていたのは、これら二つのうちのどちらが根源的であるか(元のものであるか)という問題であり、この問題にどう答えるかによって唯物論と観念論とが分かれたのでした。 このことは既に私たちが学んだことです。

ところで、エンゲルスは同じ『フォイエルバッハ諭』の中の、さきの引用文の少し後の所で次のように述べています。

「思考と存在との関係いかんという問題は、しかし、今一つ、他の側面を持っている。すなわち、われわれを取り巻いている世界についての我々の思想は、この世界そのものといかなる関係に有るのか?
我々の思考は、現実の世界を認識することが出来るか、我々には、現実の世界についての我々の表徴の中に、現実性の正しい映像を作り出す能力があるのか?
この問題は、哲学の用語では、思考と存在との同一性の問題と言われ.........ている」......と。

今回はこの問題について考えることにしましょう。

    

 

1 哲学の根本問題の第二の側面

人間は世界を認識できるや否や=不可知論批判

この問題は「思考と存在との関係いかん」という問題の「今一つの、他の側面」と言われているのですから、「哲学の根本問題の第二の側面」と呼ぶことができるでしょう。
それは簡単にいえば、人間は世界を認識できるかどうか、という問題です。
「認識する」とは、日常的なことばでいえば「知る」ことであり、哲学的に説明すれば、外界の事物や現象を意識内に反映することです。

私たちは既に、この講座の第六回と第七回とで、意識の起源や意識の役割について学んできました。そこで学んだことを思い出してみれば、意識には、感情とか願望とか想像とか意志とかいうような働き(機能)が有りましたが、それらの機能と並んで、意識の最も重要な機能の一つとしてこの「認識」という機能が有ります。

もともと意識が、無生物さえもが持っている反映すると言う機能が生物進化の過程で最高度に発展したものであることを考えるならば、人間が世界を認識できるということは、あまりにも当然なことだと考えられます。
だからこの講座を第七回まで読んだ人にとっては、今更どうしてこんな問題が改めて「哲学の根本問題の第二の側面」として問い直される必要があるのかと、不思議に思われるかも知れません。

しかし、弁証法的唯物論者にとっては当然すぎるほど当然のことでも、ある種の観念論者には疑わしいと思われることがあるのです。
実際に或る種の(すべての、ではないけれども)観念論者は、人間は世界を認識できない、とか、世界の一面(外に現われた側面)だけしか認識できない、と主張しています。こういう哲学理論を「不可知論」といいます。
ですから、今回これからお話することは、不可知論者たちの主張を紹介しながら、それに批判を加えて、われわれ弁証法的唯物論者がどういう根拠にもとづいて世界は認識できると主張しているのかを明らかにしてゆくことをめざしています。

まず、不可知論者たちが、どういうことを論拠として、世界は認識できないと主張しているのか、ということを述べましょう。
第六回に述べたように、意識はその起源からいって、そもそものはじめから社会的なものです。弁証法的唯物論は、意識が社会的なものであることを重視し、このことから出発して認識の問題を考えます。

意識は本来社会的なもの

生物が変化する環境に適応して生きて行く為には、環境を出来るだけ速やかに、かつ正確に反映しなければなりませんでした。とりわけ、樹上生活をしていたある種の類人猿(オーストラロピテクス)が、地上におりて生活しなければならなくなったとき、この新しい環境に適応して生きてゆく為には、道具を作ったり、共同作業の必要から言葉を使ったりする必要に迫られました。
このことが、意識が生まれ、かつ発展することを促したのでした。意識の機能は従って、最初から、外界の事物やその変化を反映すること、とりわけ、それを一般化して反映することにあったのです。
もしもこの反映が間違っていたならば、この種の猿は死滅してしまったことでしょう。オーストラロピテクスが死滅しないで、逆に、原始人類へと進化し、それが更に今日のわれわれのような人類へと進化してきたという事実こそが、意識が外界の事物を正しく反映する能力を持っていると言うことのなによりも有力な証拠なのです。

