No-10 土台と上部構造における階級闘争

 

※ ここに掲載してある文章は、日本共産党発行の「月刊学習」誌に、1970年代、3年以上に渡って掲載されたものの転載です。管理人によるオリジナルでは有りません。
トップページを参照のこと。

    

 

(この章の学習ポイント)

前章に引き続いて、「土台」と「上部構造」の相互関係について学習します。
先ず、「土台が究極において上部構造を規定する」と言う場合の「究極において」と言うことの意味を、エンゲルスの手紙をテキストにして理解することに努めます。
次に、徳川時代及び明治初年における日本の社会で政治的上部構造が果たした役割を調べてみることによって、上部構造の土台に対する反作用が多様な形態をとるものであり、階級闘争を通じて行われるものであることを学びます。
最後に上部構造における階級闘争、すなわち、政治闘争、イデオロギー闘争の重要性を理解し、史的唯物論の理解に階級闘争の観点を堅持することに努めます。

1、土台の上部構造への反作用

前回には、「土台」及び「上部構造」と言うカテゴリーが何を意味するかを述べたのちに、土台が究極において上部構造を規定している、と言うことを述べました。
この「究極において」と言うのがどういうことであるかを、具体的に理解することが大切です。今回も引き続いてそのことについて述べましょう。

若しも、この「究極において」と言うことを無視してしまって、土台が上部構造を決定する唯一の要因である、と主張するとしますと、それは「経済的決定論」又は「経済的一元論」と呼ばれる、誤った理論になります。
このような主張は、土台すなわち社会の経済的構造が人類の歴史の全体を隅から隅まで全部決めてしまう、と言うことを主張することになるので、「経済的決定論」と呼ばれる訳です。
又それは、社会の経済的構造だけが、人類の歴史を決定する、すなわち一元的に人類の歴史を決めてしまう、と主張する訳ですから、「経済的一元論」と呼ばれるのです。
若しもこのような主張が正しいとするならば、人類の社会を発展させる為には経済的諸関係だけを改善し発展させれば良い、そうすればその他全てのことは自ずからに改善され、発展させられる、と言うことになります。

若しもそうだとすれば、社会を変革し発展させようとしている進歩的革命勢力は、経済的諸関係の変革・発展の為にだけ活動すれば良く、政治活動も、思想や芸術の分野で行われる闘争、すなわち一切のイデオロギー闘争も不必要だと言うことになります。
これは大変に馬鹿げた結論であって、もしもそんな理論に導かれて社会変革の運動をするとしたら、そのような理論に導かれて社会変革の運動をするとしたら、そのような運動が成功しないことは言うまでも有りません。

このことをエンゲルスは、1890年9月21-22日のブロッホに宛てた手紙の中で次のように述べています。
―― ―― 「唯物史観によれば、歴史における究極の規定的要因は現実の生命の生産と再生産とである。それ以上のことは、マルクスも私もかって主張したことが無い。もし今誰かがこれを、経済的要因が唯一の規定的要因である、と言う風に捻じ曲げるとすれば、それは先の命題を無意味な、抽象的な、馬鹿げた空文句に替えてしまうことになる」。

経済的要因が唯一の規定的要因ではないと言うことは、政治的要因も文化的要因も、人類の歴史の発展又は停滞又は交代に大いにあずかって力が有る、と言うことです。
だがしかし、そうでは有っても、経済的要因と、政治的・文化的などの諸要因とが、人類の歴史の発展に同じように、つまり等しい重みを持って寄与している、と言うことでは有りません。もしそうだとすれば、土台と上部構造を区別したことが無意味になってしまいます。
この講座の第八回に説明したこと、すなわち、生産力と生産関係との矛盾が生産の発展の原動力であり、ひいては、人類社会の発展の原動力であるということは、あくまでも正しいのです。

土台はあくまでも土台であり、土台が上部構造を規定するのです。だがしかし、上部構造は、土台によって規定されながら、一方的に土台によって規定されるだけでは無くて、逆に、上部構造が土台に反作用を及ぼすのであり、この反作用を無視してはいけない、と言うことを言っているのが、経済的要因が唯一の規定的要因ではない、と言うことの意味です。

