No-19 悟性と理性

この講座の第16回に、人間の認識能力を区別する場合に、まずこれを感性と理性とに区別するが、このように感性に対して「理性」という場合には、「理性」という言葉が広い意味に使われているのであって、更にこの(広い意味の)理性を、悟性と(せまい意味の)理性とに区別する、ということを述べました。
更に、イヌが自分の飼い主とそれ以外の人間とを区別する場合とか、白ギツネが鉄砲じかけのしてある肉をうまく取る場合とかの例をあげて、動物でも単に感性的段階の認識だけに留まらない場合があることを述べ、しかしこれは悟性的能力であって理性的能力ではない、せまい意味での理性的能力は人間だけにある、ということを述べました。では、悟性的能力と理性的能力とはどう違うのでしょうか。今回はそのことを中心にして述べましょう。

1 悟性のはたらき、(1)分析と総合

まず「悟性」という言葉について一言しておきます。
これは明治時代の人が外国語を翻訳する為につくった言葉で、いやな言葉です。というのは「悟」という字は「さとる」と読みますが、「さとる」というとなにか宗教的な匂いがします。
しかし「悟性」という言葉は宗教とはまったく関係がないばかりか、「さとる」という意味にも関係がないのです。
だから「悟性」という言葉はその文字づらからして、非常に誤解を与えやすい嫌な言葉なのです。
英語では「アンダースタンデイング」と言うのですが、「アンダースタンド」とは「理解する」という意味ですから「理解能力」とか、せめて「解性」とでも翻訳しておいてくれたら良かったのに、と私は思うのです。
だが、言葉は社会的なものですから、百年近くも使われてきたものを私が勝手に変えることはできません。「悟性」という言葉を使いながら、その意味を誤解されないように説明してゆくほかありません。

「悟性」とは、まず、分析したり総合したりする能力です。

分析

時計や自転車のようなものを、歯車とか心棒とかの部分に分けることを「分解する」と言います。
分解できるのは、そのものが、独立して存在できる部分から成りたっている場合に限られます。 歯車や心棒は、それだけで独立して存在することができますから、時計は分解することができます。
だが、例えばリンゴからその皮の赤い色とか、実の甘ずっぱい味とかを分解することはできません。 色や味はそれだけで独立して存在することができませんから、リンゴを色や味に分解することはできないのです。 しかしそれらを分析することはできます。
「分析する」とは(化学で化合物を「分析する」という場合の「分析」はここで言っている「分析」とは意味が違いますから、今はそのような場合は考えないことにして下さい)、頭のなかで要素に分けて考えることです。

時計のように部分に分けられるもの(分解できるもの)を、実際に分解するのではなく、ただ頭の中だけであの部分この部分というように分けて考える場合も「分析する」といいますが、更に、実際には分解できないものを、例えばリンゴの色とか味とかを頭のなかで分けて考えるのも「分析する」と言います。
われわれが例えば「あのリンゴは色は良かったけれど味が悪かった」などと考える場合に、われわれはこのような「分析」を実際にやっているのです。

総合

次に「総合する」というのは、分析によって要素に分けられたものを、再び結びつけて考えることです。
例えば、国際情勢について考える場合に、社会主義陣営の諸国は、また資本主義陣営の諸国は、とか、アフリカの新興独立諸国は、アラブ諸国は、中南米の諸国は、とかいうように、分けて次々に考えてゆく場合に、われわれは国際情勢を分析しているのです。
それらの分析の結果をまとめて、いま国際情勢は戦争の方向に向っているか、それとも平和の方向に向っているかとか、社会主義陣営にとって有利な方向に向っているかそれとも不利な方向に向っているか、などと考える場合には、われわれは総合をやっているのです。

分析と総合

もっと簡単な場合を例にとりましょう。碁石を8個と5個並べておいて、そばに残りの碁石を積んでおき、幼稚園児ぐらいの子供に、「これを両方おなじ数にしてごらん」と言います。
8個の方から3個とっても、残りの碁石から3個とってそれを5個の方につけ加えても良い訳です。前の解決に達するには、子供は両方を比較しながら、8個の方を頭のなかで二組にわけて考え、5個と3個に分けた場合に、二組のうちの片方が、与えられている別の碁石の列と同じ数になることを見いだせば良い訳です。
これは分析による解決で、この分析ができれば、子供は8個の方から3個取るでしょう。