ある認識が正しいということは、外界の事物を反映することによって意識内に作りだされた観念が外界の事物、またはこれらの事物の性質や関係に一致しているということであり、このような場合にわれわれの観念は真理なのです。
この場合に初めて、この観念に導かれて行なうわれわれの実践は成功します(あらかじめ立てた目的を実現することができます)。
もしも意識が外界の事物を正しく反映する能力を持たず、したがって意識内に作りだされた観念と外界の事物、その性質や関係とが一致していないならば、すなわち我々の認識が誤っているならば、そのような観念(誤った認識)に導かれて行なうわれわれの実践は失敗し、めざした目的を達成することが出来ません。このようなことが度重なるならば人類は死滅してしまうでしょう。
.........このことから分かるように、認識が正しいかどうか、すなわち人間が世界を正しく認識できるかどうかという問題は、個人にのみかかわる問題ではなく、全人類的な問題であり、社会的な問題なのです。

不可知論的「意識」の取り上げ方

ところが、不可知論者たちは、問題をこのような角度から取り上げません。かれらは、意識を全く個人個人の意識としてのみとりあげ、これをあらゆる考察の出発点にします。
そうすると、前にも述べたように、ある個人(他人)がなにを意識しているかは、外から覗いて見ることができませんから、個人の意識というものは、一つ一つがまったく独立したものであり、他人の意識からも、外界からも独立したものであるかのようにみなされます。
不可知論者たらは、あらかじめこのように意識を外界から孤立したものとみなしたうえで、次のように論じます。

ヒューム型不可知論

観念は個人個人の意識のうちにだけある。だから、観念と比較できるものは観念だけである。例えば、赤いという観念と白いという観念とは、観念同士であるから比較することができ、一致しない(違っているいる)ということが分かる。
ところが、物質(または事物)は意識の外に有るものである。このように意識の外にある物質(事物)と意識のうちにある観念とは、互いに種類の違うものだから相互に比較することなどできない。唯物論者は、ある観念が外界の事物に一致している場合にその観念は真理だ、などということを主張するが、そもそも比較できないものについて、それらが一致するとか一致しないとかいうことがどうして言えるのか。

こうしたことは不可能であり、したがって唯物論者の前述の、主張は無意味である。つまり、認識とは、意識の外にある事物(外界)に一致した観念が意識のなかに作りだされること、だとするならば、このような一致について語ることはそもそも無意味なのだから、したがってまた認識するということも無意味になる。すなわち、人間は世界を認識することはできないのである。

※ 管理人註
このように主張する不可知論の代表は、イギリスの観念論者、デイヴィッド・ヒューム(1711-1776)です。

    

 

弁証法的唯物論からの認識論

およそこのような議論が「不可知論」とよばれている哲学説の主要な内容です。ではこのような議論に対して唯物論者はどのように反駁するのでしょうか。
意識のうちにある観念と意識の外にある事物とをどうやって比較することができるのか?
―― ―― このような問題を突きつけられると、なるほどそれは難しい問題だ、困ったぞ、と考えこむ人があるかも知れませんね。だがこれはなにも困った問題ではないのです。
エンゲルスは次のように明確に答えています。

「人間の行動は、人間の小ざかしさが困難を考えだすよりもずっと前に、この困難を解決していた。プディングの味は食ってみれば分かる。
これらの対象のうちにわれわれが知覚する色々な性質に応じて我われがそれらの対象を自分の役に立たせるその瞬間に、われわれは、われわれの感覚、知覚が正しいか正しくないかについて、間違いのない吟味をしているのである。
若しもこれらの知覚が間違っているならば、ある対象を一定の用途に当てることができると考えたわれわれの評価も間違っているに違いないし、従って、それを使おうとする我々の企ても失敗するに違いない。
しかし、もしもわれわれがその目的を遂げるのに成功するならば、すなわち、その対象がそれについてのわれわれの観念に一致しており、われわれがそれを役だてようと思った目的に応ずることが分かるならば、そのことは、その限りで、対象とその性質についてのわれわれの知覚がわれわれの外にある実在に一致しているということの積極的な証明である」(空想から科学へ』1892年英語版序文)

これを読めば分かるように、不可知論者の主張、かれらが唯物論者に対して投げかけてくる困雑は、まったく頭のなかだけで考えだされたものです。
だが、これに対してエンゲルスが反諭している論拠は、人間の行動、実践にあります。実践から離れて議論をひねくり回すところに、不可知論のような哲学が生まれるのです。
第七回に『ドイツ・イデオロギー』のなかの言葉を引用して解説しておいたように、「現に行われている実践の意識とはなにか別なものであるかのように」意識が自ら思い込むことから、不可知論のような虚偽意識が生まれるのです。