このことをエンゲルスは、1894年1月25日のシュタルケンブルクに宛てた手紙で次のように述べています。
―― ―― 「政治的・法的・哲学的・宗教的・文学的・芸術的等々の発展は、経済的発展に基づいている。しかし、これらの発展はみな、相互にも、経済的土台に対しても、反作用を及ぼす。経済状態が原因で、それだけが能動的で、他のものはみな受動的な結果に過ぎないと言うのではない。究極的において常に自己を貫徹する経済的必然性の基礎の上に交互作用が行われるのである。.........あちこちで安易なやり方でそう考えたがっているように、経済状態が自動的に作用するのではなく、人間が自分で歴史を作るのだが、ただ彼らを制約している既存の環境の中で、有り合わせのものとして見いだされる事実的諸関係に基づいて、それを作るのである。そして、この事実的諸関係のうちでは、経済関係が、例えどれほど他の政治的及びイデオロギー的諸関係の影響を受けようとも、究極において決定的な関係で有って、全体を貫く赤い糸になっており、この糸を辿ることによってのみ万事を理解できるのである」。

この手紙の文章の中で、エンゲルスが、「経済状態が自動的に作用する」と言う考え方をただ間違っていると言っているだけでなく、「安易なやり方でそう考えたがっている」と言っていることに特に注意を払いたいと思います。

この考え方が何故安易なのでしょうか。それは、このような考え方をするならば、上部構造における階級闘争を忘れてしまうことになるからです。
上部構造における階級闘争に自ら参加しようとしないで、「経済が発展すれば社会が発展するさ」と言った傍観者的な態度をとり、それでいて社会の発展を期待だけはしていると言うことになるので、エンゲルスはこのような態度を「安易な」と批判したのです。

    

 

2、上部構造の役割

そもそも、上部構造は社会においてどのような役割を果たしているのでしょうか。一つ具体的に考えてみましょう。
徳川幕府が日本を支配していた時代には、江戸には南と北の二つの町奉行所が有り、そのもとに与力・同心などの役人がいて、町人(当時の被支配階級)の犯す犯罪を取り締まっていました。伝馬町などに牢屋が有り、同心やその手下である岡っ引きが捉えてきた犯人や容疑者がここに入れられ、奉行所のお白州で裁判が行われ、死罪や遠島の判決が下されると、鈴ヶ森(現在の大井の近く)で死刑にしたり、八丈島などへ島流しにしたりしました。幕府の直接の支配下にあった江戸以外での、諸国大名が支配していた地域でも、大体似たようなやり方で犯罪の取り締まりが行われていたのです。
このような犯罪者に対する取り締まりの機関は、幕藩体制のもとでの上部構造の一部分に過ぎませんが、しかし先ずこれについて、このような機関は何の為に存在し、どういう役割を果たしていたのかを考えてみましょう。

犯罪者の取り締まりは、社会秩序を維持する為に行われるものと、普通に言われています。だがこの場合に、その維持の目的とされている「社会秩序」とは何でしょうか。
徳川時代には、将軍や大名に対して無礼を働くことが最も重大な犯罪として厳罰に処せられたこと、また、幕府の政治を批判することが「天下の御政道」を非議するものとして犯罪とみなされたこと、などから見て明らかなように、幕藩体制のもとでの政治的上部構造の中心である、将軍を頂点とする当時の政治組織こそが、守られるべき「社会秩序」の最も重要なものでした。だが又それと同時に、幕藩体制の経済的土台をなしていた封建的生産関係を維持することが、いわゆる「社会秩序」の維持の具体的内容をなしていました。
農民一揆がいかに残酷に弾圧されたかを見れば、このことは明瞭です。つまり、先にあげた奉行所等々の機関(今日の言葉で言えば、司法警察機関)の役割は、政治的上部構造と土台との両者を維持し強化することに有るのです。

明治維新以後に目を向けてみましょう。徳川将軍を頂点とする幕藩体制は、ずっと以前から既に成立していた封建的生産関係を土台として、その上にそびえ立った政治的上部構造でした。この上部構造が、明治維新によって崩壊し、明治政府と言う新しい政治的上部構造にとって代わられたのです。この新しい中央集権的政府の経済的土台は何だったでしょうか。資本主義的生産関係である、と言えるならば話は簡単ですが、そうではないので、やや詳しく吟味する必要が有ります。
我が国では、織豊時代の境の商人や、徳川時代の江戸・大坂・京の三都の商人のように、商業資本家はかなり早くから相当の勢力を持っていましたが、産業資本の発展が弱く、明治維新の当時には未だ資本主義的生産関係は殆ど成立していませんでした。
しかし他面、封建的生産関係の矛盾は極めて激化しており、封建的支配者層である大土地所有者(将軍、諸国大名)の力は、農民一揆に揺さぶられ、経済的破綻によって大商人から借金しなければやってゆけない状態になっており、相対的に低下していました。

