覚書- 弁証法についてのスケッチ

2005年前後の投稿

最初に「弁証法」を、広辞苑で索いて見ました。

弁証法(dialectic)

本来は対話の技術の意味で、ソクラテス・プラトンでは概念の真の認識に到達する方法で有った。アリストテレスは多くの人が認める前提からの推理を弁証法的とよび学問的論証と区別した。
カントは錯覚的な空しい推理を弁証法とよび、弁証法を「仮象の論理」とした。
ヘーゲルは、有限なものは自己自身の中で自己と矛盾し、それによって自己を止揚し、反対物へ移行するとし、これを弁証法と呼んだ。この立場から全世界が不断の運動・変化・発展のうちに有ることを示し、それらの内的連関を明らかにしたが、彼の場合は弁証法はイデーの自己発展と言う神秘的な形で展開された。

マルクス・エンゲルスは唯物論の立場からヘーゲルを批判的に摂取して、弁証法を「自然、人間社会及び思考の一般的な運動法則・発展法則についての科学」とした(唯物弁証法)。
すなわち、形而上学的思考と対立し、世界を固定的事物の複合としてではなく、新たなものの生成、量から質への転化、古いものの消滅と言う諸過程の複合として認識し、一切の事物は、他の事物と相互関係に有りながら、自己の諸過程内部に於ける対立物との闘争によって自己運動を起こし発展すると言う基本的法則に立脚する。

ここでも見られる通り、弁証法と言う言葉は古代ギリシャに起源を持ち、カント、ヘーゲル、マルクス・エンゲルス等、それぞれの哲学的立場に応じての解釈を持ちます。同時にネット上でもwikipedia等で様々な説明がなされています。
ここでは勿論、マルクスやエンゲルスが打ち立てた弁証法的唯物論哲学の立場に立っての、弁証法理解に努めます

弁証法と形而上学

マルクス主義の哲学は「弁証法的唯物論」と呼ばれます。
弁証法と言うと何となく方法論みたいな語感があって、唯物論と言う哲学的「立場」に比べ、重要さに欠けると思いがちですが決してそんなことは有りません。
弁証法が欠如すると、唯物論も崩れます。その辺も見てゆきましょう。

弁証法を一言で言うと「発展と連関」です。
自然にも社会にも、又人間の思考力にも発展と言う事実があり、又全ての要素はそれだけでバラバラに孤立しているのではなく、お互い複雑に密接に関係しあっています。
これら全ての発展と連関に共通な、一般法則を研究する学問、それが弁証法です。

弁証法と反対の考え方を「形而上学(けいじじょうがく)」と言います。
物事を単にバラバラの要素の寄せ集め、羅列として理解し、発展を認めず、自然も社会も思考も、その歴史はアレコレの出来事の繰り返しだと言う考え方です。
意識的に、「バラバラに考えるべきだ」或いは「世界は同じことの繰り返しだ」と、自覚しているケースだけでは無いでしょうが、結果としてそう言うことになっていると言うことです。

中世におけるキリスト教的形而上学世界

実は唯物論と観念論との対立は、肉体労働と知的労働の分離と言う、社会的、階級的対立を根に持っています。
しかし弁証法と形而上学との対立は必ずしもそうでは無いと言うことです。

宗教の中でもキリスト教は、旧約聖書の中で、世界は神によって6日間で作られたと説いています。その後基本的に変化していないし、生物の進化も認めない、と言う立場です(最近バチカンも進化論を認めた、との情報も有るようですが)。これは形而上学的な考え方です。
仏教は「諸行無常」などと言って、この世は常在不変ではなく、常に変化している、と言う考えですから形而上学には反対だと言えます。しかしその変化は、末法思想といって次第に悪くなると言う考えですから、これは発展を認めないと言う点で、弁証法的とは言えないでしょう。

中世のヨーロッパはキリスト教に支配された世界でした。
その中ではおよそ1000年近い間、来る日も来る日も基本的には同じことの羅列・繰り返しとされ、そしてそれが未来永劫続くとされた訳です。形而上学からすれば当然の帰結です。
これが当時の人達にとって、如何に退屈で躍動感の無い気分をもたらしたか、底辺で呻吟している農奴たちに取って、如何に救いの無い日々で有ったか想像できると思います。
こう言う救いの無い鬱屈した時代には、魔女狩りなどという、人を陥れて憂さ晴らしをするような風潮がはびこることも又、充分想像できることです。