これに対して唯物論者は、どんな問題を考えるときにも、したがってまた、人間は世界を認識できるかどうかという「哲学の根本問題の第二の側面」を考えるにあたっても、実践の立場を離れません。
だからまたレーニンは『唯物論と経験批判論』の第二章の六「認識論における実践の基準」という節で次のように述べています。

「認識は、それが人間に依存しない客観的な真理を反映した場合だけ生物学的に有用であり、人間の実践、生命の保存、種の保存に有用であることができる。唯物論者にとっては、人間の実践の『効果』は、われわれの観念とわれわれが知覚する物の客観的本性との照応を証明するものである」

また『フォイエルバッハにかんするテーゼ』の二でマルクスは次のように述べています。

「人間の思考によって対象的真理が得られるかどうかという問題は、なんら理論の問題ではなく、一つの実践的な問題である。
実践において人間は真理を、いいかえれば自分の思考の現実性と力とを、すなわち自分の思考の此岸性を、立証しなければならない。実践から遊離されている思考が現実的であるか非現実的であるかという論争は、一個の純然たるスコラ学的な問題である」

―― ―― ここで「スコラ学的」と言っているのは、「ことばのうえだけの議論・論争」という意味です。 ヨーロッパの中世末期におこなわれたスコラ哲学では、事実から離れたことばのうえだけのわずらわしい議論が多くなされたので、それを非難する意味で「スコラ学的」ということばが使われるのです。

実践の立場に立ってものごとを考えなければならないという話の大筋はよく分かりました。
だが古典からの引用文にでてくる用語の幾つかが理解できないので、話が隅々まで納得できたとはいえません。
エンゲルスもレーニンも使っている「知覚」というのはなんのことですか。また最初のエンゲルスからの引用文にある「われわれの表徴や概念」というのはなんのことですか。

お答えしましょう。目、耳、鼻などの感覚器官を通して意識がうけとる「色」、「形」、「大きさ」、「音の高低」、「音色」、「匂い」などを、「感覚」といいます。これらの感覚が幾つか組み合わさったもので、われわれの意識内にある物体の像を作り出すようなものを「知覚」というのです。
例えば、ある形、色、大きさなどの感覚の組み合わせを視覚(目)を通して反映するとき、われわれはそこに机があるとか、本があるとか考えます。
また、ある形、色などを目で見、ある匂いを同時に鼻で嗅ぐとき、われわれはそこにウナギのかば焼きがあるとか、バラの花があるなどと考えます。このような場合に、われわれは机やバラの花を、「知覚している」のであり、このとき意識内に反映されている机やバラの花の像を「知覚」というのです。

知覚は知覚される対象が現にそこに有る場合にだけ生じます。これに反して、その対象が現に目の前に存在しなくても、われわれは机やバラの花の姿を頭のなかに(意識内に)思い浮かべることができます。
このように対象が現に存在しなくても意識内に思い浮かべられる像を「表徴」と言います。
表象には、ただ一つのもの(例えば自分の家にある一つの机)についての表徴(個別的表徴)と、同じ種類の多くのもの(例えばどんな机でもよいがとにかく机とよばれているもの)についての表象(一般的表象)とがあります。

一般的表象は個別的表徴よりもある程度ぼけて(ぼんやりして)います。というのは、個別的表象の場合は色や形が決まっていますが、例えば机を一般的に頭のなかに思いうかべる場合には、さまざまな色や形や大きさの机が有りますから、きちんと決まった像が思い浮かべられる訳にゆきません。しかしそれでも、椅子やベッドとの違いは分かる訳で、ぼけているから、といって、机の一般的表徴と椅子の一般的表徴とは、ハッキリ区別されます。
ところが「家具」を表徴しようとしても、これはもう無理です。家具屋の店頭に並んでいるさまざまなものが次々に思い浮かべられるだけで、まとまった一つの像を思い浮かべることはできません。表象にはこのような限界があります。