後の解決に達するには、5個の列に頭のなかで1個ずつつ付け加えて考えながら別の列と比較し、3個付け加えて考えた場合に、両方が同じ数になることを見いだせば良い訳です。
これは総合による解決で、この総合ができれば、子供は残りの碁石から3個とってこれを5個の列に付け加えるでしょう。
実際に何人もの子供にこのことをやらせてみると、ほとんど全ての子供が8個の方から3個取るそうです。つまり、総合するよりも分析する方が易しい、ということをしめしていると言えるでしょう。

もっと複雑な問題になると、総合を予想した分析がおこなわれます。
複雑に円や直線が入りくんだ図形についてあることを証明せよという数学の問題を解くような場合には、既に学んで知っているいくつもの定理を頭のなかに思い浮かべて、どの定理が使えるかなと考えながら、与えられた図形を分析する訳です。
ある点からある直線に平行緯を引くとか、ある角の二等分線を引くなどという補助作図に思いつくのは、そのような補助作図をした場合には、これこれの定理が与えられた図形のこの部分に対して使える、という見通しをもった場合のことで、これは総合を予想した分析ができたということに他なりません。

2、悟性のはたらき、(2)演繹と帰納

悟性というのは、なによりもまず、いま述べたようなさまざまな場合に分析や総合をおこなうことのできる能力です。
―― ―― 更にまた、悟性は推理する能力でもあります。推理とは、既にあることが分かっている場合に、それに基づいて(この既に分かっていることを「前提」といいますが、この前提から)、まだ分かっていなかった新しい知識(これを「結論」といいます)を引きだすことです。

演繹

推理には、演繹と帰納との二種類があります。まず演繹について述べましょう。
例えば「全ての金属は電導体である」ということが既に分かっているとします。
Mと仮に呼ばれている新しい合金が造られました。合金ですから「Mは金属である」ということが分かります。この「 」で括った二つの判断(これが前提です)から、「Mは電導体である」という結論を引きだすことができます。

Mは造られたばかりの合金で、Mの針金を使ってこれに電流が流れるかどうかという実験をまだ誰もやってみたことがなくても、さきに述べた二つの前提があれば、この結論を誤りなく引きだすことができるのです。
そしてこの例のように、「全ての金属」について、それが「電導体である」ということが分かっている、すなわち一般的な事柄についての知識が既にある場合に、Mと呼ばれる新しい合金と言うような特殊的なものについての知識を引き出す場合に、そういう形の推理を「演繹」と言うのです。

※ 管理人註
名前は覚えていませんが、「電導体で無い金属」と言うのも有る、と言うか作られているのだそうです。ただこういう場合、そもそも「金属とはなにか」と言う、金属の定義との関係性が問題になってくるかもしれませんね。

全ての国で資本主義的生産関係は必ず行き詰まり、崩壊し、社会主義的生産関係によってとって代わられる、ということが既に分かっていれば、このことを前提としてそこから、日本でも資本主義的生産関係必ず行き詰まり、崩壊し、社会主義的生産関係によってとって代わられる、と結論することができます。 これは演繹のもう一つの例 です。

帰納

だが、演繹の前提となっている一般的な知識、例えば前の例でいえば「全ての金属は電導体である」ということは、どうして分かったのでしょうか。今日ならばそれは理科の教科書に書いてある訳ですが、それを最初に知った人たちはどうして知ったのでしょうか。
まず最初に行われたことは、銅、鉄、銀などの針金に電流を通じるという実験を次々にやって、「銅は電導体である」、「鉄は電導体である」等々の知識を蓄えてゆくことでした。
こうしてそれぞれの金属について、それらが電導体であることが確かめられたのちに始めて、そのような特殊的な知識をひとまとめにして、「全ての金属は電導体である」という一般的な知識がえられます。このように特殊的な知識から一般的な知識を引きだす場合に、そう言う形の推理を「帰納」と言います。