弁証法とヘーゲル

弁証法を哲学として確立したのは19世紀ドイツの、あの偉大なヘーゲルです。
ヘーゲルは世界を、古いものから新しいものへの限りない発展の過程と捉え、その際新しく達成される現実は、古いものの中にあった一切の積極的な要素を踏まえつつ、新しいものの中に吸収し豊かになってゆく。世界の姿、又人間の精神とはそう言うものだ、と説いたのです。
何事も絶対的なものは無く、究極的などというものは無い。 真理の認識と言う哲学の目的は、それを実現してゆく一歩一歩の過程にこそ在るのであって、有る絶対的真理が得られたら、そこで終わり、その先は無いなどというものではないとしたのです。

1000年に渡るキリスト教の形而上学的教義のもとで、鬱屈を余儀なくされていた当時のドイツの青年達にとって、このヘーゲルの弁証法が、どれほどの躍動感、高揚感を持って迎えられたか、それも又想像できると思います。若きマルクスも又例外では有りませんでした。

ヘーゲルの弁証法的側面と、観念論的体系

しかしヘーゲルは観念論者でした。この点でも又徹底していました。 ヘーゲルの弁証法はこの観念論的体系の中で、いわば窒息状態になります。
ヘーゲルの哲学体系はまことに荒唐無稽なもので、説明をするのも聞くのも厄介なのですが、大雑把に端折って言うと次のようになります。

※ 頭の中だけで考え出される観念論の体系は、往々にして荒唐無稽なものになる傾向が有ります。或いはその危険性を孕んでいます。
唯物論は、客観的実在、つまり現実を一義的なものと捉える立場上、否応無く現実の制約を受けて、その主張は客観性を帯びざるを得ず 、極端な荒唐無稽に陥ることは本来有り得ません。
若し、唯物論を名乗りつつ、その主張が現実離れをしているとき、その「唯物論」は、頭の中で観念的に作り出された空想的「唯物論」です。

以下、ヘーゲルの荒唐無稽さをトックリと堪能して下さい。

ヘーゲルによれば、世界は「精神」の現れであり「精神」そのものである、とされます。ヘーゲルはこの精神に「絶対理念」なる名称を与えます。
この「絶対理念」は論理的な理性そのものとされ、絶えず自分をくり広げ、展開し、発展させます。
そしてその「自己展開」の末に「絶対理念」は、ついに自分自身にまで発展すると言うのです。そして同時にその時「絶対理念」は自らを「外化」して自然になる、と言うのです。これがヘーゲルの言う「天地創造」です。

そして、自然に「外化」した「絶対理念」の展開が、つまりは歴史であり、その過程で精神を持った人間が出現し、その人間の精神活動、思考活動と実践活動の発展を通して、最後に「絶対理念」 は自分自身を自覚し完成して行く、この自覚の完成こそがヘーゲル哲学それ自身だ、と言うのです。

ヘーゲルは自身の弁証法的思考方法の中で、絶対的なもの、究極的なものを否定し、限りない発展と革命性を主張しながら、結局は自分自身の観念論的体系の中にそれを押し込めたのです。
一切の「絶対的真理」を否定しながら、自分の哲学こそが絶対的真理の体現だと宣言したのです。
一歩一歩の限りない過程そのものが真理だとしながら、自分の哲学を終着点だとしたのです。矛盾そのものです。

ヘーゲルの矛盾は更に続きます。
ヘーゲルによれば、哲学者は常に時代の子であり、どんな哲学もその時代を超えることは出来ないとされています。このこと自体は真理でしょう。
賢明な読者はここで気が付いているかも知れませんが、だとすると、ヘーゲルの哲学において、人類が絶対真理を認識するところまで歴史が進んできている以上、現実の人類の社会もまた、それに相応しい「絶対的な状態」に到達していなければなりません。している筈です。

つまり、ヘーゲル時代のドイツで実現できそうな何らかの制度を持って、これが「絶対理念」の実現された姿であり、歴史の終着点だと主張しなければならなくなります。
こうしてヘーゲルは、身分代表制議会つきの君主制をもって、完全な政治制度であると結論し、その辻褄合わせの為に、何故貴族の存在が必然的であるかということを、哲学的に「証明」することさえやっています。
つまりはプロイセン時代のドイツで許容される政治制度を持って、究極の理想制度だとせざるを得ない、ヘーゲルの哲学的体系・構造が要請する、これが必然であった訳です。

