No-29 人間の本質について(Column-2)

解答者 高田 求

質問

レーニンの『カール・マルクス』のなかに、人間の本質は社会諸関係の総和であるということが書かれていますが、これはどういうことですか。

Answer

確かに、レーニンは『カール・マルクス』のなかで、古い唯物論者は 「″人間の本質"を抽象的に理解して、これを(具体的=歴史的に 特定の)"社会諸関係の総和"と理解せず、従って世界を"変革する"ことが肝心であるのに、世界を"解釈する"だけに留まった。すなわち"革命的・ 実践的活動の意義を理解しなかった」(国民文庫『マルクス=エンゲルス=マルクス主義』)と書いています。

ここで述べられている人間の本質が社会諸関係の総和だというのは、どういうことなのか考えていきましょう。

レーニンがここで引用しているのは、「フォイエルバッハについてのテーゼ」でマルクスが述べている次のことばです ―― ―― 「人間の本質は個々人に内在するどのような抽象物でもない。それは、その現実の姿においては、社会諸関係の総和である」(国民文庫『フォイエルバッハ論』その他の 引用もやはりこの「テーゼ」からのものです)。

かいつまんでいえば、このことばの意味は、およそ次のようなことになるでしょう ―― ―― 「人間には、生まれながらにして永遠普遍の人間性と言ったものが備わっているのではない。社会生活の中で具体的な人間につくられていくのだ」。

実際、その通りではないでしょうか。例えば、人間は直立二足歩行を特徴とする動物ですが、生まれたばかりの子馬がだれに教わることも なしに母馬のまわりを四つ足で歩きまわるのとは違って、生まれて直ぐに本能的に直立二足歩行を始める人間の赤ん坊など、どこにもいません。時間さえ掛ければ放っておいても本能が働きだして直立二足歩行するようになる訳でもありません。社会的な「学習」によってはじめて、直立二足歩行も可能になるのです。

立って歩くということでさえそうなのですから、まして人間の「内面」についてはなおさらです。
人間の脳は、社会的に訓練されて始めて、人間の脳としての機能を営むことができます。人間の赤ん坊の脳は、社会から切り離されて育った場合には、決して人間らしい働きを示すようになることは出来ません。

生後程なく狼の群れに連れ去られ、そこで育った「狼少女」の実例がそれを示しています。
彼女の脳は、立派に人間の脳としての素質を持っていたにもかかわらず、人間の社会によってではなく、狼の群れによって狼的に訓練されてしまい、その結果、狼的な意識と習性を身につけてしまったのでした。

※ 管理人註
この狼少女、アマラとカマラの話は、実はねつ造で有った、と言うこが判明しています。罪な話です。しかし例えば実際のネグレストの例などからしても、若し同じ事情を辿っていたならば、内容的にはこのような結果と大きくは違わなかっただろうとは思います。

これで分かるように、人間は生まれながらにして「人間性」といったものを備えている訳ではないのです。つまり、人間は生まれながらにして人間であるのでは 無く、それだけでは未だ可能的に人間であるにすぎず、社会との関係の中で始めて、現実に人間となっていくのです。

ですから、人間は他の動物とは違って、たんに生物的・生理的な存在であるのではなく、特に社会的な存在だと言うところにその本質を持つものだ、と言うことが出来ます。
そもそもこうした人間の特質そのものが、道具をもちいた共同労働によって生きると言う道に人間の先祖が入り込む中で、次第に歴史的に形成されて来たものでした。
道具は人間の身体器官そのものではなく、従って遺伝子によって、親から伝えられた生理的な本能によって作ったり使ったりすることの出来ないものです。道具の製作・使用は社会的な学習によってのみ習得されます。
だからこそまた、それは社会的、歴史的にどこまででも進歩させていくことが出来、ここに人間が他の動物と違って、限りない進歩を実現させていくことが出来る源があるのです。

「人間性」と言うものは、このようにして歴史的、社会的に形成されてきたものであり、作り出されていくものであって、歴史や社会から切り離されたどのような抽象物でもないのです。
だからこそ又、それは具体的な社会との関わりの中でのみ、個々人にとって現実のものとなっていくのです。

ところで、個々人が現実の人間として成長していく過程で関わってくる社会とは、レーニンが注意しているように、常に「具体的=歴史的に特定の」社会です。
ですから、どんな社会とのどのような関わりの中に置かれているのかと言うことによって、生理的な素質としては同じ人間でも、その「内面」は大きく変わってくる、と言うことになります。
縄文式土器の時代の人間の脳が、生理的な素質・構造の点では殆ど変わりないのに、その脳の営みとしての意識の内容はひどく違ってくる、と言うように。 とすれば、「人間性」を発展させ、その健やかな成長を実現する為には、何よりも先ずそれにふさわしい社会関係を作り出すことが必要です。人間の能動的な力がそこに発揮されなければならないのです。

ところが、従来の哲学者は、抽象的な理想の「人間性」と言うものを想定して、人々がそこから外れた為に世の中に不正と災いがはびこっているのだと「解釈」したり、或いは逆に「利己心」とか「闘争本能」とかいったものを「不変の人間性」と想定して、だから弱肉強食は避けられなぬ人の世のならい、と「解釈」したりすることしかできませんでした。
そこからは、人々に向かって自分に内在している「人間性」に立ち戻るように呼びかけたり、或いは反対に、たちの悪い「人間性」の表れを法律その他の強制手段によって抑圧するように求めたりすると言うことしか出てこなかったのです。

このように見てくると「世界を変革する」ことが肝心だと言うマルクスの言葉、「革命的・実践的活動」の意義についてのマルクスの(又はレーニンの)指摘の意義もハッキリしてくるでしょう。それは人間性についての深い洞察を踏まえた言葉なのです。
マルクス主義は社会にだけ見を向けて、人間の内面に目を向けることが少なすぎる、と言った批判をする人が有りますが、これはその人が「人間の内面」についてどんなに浅薄な理解しかもっていないかと言うことを、自ら告白しているようなものです。
社会とは人間にとって、単に外的なものでは無いのであって、それは他でもない「人間の内面」そのものを作りなしているものであるのです。
社会に目を向け、それを問題にすると言うことは、とりもなおさず人間の内面に目を向け、それを問題にすることに他なりません。

なお社会の変革が肝心だ、と言うのは、社会が変われば人間が変わる ―― ―― 社会を変えなければ人間は変わらない ―― ―― と言うだけのことでは有りません。社会を変える実践の中で、人間は自分自身を変えていくのです。
先にあげたマルクス、レーニンの言葉は、人間の自己変革と社会変革との一体性に浮いてのこうした洞察を内包しているものです。(高田 求)

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