蓋然的帰納

このように整理して述べると、演繹と帰納は、「一般から特殊へ」と「特殊から一般へ」というように正反対の方向をとるものだということだけが印象づけられますが、実際には人類の知識の発展過程でこの二つは結びついて働きます。
例えば、5、6種類の金属について実験した結果、それらがいずれも電導体であることが分かったとすると、まだ全ての金属を調べつくした訳ではなくても、その段階で既に「大方、全ての金属は電導体であろう」という予想が生まれるでしょう。これは完全な帰納ではありませんが、一種の帰納であって「蓋然的帰納」と呼ばれるものです。

そうなると、例えば第7番目、第8番目の金属について実験する場合には、これらも電導体であろうという予想的な結論をもちながら実験することになります。
この場合には既に前述のような「大方.........である」という正確とは言えない前提にもとづいてではあるが、演繹がおこなわれているのです。
実験の結果が予想どおりであれば、その結果を加えて蓋然的帰納がおこなわれることにより、「大方.........である」という知識の蓋然性(確からしさ)が増大します。
このようにして帰納と演繹とが互いに助けあいながらくり返して用いられることによって、人間の知識は次第に確実な一般的知識へと近づいて行く訳です。

なお二つのことを付け加えておきたいと思います。
例えば有る地域の海が汚染されているのではないかと言う疑いが有る場合に、その地域でとれた魚が有毒物質を含むかどうかを調べたとします。
こう言う場合には、その地域で獲れた魚の全てを調べつくすことは事実上出来ないので、多くの魚の中から幾つかを抜き取って調べることになります。又調べた全ての魚から有毒物質が発見されるのでは無くて、その中の幾つかは有毒物質を含むが、他の幾つかは含まない、と言うことが起こり得ます。
このような場合には、単純な帰納によってこれこれの海域の魚は有毒である、とは言い切れません。
しかし今日では統計数学が発達していて、調査された魚(これを「見本」とか「サンプル」とか言います)を抜き取った場合の条件とか、有毒物質を含む魚と含まぬ魚の割合とかを数量化して、結論を統計的な用語を使って表すことが出来ます。
このような統計的な認識方法は、帰納法のより発達した現代的な形態だと言えます。

帰納によらない推理・命題

もう一つ、これも重要なことですが、今日では「全ての金属は電導体である」と言うことは帰納だけによって保障されているのでは有りません。例えば、水素の分子は、二つの水素原子が結びついて出来ていますが、この場合には二つの陽子(水素の原子核)が二つの電子を共有する形で結合されていて、この電子は二つの陽子から遠く離れて勝手に動き回ることが出来ません。
ところが金属の塊の中では、非常に多数の原子がその中に含まれている訳ですが、これらの原子に属するこれまた極めて多数の電子の中に、或る原子核に強く結び付いているのではなくて、多数の原子核の間を自由に動き回る電子が有るのです。
金属が電導体であると言うことは、このような自由に動ける電子を含むと言うことの結果なのです。
このようにして今日では、「全ての金属は電導体である」と言う一般的知識は、物質の原子=分子構造についてのより深い科学的認識によって保障されています。

理性による命題

もう一つの例。
「全ての国で資本主義的生産関係は必ず行き詰まり、崩壊し、社会主義的生産関係によって、取って代わられる」と言う一般的知識の場合内には、これはもう最初から帰納によって得られたものでは有りません。
何しろマルクスがこのことを明らかにしたのは、そのような事例が実際に一つでも起こるよりも前のことだったのですから。
これは最初から資本主義的生産関係を社会科学的に研究し、その中に含まれている矛盾を発見し、この矛盾を追及することによって見いだされた結論です。そしてこのような研究を行うには、悟性だけでなく理性の働きが必要なのです。

悟性の働きは非常に重要なものです。この講座の第16回に具体的思考と抽象的思考(又は概念的思考)との区別について述べましたが、悟性はそのどちらの場合にも働きます。
そこで実例を挙げて述べたように、ある種の動物は具体的思考を行うので、その場合には悟性が働いており、その限りでは悟性は人間とそれらの動物とに共通の能力です。
しかし人間の悟性は抽象的・概念的思考の能力でも有る訳ですから、この点では、人間の悟性はサルやイヌの悟性よりも一層高い能力です。