ヘーゲルは自分自身の「哲学的体系」に固執したが故に、折角の彼の弁証法がその体系の中で出場所を失い、窒息してしまったのです。

フォイエルバッハと唯物論

このヘーゲルの観念論的体系を打ち破ったのが、同じくドイツのフォイエルバッハです。
フォイエルバッハはヘーゲル没後10年目に発表した「キリスト教の本質」によって、唯物論を復活させました。
彼はその中で、自然こそが全ての基礎であり、人間も又自然の産物である。自然と人間のほかに、より高い存在 ―― ―― 神 ―― など存在しない、勿論「絶対理念」などというものも。......と、ヘーゲルの観念論を痛烈に批判しました。
それらは全て宗教的空想の産物であり、人間自身の姿を空想的に反映して作り上げられた観念に過ぎないと主張したのです。

それはあのヘーゲルの「体系」による金縛りから人々を解放し、強烈な印象を与えました。マルクスも又その中の一人でした。
このようにフォイエルバッハは、ヘーゲル哲学の持つ保守的な側面に引導を渡し、これを葬ったのですが、残念ながらヘーゲルの持つもう一つの側面、弁証法という積極的・革命的な部分を正しく継承することをしませんでした。
それとともに又、唯物論そのものも中途半端なものにならざるを得ませんでした。

フォイエルバッハの、この限界、中途半端の一つの原因として、同時代の他の哲学者、科学者達との、生き生きとした討論の場が持てなかったことが挙げられます。
彼の著作「死と不死についての考察」が、キリスト教の教義に反すると言うことで、私講師の職を得ていた大学を追われ、隠遁生活を余儀なくされていたと言う事情が大きかったでしょう。
彼の時代に今のようなインターネットなどが有ったら?、......又全く違った展開を見せていたかも知れませんね。 フォイエルバッハはやがて時代の激動とともに、次第に過去の人となってゆきます。

マルクス、エンゲルスによる、弁証法と唯物論との結合-弁証法的唯物論の誕生

ヘーゲルから弁証法、フォイエルバッハから唯物論と、それぞれの積極的側面を批判的に正しく受け継ぎ、彼らの哲学「弁証法的唯物論」を完成させたのが、マルクスとエンゲルスです。
弁証法的唯物論については、このサイトの中心テーマですから、これ以上ここで立ち入りません。 本論の方でお読み下さい。

※ フォイエルバッハは「キリスト教の本質」で、宗教の本質を鋭く喝破しました。宗教が説く「天国」は、この世に現実に存在する地獄の裏返しだ、と見抜いたのです。確かにその通りです。

冬山で遭難し、寒さの中凍傷で死にゆく人が、頭の中で思い浮かべる「天国」は暖かい日差しか、炬燵の中で呑む熱燗でしょう。
逆にクーラーも無い六畳一間で、熱中症で意識が遠のきながら死にゆく人の思い浮かべる「天国」は、涼風の吹く藤棚の下で呑む冷たいビールじゃないでしょうか。
一年に3万人以上の人が自殺しています。その人たちが願う「天国」は、お金も病気も、人間関係の煩わしさも無い、穏やかな中での家族揃っての生活である筈です。

つまり「天国」とは、正にこの世に現実に存在する様々な地獄の、その意識的反映が裏返し的に渇望されたものである訳だし、宗教はその「渇望」に対して言葉(教義や説教)やイメージ(色々な絵画が有りますよね。ルネッサンスの傑作の大半は宗教画です)で「天国」を与え、その意識的渇望を癒す一杯の水である訳です。

ここまではフォイエルバッハは卓見でした。しかしそこまでだったのです。つまり「世界を解釈した」で終わってしまったのです。
意識的渇望が癒されても、現実の「地獄」は何ら変わるところが有りません。

マルクスとエンゲルスは「実践的」に理解しました。「今までの哲学者は世界をアレコレ解釈しただけだった。大事なのはそれを変革することだ」と。
若し天国がこの世の地獄の裏返しであるならば、現実のこの世を天国にしてしまえば、宗教的「地獄」など人の頭の中から根こそぎ消えてしまう。あの世での「天国」を渇望する必要もなくなる。大事なのはこの世を「変革」することだ、と。

マルクス主義者は、世界観としては無神論者です。しかし宗教者を敵視してはいません。
現実のこの世に様々な「地獄」が有る以上、宗教的観念は現実に根を持っているのです。その現実をそのままにしておいて、法律や規制で宗教を押さえつけることは出来ないし、それはやるべきでは有りません。
宗教の持つ平和主義や助け合い等の教義に依拠しつつ、「あの世のことは取りあえず置いといて、この世の共通の課題について、共闘する」ことが大事でしょう。
しかし、オウムや一部某巨大教団のように、幹部や教祖だけがこの世の「天国」を味わう為の宗教は、もはや上記の意味での宗教ですらないと言える。