諸外国の軍艦が「通商を求める」と言う理由を掲げて近海に現れるようになってからは、武装集団としても又極めて無力であることを彼らは暴露しました。
そしてその半面、被支配者層の自主性・自発性は高まってきていました。かっては厳しく抑えられていた「天下の御政道」に対する批判が公公然と行われるようになり、幕府にはそれを抑える力は既になく、騒然たる世情が作り出されていたのです。こうした情勢の中で行われた明治維新は、外面的に見るならば、幕府及び諸藩の間の分裂・対立による争いであり、下級武士を運動の主体とする政変で有ったように見えます。
しかし、慶応四年に新政府軍が東征するに当たって、今年の年貢は半減・昨年未納のものも同様と言う宣伝を行って民心を引きつけなければならなかったことにも見られるように、根本には旧来の支配者層に対する被支配者層の不満の高まりが有り、封建的生産関係を従来のままの形で維持してゆくことが出来ない事態に立ち至っており、このことが明治維新を成功させた深部の力で有ったのです。

けれども、明治維新によって新しく成立した政治的上部構造の指導者たちは、農民にその基盤を持つ革命的民主主義者では決してなかったので、前記の年貢半減の約束もいち早く取り消してしまいますし、明治2年中に起こった42件(記録されているだけでも)の農民一揆を、新政府は武力で弾圧してしまいます。
しかし又、前述のように、封建的生産関係を従来のままの形で維持してゆくことはできなくなっていたのですから、新政府の道は、徳川幕府が行ってきた人民支配の体制をそのまま続けて行くことでも有り得ませんでした。こうして新政府の進むべき道は、一方では、明治4年7月の廃藩置県、明治5年2月の田畑永代売買の自由の承認と言うやり方で、封建的生産関係を新しく「地主 ―― 小作人」関係として再編成し、他方では「政商」と呼ばれる大商業資本家の保護・育成と言う形をとって資本主義的生産関係を急速に形成し発展させる、と言う道でした。

すなわち、要約して述べるならば、明治維新によって成立した新しい政治的上部構造は、その成立の当初においては、未だ自己の依って立つべき経済的土台を持っていなかったのであり、その成立以後に、自らの力で、その経済的土台を作りだしてゆかなければならなかったのです。
―― ―― このように述べると、土台と上部構造との基本的な相互関係から言って、未だその上に立つべき土台が無いのに政治的上部構造が出来たと言うのはおかしいではないか、と言う疑問が起こるでしょう。
しかし前述のように、封建的生産関係の矛盾が極度に高まっておりながら、しかも資本主義的生産関係を形成することによってこの矛盾を解決すると言う道が、幕藩体制と言う古い上部構造によって妨げられていたと言うような情勢のもとでは、先ずこの古い政治的上部構造が取り除かれる必要が有るのであり、そのことによって始めて資本主義的生産関係を形成するのに有利な条件が作り出されたのであって、このような場合には、政治的上部構造の成立が土台の形成に先行すると言うことが有り得るのです。

尤も、明治維新によって成立した新政府の役割が資本主義的生産関係の形成・発展であると言うことが、その当初から新政府の指導者たちによって認識されていた訳では決してありません。
従来の支配体制のままではやってゆけない、と言う認識は彼らに有った訳で、何らかの変革が必要だと言う自覚から「御一新」と言うことが言われたのでしょうが、その「御一新」の内容がなんであるかは、事態が進行してゆく中で決定されていったのであって、その当然の結果として、事態の進行について行けない落伍者(例えば西郷)も指導者層の中から現れたのでした。

明治政府の進むべき道を最も早く認識し、かつそれを強力に推進したのは大久保利通だったと言えるでしょう。この場合に、彼が明治4年11月-6年5月の外国視察旅行から帰っていち早く手をつけた仕事が、内務卿となって我が国の警察制度を全国的に確立することで有ったのは、注目すべきことだと思います。
農民大衆に経済的負担をしわ寄せしながら、これに犠牲を強いることによって、「殖産興業」の名のもとに急速に資本主義的生産関係を形成・発展させようとする彼にとっては、欧米の諸国家の制度から学ぶ目着物は、立憲体制でも議会制度でも無くて、警察制度だったのです。