3、悟性と概念

悟性と概念との関係は重要です。悟性は前述のように分析し総合する能力であり、更に本質的徴表と非本質的徴表とを区別する能力です。従って人間の悟性は概念を形成することのできる能力です。
だが、悟性は、自分の建てた区別に固執する能力です。このことは一面では重要なことであって、区別をしてもその区別に固執しないで曖昧にしてしまうならば、いわゆるミソもクソも同じにしてしまうような議論に陥る危険が有ります。
概念を形成し、形成された概念を互いにハッキリ区別することなしには、概念的思考は行えません。その限りでは、悟性の働きは人間の思考の基本になる能力であり、その重要性を強調しなければなりません。

―― ―― しかし、もう一つの面が有ります。
前回に「力」と言う概念を例にして、日常的概念としての「力」が科学的概念としての「力」と転化することを述べました。
このような場合に働く能力はもはや悟性では有りません。悟性は一度作られた概念に固執して、それを変化させないで維持する能力です。
科学的概念としての「力」が形成されれば、悟性はやはりこの概念を固定し、そして日常的概念としての「力」と科学的概念としての「力」とを区別し、この区別に固執します。
これを区別することも必要であり、その限りで悟性はこの場合にも一定の役割を果たしているのですが、しかしこの場合により重要なことは、既に形成されている日常的概念としての「力」から、どのようにして科学的概念としての「力」へと移るか、更に科学の発展に適応して一度形成された概念を更につくり変え、発展させて行くか、と言うことです。

このような、一度形成された概念を壊して新しい概念へと再形成すると言う能力は悟性には有りません。ここに悟性の限界が有ります。そして、このような悟性の限界を超えた能力を持つのが(せまい意味での)理性です。

4、理性的能力について

理性的能力の特徴を、前回の述べるページ数の足りなかった科学的概念の発展の問題と結び付けて説明しましょう。

話を具体的に進める為に「光線」と言う概念を例にとります。
暗室の中に小さな穴から光を導きいれると、細い光の線を見ることが出来ます。それは一直線を描いて進みますし、その進路に小さな障害物を置けば、光はそこで遮られてそれ以上に進むことが出来ません。
このような事実から、光は(例えば空気と言うような)同じ媒質の中では直線的に進むと考えられ、「光線」と言う概念が作られました。
そして全ての光は、太陽の光でも、電灯などによって人工的に作られた光でも、多数の光線から成り立っていると考えられてきました。

光線の進む経路を研究する科学は「幾何光学」と呼ばれます。光線が平面鏡で反射する場合に、入射角と反射角が等しいと言う反射の法則、光線が例えば空気から水へと言うように異なった媒質に入る場合に媒質と媒質との界面で屈折する場合の屈折の法則が明らかにされ、これらの法則によってレンズや凹面鏡等に平行光線が当たる場合に起こる現象が解明され、その応用として望遠鏡等の光学機器が作られました。
そこまでは幾何光学の成功で有り、「光線」と言う概念は安泰でした。

ところが17世紀になって、狭いスリット(隙間)から暗室に光を導きいれ、スリットに平行に髪の毛を置くと、その影は明暗の縞状になる(「回折」と呼ばれる)と言う現象や、雲母の薄片のようなものがキラキラと様々な色に見える(「干渉」と呼ばれる)と言う現象が見つかり、これらの現象は幾何光学では説明がつかない、そもそも幾何光学の基礎になっている「光線」と言う概念(一様な媒質の中で光は文字通り直線に沿って進む光の線で有ると言う概念)では説明がつかない、と言うことが明らかになりました。
オランダの物理学者ホイヘンスは、光が波動であると考えれば回折や干渉の現象がうまく説明出来ると言うので、波動説を唱えました。