弁証法の中身

次に弁証法の具体的な中身に入りましょう。
弁証法を一言で言うと「発展と連関」だと言うことは最初に述べました。

キリスト教は反対に形而上学的、つまり反弁証法的だということも上記で述べました。
例えば旧約聖書によれば、世界は6日間で作られ、それ以降基本的に発展は無く、歴史はあれこれの出来事の羅列、繰り返しだと言う立場です。
歴史を学ぶ意義はせいぜい過去のあれこれの出来事の中に教訓を見出し、現在の施政や生き方に活かす程度のものでした。

この世の全ての動物や植物も、神が一度に創りそれ以降進化は無い、と言う立場です。人間も神が自分に似せて創りました。
そしてこの立場、創造論を固く信じ、学校教育にも取り入れるべきだ、と主張している人達がアメリカ南部など、今でも大勢います、ブッシュも本音はそうかも知れません。「エホバの証人=ものみの塔」など、その典型ですね。

※ このキリスト教の唯一「反形而上学」的な教義が「最後の審判」だと言えるでしょう。
つまり、この世の最後に、神による審判が下り、神の覚えめでたい人だけが天国に召され、ほかの人は地獄に堕とされるとする教えです。
「エホバの証人」たちはこの教えを忠実に信じているようですし、アメリカでは、特に南部を中心に、最後の審判を含めて聖書の教えを文字通り真実と受け止めている人、ネオ・キリスト教徒が多勢います。

進化生物学の分野で多数の著作を持つ、リチャード・ドーキンスも、自著『神は妄想である』の中で指摘していますが、この「最後の審判」思想は、この世の終わり、つまりハルマゲドンを期待、或いは恐れない考えに繋がる、極めて危険な代物だと言うことです。
つまり敬虔なキリスト教徒を自任する彼らにとってハルマゲドンは、この世の苦しみから解放され自分たちだけが天国での永遠の命を得る、正に「最後の審判」であるからです。
ネオ・キリスト教と近かったブッシュ政権が、やたら戦争好きで核を使いたがっていた理由が分かるような気がします。
彼らにとっての終末核戦争=この世の終わりは、忌避するどころか待望久しい至福で有るかも知れないのです(試しに『ものみの塔』を読んでみて下さい)。

地球の歴史に見る弁証法

しかし自然科学の成果によれば、地球も太陽系も、約46億年前宇宙空間のガスや塵が集まって出来たものだと言うことが分かっています。宇宙そのものも約146億年前、量子論的「無」から誕生したことが分かっています。
地球も当初生物はいなかったが、今から見れば地獄のような原始地球環境の海の中で、長い化学進化の末、高分子化合物の中から一個の生物が生まれ、それが生物進化の法則に従って進化・増殖し、現在の人間にまで繋がっています。
地球上の全ての生物、ヒトもナメクジもチューリップも納豆菌も、全てはたった一つの先祖から枝分かれして来たと言うことが、遺伝子DNAの研究で分かっています。

進化の過程で、光合成細菌シアノバクテリアが大繁茂し酸素を作リました。
酸素は海中の鉄イオンを酸化し沈殿させます。オーストラリアのハーマスレーなど、現在の鉄資源は全てその時代の産物です。
地球の酸素、オゾン層も全て地球の歴史の中で、生物が作ったものです。石炭、石油もかっての樹木や動物の化石、遺骸ですよね。

プレートテクトニクスで海底も移動し、大陸さえも動いて衝突したり、離れたりしています。ヒマラヤはインド亜大陸がユーラシア大陸に衝突して盛り上ったものです。
チョモランマ(エベレスト)の海抜8000メートルを横切るイエローバンドは、もろく崩れやすい為、登頂最後の難関とされていますが、これは海底の生物堆積物が作った石灰岩の地層です。
チョモランマに限らず、地球上の石灰岩、ひいては鍾乳洞、中国桂林の絶景などは全て生物が作ったと言えます。
自然の風景だけでは有りません。セメントの主材料は石灰岩です。都市の景観も又過去の生物が作っているのだ、と言えるでしょう。

約500万年前(最近の知見では700万年前とも言われる)、チンパンジーの仲間と枝分かれした人間が、道具を作り、労働によって自然を開拓してきました。
そしてごく最近の、およそ100年くらいの経済活動によって、オゾン層が破壊され、大気の構成さえも変化し、地球環境が大きく破壊されようとしています。
良かれ悪しかれ、この地球は自然と、その一部である生物との合作なのです。