このことは何を意味するでしょうか。幕藩体制のもとでとは、維持すべき「社会秩序」の内容が変化したので、その手段としての司法警察機関も変化させざるを得なかったのです。
実際に、彼が遂行しようとした資本主義育成の道は、農民大衆の反抗を生むことなしには進められないものであり、従ってまた、これに対する弾圧機関無しには進められないものでした。
内務省の職制が交付されたのは明法7年1月ですが、明治8-9年には地租改正に反対する農民の闘争が各地で起こっています。中でも有名なのは、9年11月に三重県飯南郡魚見村(現在、松坂市内)で始まり、たちまち愛知・岐阜・大坂・和歌山の一府三県に波及した、いわゆる「伊勢暴動」です。
この大一揆を鎮圧する為に、明治政府は現地の武装勢力だけでは足りず、東京から200人の巡査隊を駆け付けさせました。大久保の打った手が、まさに有効に働いたことが分かります。
鎮圧部隊に殺された者35人、刑に処せられたもの5万人以上と言う大きな犠牲を農民側は出しましたが、他方、政府も地租を地価の三分から二分五厘に、その付加税を正租の三分の一以内から五分の一以内に下げると言う大きな譲歩を明治10年1月に行わざるを得ませんでした。まさに、「竹槍でドンと突き出す二分五厘」だったのです。

以上に具体的に見て来たのは、政治的上部構造についてだけですが、しかしこれだけについてでも、上部構造の土台に対する反作用が、それぞれの場合に違った、複雑な姿をとることが、又、上部構造と言う抽象的なものが土台と言う抽象的なものに反作用するのでなくて、上部構造の担い手である階級とこれに対抗する階級との階級闘争を通じて行われるのだと言うことが分かると思います。
前述の「伊勢暴動」の場合にも、それは地租を下げよと言う農民の経済的要求によって起こったものですが、しかし農民が打ち壊したのが、役場・学校・巡査屯所など、又、地租改正に関係した区長・戸長・用掛りなどの家や土蔵が主であったことを見ると、これが上部構造に対する闘争と言う性格を持っていたことが分かります。
被支配階級の力が未だ弱い間は、政治的上部構造は専ら支配階級の手に握られていますが、被支配階級の力が相対的に強くなると、被支配階級も又自己の政党を、従って自己の政治的上部構造をもつようになり、こうして政治的上部構造の内部での階級闘争が顕在化します。

被支配階級の上部構造は、政治的上部構造として現れるよりも前に、先ずイデオロギーの分野で現れることが多いのです。
社会主義思想なしに社会主義政党が作らるると言うことは先ず有り得ませんから、資本主義社会においてプロレタリアートの上部構造は、先ず、社会主義的な思想(哲学・経済学政治理論など)として、又、プロレタリア文学などの「前衛芸術」として現れます。
これらに対しては、もちろん、支配階級の立場に立つ保守的・反動的なイデオロギーの側からの激しい攻撃が加えられ、こうしてイデオロギーの分野での階級闘争が生まれ、激化します。

プロレタリアートのイデオロギーは、プロレタリアートにその階級的立場を自覚させ、これを階級的に団結させ、その階級闘争を強めいる働きをすることによって、又支配階級の不正や腐敗を暴露することによって、資本主義的な経済的諸関係(土台)に対して、これを弱め、つき崩す方向への反作用をします。
前述のように支配階級の手中に握られている上部構造が現存の土台を維持・強化する反作用をするのと、丁度反対の方向の反作用をする訳です。そして、上部構造における階級闘争は闘争するそれぞれが土台に対してこのように反対の方向を持つ反作用をすることによって、土台における階級闘争を激化させ、上部構造における階級闘争での勝利は土台における階級闘争での勝利を促進します。
そうであればこそ我々は、政治闘争は言うまでも無いことですが、イデオロギー闘争の意義を高く評価し、これに力を注ぐのです。

最後に、前回もふれたことですが、社会主義革命が勝利した後においても、イデオロギーの分野では、古いもの、資本主義的な性格を持つものが一挙に無くなる訳ではなく、比較的長期に渡って残存する、と言うことに注意する必要が有ります。
このような古いイデオロギーは、社会主義的土台の建設を遅らせ、中には反革命へと導くような反作用をするものも有りますから、社会主義革命後においてもイデオロギー闘争は重要な役割を持つのです。

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