光は波動であると考えることによって、反射の法則や回折の法則も説明出来たのです。しかし、最初に述べた光の直進と言う一番簡単なことが波動説では説明できませんでした。
と言うのは、池の水面に生じる波を見れば分かるように、波はその進む経路に、例えば岩のような障害物が有っても、その後ろ側にまで入り込んで行くのに、光は障害物の後ろ側に入り込むことが出来ず、境目のハッキリした影が出来るので、その限りでは光は波のようにではなく、まさに直線的に進むと考えざるを得なかったからです。そしてこの限りでは、光の波動説はまだ成功したとは言えませんでした。

しかしヤングやフレネルが、光の波長が非常に短いと言うことを利用して、複雑な計算を行った結果、光は波のように進むのだけれども、直線的な道から少し外れて進む波は、波の山と谷とが重なり合って打ち消しあい、結局、直線に非常に近いところを進む波だけが効果を生じるのだ、と言うことを明らかにしたことによって、波動説が正しいことが確立されました。

―― ―― この場合に重要なことは、波動説によって幾何光学的な意味での「光線」と言う概念が一度否定され、光は波のように進むものだと認められながら、しかも前述の理由によってあたかも直進するかのような効果を表すことが明らかにされ、障害物の裏側にまで入り込むと言う波の性質が否定されて、つまり「否定の否定」が行われて、波動光学的な意味での「光線」の概念へと再形成された、と言うことです。
又、「直線に沿って進む」、「波のように進む」と言う対立した見解が統一されて、「波のように進みながら直線に沿って進むと言い表せるような効果を生じる」と言うことが分かったことです。
つまり光学の発展過程で、科学的思考が「対立物の統一」、「否定の否定」と言う弁証法の法則に従って進み、「光線」と言う科学的概念が一度壊されて新しい概念へと再形成された、と言うことです。

さて、以上は比較的分かり易いと思う実例について述べたのですが、幾何光学から波動光学へと言うように、有る科学が一つの飛躍的発展を遂げる場合には、一般に古い段階での重要な科学的概念がそのままでは維持できなくなり、概念の再形成が必要とされると言うことが起こります。
このようなことをなし得る能力は、前述のようにもはや悟性では有り得ず、それがまさに(せまい意味での)理性なのです。そして今述べたことからも分かるように、それは弁証法的な思考の能力なのです。
マルクスがイギリスの古典経済学の成果(取り分け労働価値説)を受け継ぎながら、これをマルクス主義経済学へと改作し発展させた場合にも、より豊富な弁証法的思考・理性的能力の具体的実例を見ることが出来るのです。

管理人註
現代物理学の二本柱は「相対性理論」と「量子論」ですが、そのどちらも発想の発端は「光」についての問題意識からです。
アインシュタインの「特殊相対性理論」は光の速さ=光速度に関しての考察ですし、量子論の発端はプランクによる、溶鉱炉内の温度と光の色との関係に関しての考察です。 光はまさに現代物理学の、いや物質理解のコア概念です。
アインシュタインのノーベル賞受賞の対象となった「光量子仮説」は、文字通り上記「光」に関する、粒子説、波動説の決定的論文と言っていいでしょう。
光(電磁波)は粒子か波か  こちらも参照のこと

悟性だの理性だのと言う区別はカントやヘーゲルのような観念論哲学者のやることだと思っていましたが、弁証法的唯物論でもそんな区別が必要なのですか。

悟性と理性との区別をし始めたのは確かに観念論哲学者たちです。エンゲルスは次のように述べています。
「悟性と理性。ヘーゲルのこの区別は、弁証法的思考だけを理性的であるとすることによって、或る意味を持っている。 悟性活動の全ては.........我々と動物とで共通である。.........ただその度合い(それぞれの方法の発展の)と言うことでだけ、相違が有るに過ぎない。.........これに反して弁証法的思考は ―― ―― まさにそれが概念そのものの本性の研究を前提としているが故に ―― ―― 人間にだけ可能である。そして人間にとっても、それは比較的高い発展段階(仏教徒とギリシャ人たち)で初めて可能となり、又更にずっと後に近代哲学によってその十分な発展を見るのである」(『自然弁証法』)。

―― ―― エンゲルスがここで言っているように、理性を弁証法的思考の能力として捉え、これを悟性から区別すること(悟性の意義を無視したり、過小評価したりすることを意味しない)は、マルクス主義哲学にとっても重要なことだと考えます。

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