マルクスは『資本論』第一版の序文で、「「経済的社会構成の発展を一つの自然史的過程と考える、私の立場」と述べていますが、今書店を覗くと、人間の歴史を146億年前の宇宙の誕生とその進化の中に位置づけて説明している書籍が目につきます。マルクスの言う「.........私の立場」に立った叙述だと言えるでしょう。

地球と生物のかかわりをホンの一部だけ垣間見ましたが、部分的な後退を含め、世界は常に発展、そしてお互いに係わりあっています。どんなことでも何一つ、単独で存在しているものは有りません。それが、自然の、或いは社会の弁証法です。
地球環境の破壊も、その弁証法的連関を全面的に理解せず、利潤追求だけを単独に優先している結果です。
今や地球環境に直接影響を及ぼすまでに巨大化した生産力を、私企業の利潤追求のコントロール下に委ねたままで良いのか、鋭く問われるところです。

社会と経済における弁証法

「連関」を否応なく身近に感じさせてくれるものが、経済でしょう。経済がグローバル化すればする程、日本の、個々の企業の、家庭の経済が、地球規模の経済的事象と無関係でいられないことを思い知らされます。
リーマンブラザーズと言う、言わば1民間企業の破綻が世界経済にもたらした影響を考えれば直ぐに分かるでしょう。リーマンブラザーズの破綻そのものが又、幾多の経済的諸事情や政策との、網の目をなす「連関」の結果であり、原因となるのです。このような例は枚挙にいとまが有りません。
この事情は資本家階級程良く理解している筈で、弁証法的見方無しに企業経営は出来ません。企業家本人が自分を「弁証法論者」だと自覚しているかどうか、それは分かりませんが。
この件についてはこれ以上例を挙げるまでも無く、日常的に身近に感じていることだと思います。

意識・思考の弁証法

そして客観世界が弁証法的であるなら、我々の意識もそのまま弁証法的に客観世界を反映しなくてはなりません。それがつまりは、弁証法的な世界観・哲学です。
そして人間の思考そのものも又、社会と有機的に繋がりそして発展してゆきます。
人間の社会から切り離されて育った、狼少女アマラとカマラは、ついに人間としての生き方を取り戻すことが出来ませんでした。

※ 最近この狼少女の話が、 真っ赤な嘘、つまり捏造であったらしいことを知りました。若しそれが本当なら罪な話です。
しかし仮に、そう言うことが若し実際に有ったとすれば、多分アマラとカマラと同じ経過を辿ったでしょう。狼に育てられた、と言うセンセーショナルな事情を抜きにしても、いわゆるネグレスト的状況で育てられた子供は、現実に数多くいます。
その場合、精神的な面だけでなく、身体的にも大きなダメージを受けるようです。人間は社会とのネットワーク抜きで、生物的ヒトとしても生きて行けないのです。

生物の多様性は見てのとおりですが、全て細胞で統一出来ます。しかも細胞を形成しないウイルスを含め、遺伝子DNAの4種類の塩基、A,T,G,Cの並び方で記述できるようになりました。人間もウイルスも基礎は共通であり、遺伝子DNAで統一的な理解が出来ます。
生物を含め全ての物質は、100種類程の原子の組み合わせで説明できますが、その原子も幾つかの素粒子で構成されていることが分かっています。今、更に基礎的な究極的素粒子の理論化・統一に世界の物理学者は血道を上げています。プランク紐などはその一つの候補でしょう。

光も電波もガンマ線も全ては同じ電磁波です。違いはその周波数だけです。そして電磁波は、イコールエネルギーでも有ります。
この電磁的エネルギー(力)を含め、世界には4つの力があると言われています。重力、電磁気力、強い力、弱い力の4つです。
我々が生きて子孫を残すのも、月が地球を回るのも、お湯が沸いたり、パソコンを使えるのも、全てはこの4つの力で説明できます。これもまた今、1つの力に統一・記述できないかと、世界の物理学者がしのぎを削っています。
全てこの世界は連関と発展、多様と統一、つまり弁証法の試金石です。

弁証法的な立場に立たずに、物理や化学、生物学或いは社会科学などの実証科学を理解することは、ますます出来なくなってきました。
同時に実証科学の発展は、その一般法則である弁証法をより豊かにし、より普遍性を高めます。
マルクスは英国博物館の図書館に20年間通い、当時の人類の到達点を全て自分のものにして、その成果を基にしてあの「資本論」を書いたといわれます。
我々凡人は、とてもマルクスには遠く及びませんが、「マルクス主義」を理解すると言うことは、自然科学や社会科学への興味と無縁では有りません。マルクスの言う「人間について興味の無いことは無い」姿勢を持ち続けたいものです。

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