また、「バラライカ」という楽器の実物や写真を見たことのある人は、この楽器の像を思い浮かべることができます。 つまり、表象することができます。だが過去に一度もバラライカを知覚したことのない人は、これを表徴することができません。
しかし、「ロシア民謡の伴奏に使われる三角形の胴をもった弦楽器である」という説明を聞けば、それがどんなものであるかを理解することはできます。
この場合にその人は、バラライカの「概念」を得たのです。もちろん、机やバラの花のような表象出来るものについても、その「概念」を得ることが出来ます。

概念は言葉と結びついていて、直接に知覚と結びつく必要が必ずしもない、と言うところに、表徴と概念との違いがあります。だから概念は、「家具」、「楽器」などの概念から、更に一般化して、「物体」、「存在」などのような、はるかに一般的かつ抽象的な概念にまで及ぶことができます。
また、「国家」、「社会主義国家」などの概念を得ることもできれば、「変化」、「発展」などの抽象的慨念を得ることも出来ます。

一般に、概念がどのように形成されるかを分かり易く説明することは大変に難しいことで、ここではこれ以上たちいって説明することは許して頂きたいのですが、概念を形成するということが人間の意識に特有の機能であり、チンパンジーなどの類人猿のおこなう思考が、具体的な物によって与えられた課題(例えば背の届かない高い所につるされたバナナをどうやって取るか、と言うような課題)を与えられた場合にのみ働く具体的思考であるのに反して、人間の思考は、概念的に与えられた課題(例えば現存する社会体制をいかにして変革するか、と言うような課題)に挑むことの出来る概念的思考であること、また、概念的思考は言葉と密接に結びついており、概念的思考を行う能力を持つと言うことが人間の意識の特有性である、と言うことを強調しておきたいと思います。
このことは、前回に述べた、「一般化して反映する」、法則を認識することによって現実を変革するという能動的役割を果たすという、人間の意識の特有性と深く結びついていることを指摘しておきたいと思います。

2、認識には限界があるだろうか

さて、不可知論には、さきに述べたような徹底した不可知論(それだけに、いっそう馬鹿げた不可知論)と、緩和された不可知論(それだけに、いっそう人びとが誤魔化され、引っかかり易い不可知論)とがあります。次に、後者についてお話しましょう。

カント型不可知論

この緩和された不可知論は、カント(1724-1804)という哲学者が説き、現代にまでかなりの影響力を持っている哲学説で、エンゲルスの表現を借りるならば、「なるほど、われわれはある物の諸性質を正しく知覚するかもしれない。 だが、どんな感覚過程または精神過程によっても、物自体を把握することはできない。この『物自体』はわれわれの認識の彼方にある」という主張です。

この主張は「現象」と「物自体」とを厳格に区別して、われわれ人間が認識できるのは現象だけであり、物自体は認識できない、と主張する哲学説です。
ここで注意しなければならないことは、この学説では、現象と「物自体」とがきわめて原則的に区別されている、ということです。

人類の歴史のある時点をとってみれば、そのときまでに既に認識されたものと、その時点ではまだ認識されていなかったものとがある、ということは明らかな事実です。例えば1900年という時点を限定して考えるならば、自然についても社会についても、その時点ではまだ認識できていなかった(分かっていなかった)多くの事柄がありました。
しかし、1900年にはまだ分からなかったけれども、今日には既に分かっているということが極めて多くある、ということも、誰にとっても明らかな事実です。これは主として、科学(自然科学も社会科学も)の発展と、人類の実践(主として階級闘争、革命運動)とによって、人類の認識が発展したことを意味しています。
同様に今日の時点ではまだ分からないことが十年後、百年後にはかなり多く既に分かったこと(認識されたこと)に転化しているであろう、ということも当然に予想されることです。

未知と不可知を混同してはならない

この考え方は、人類の認識が歴史的に発展してゆくという考え(弁証法的な考え)に立って認識の問題を捉えています。
将来いつの時代になっても、まだ分からないもの(未知のもの)が残っていることは確かです。つまり、人類がすべてを知りつくして、もはや認識が発展する余地がない、というような時代にはいつになっても到達することはないであろう、と考えられます。
しかしこの考え方によれば、既知のものと未知のものとの境目は歴史の進みにしたがって動いてゆくのであり、この動きには、これ以上先には進むことができないという絶対的な限界といったものはない。そういう意味で、弁証法的唯物論は、世界は認識可能である、と主張しているのです。

ところが、さきのカントの考え方は、このように歴史的に動いてゆく境目としての限界ではなくて、絶対的に固定した限界が「現象」と「物自体」とのあいだにある、という主張なのです。この場合に、現象というのは客観的実在のわれわれ人間に向かっている面であり、これについての認識は確かに歴史的に進歩発展してゆくけれども、しかしこの現象についての認識がどんなに発展しても、「物自体」はあくまで人間にとって認識不可能なものとして残る、というのです。
しかも「物自体」こそが本当に人間の意識から独立した客観的実在であると考えられますから、この主張は、結局、人間は世界を認識することができないという不可知論だ、ということになります。
このようないわば、「緩和された」、「新型の」不可知論に対して、エンゲルスはやはり実践の立場に立つことによって次のように反駁しています。

真偽の基準としての実践

「あの人びとに限らず、他のいかなる哲学者の妄想に対しても、その最も痛烈な反駁は実践であり、すなわち実験と産業とである。
若し我々が、ある自然的事象そのものを、我々自らで作り、それを我々の目的に役立たせることによって、そうした自然的事象に関する我々の認識の正しさを証明することが出来るならば、カントが不可認識的だとする『物自体』もなくなってしまう」(『フォイエルバッハ論』)と。

―― ―― このあとでエンゲルスはアリザリンという染料のことを例にあげています。
この染料はかつてはあかね草という野生の植物の根からしか取れませんでした。ところが有機化学の発展によって、アリザリンの分子構造が分かったばかりでなく、その認識に基づいて、コールタールのような安い原料を使ってアリザリンを作ることができるようになったのです。
こうなってみれば、アリザリンという物質に、われわれに向かっている面(現象)と、アリザリン自体とでも言えるわれわれ人間には到達できない側面とがある、などという主張は無意味になってしまいます。
なぜかといえば、コールタールから作りだされたアリザリンは、あかね草の根からとったアリザリンと同じものでしょう。それを人間が作りだすことが出来るようになったのだから、それでもなお人間には到達できないアリザリン自体といったものがある、などという主張はもう成りたたなくなってしまう訳です。

カントが「物自体」と呼んでいるのは、認識不可能だと言う彼の主張を除いて考えれば、われわれが「物質」と呼んでいるものと同じです。
「物自体」が存在するということを認めている限りでは、カントは唯物論者なのです。それが「認識不可能」だという限りで、つまり科学がどんなに発達しても永久に人間には認識できないものが残るのだと主張している点で、かれは人間の認識の力に超えることのできない限界を作っています。
そうすると、その限界を超えて真理をつかむには科学的認識ではだめなので、なにか神さまみたいなものにすがらなければならない、ということになる訳です。

認識の限界を認めると、その向こうに信仰が出てくる。人間にはそのさきのことは分からないのだから、神様を信じましょう。 ―― ―― こう言う訳で、不可知論は観念論に行き着かざるを得ないのです。

今の話を聞いていると、不可知論なんてものはとっくの昔にエンゲルスによって反駁されていて、現代の我々には縁のないもののように思えるけれど、何か今でも係りがあるのですかねぇ。

大いにあるのです。身近なことでいえば、新興宗教を広める人が、信者になりなさいといって他人を説得する場合には、大抵こう言う論法を使っています。

科学のカには限界がある、だからいくら医学が進んでもあなたの病気はなおらない、信仰だけがあなたの病気をなおすことができる、だから信者におなりなさい、といった具合に持ちかける。
また、もっと大きな問題では、マルクス主義の科学的社会主義を攻撃するのに不可知論が使われています。社会の将来がどぅなるかということは科学では分からない、という主張です。
もしもそうだとすると、資本主義社会が必然的に崩壊して社会主義社会に移行するというマルクス主義の社会科学の根本主張がなりたたないことになってしまいます。
社会のことは、一寸先は闇だ、ということになってしまいます。そうなると、社会を変革しょうとする実践はなんの導きもないことになり、一方には修正資本主義のようなものが出てくるし、他方には自分の意志でなにもかも決めようとする「連合赤軍」派のようなものがでてくることになります。

不可知論はきわめて危検な反動思想なのです。

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://y-ok.com/mt-tb.cgi/9

コメントする

ウェブページ