No- 3 政治闘争を階級的に分析すること

    

 

1、欺瞞と自己欺瞞の犠牲者になるな

この講座の第一回には、史的唯物論は何か独特の型や公式にはめ込んで歴史をみる見方では決してなく、「何よりも先ず研究の手引き」(エンゲルス)である、と言うことを述べました。そして第二回には、マルクスとエンゲルスは「これまでの全ての社会の歴史は階級闘争の歴史である」と言うことを公式として前提して、この公式の現代への適用として現代の歴史を階級闘争の歴史として捉えたのでは無くて、現代の歴史の具体的研究の結果、それがブルジョアジーとプロレタリアートとの階級闘争の歴史であることを捉えたのだと言うことを、主として『イギリスにおける労働者階級の状態』と『共産党宣言』に基づいて述べました。

我々が「階級闘争」と言う場合に、それは決して労働者が賃金の引き上げを要求して資本家と闘うストライキとか、小作人が小作料の引き下げを要求して地主と闘う小作争議のような、直接に経済的要求を掲げて行われる闘争のことだけを言ったいるのでは有りません。
前回にも引用しておいたように『共産党宣言』は「あらゆる階級闘争は政治闘争である」と述べています。またエンゲルスは『フォイエルバッハ論』で次のように述べています。
「政治闘争は全て階級闘争であり、諸階級の解放闘争はどうしても政治的形態を取らずには済まないにも関わら ―― ―― と言うのはどの階級闘争も政治闘争だから ―― ―― 全て結局は経済的開放を中心としている。.........個々の人間の場合に、その人を行為させる為にはその人の行為の推進力が全てその頭脳を通過して医師の動機に変わらなければならないように、市民社会の必要も ―― ―― 法律の形で一般的な効力を得る為には、全て国家の意思を通過しなければならない。

これは事柄の形式的な側面で、分かり切ったことである。問題になるのはただ、この単に形式的な意思が ―― ―― 個人のにせよ国家のにせよ ―― ―― どんな内容を持っているのか、又どこからこの内容が来るのか、なぜまさにこれが意欲されて他のものが意欲されないのか、と言うことだけである。このことを調べてみると、現代の歴史では国家の意思が、大体において、市民社会の必要・欲求の変化に、この階級が優勢であるかあの階級が優勢であるかと言うことに、結局は生産諸力と交易諸関係との発展に、規定されていることが分かるのである」と。

この言葉を読めば分かるように、政治闘争は全て階級闘争であると言われるのは、国会の決議を経て出される法律も、さまざまの法律の審議にあたっての諸政党の討議や駆け引きも、更には、諸政党が掲げる政策やスローガンも、これらの政策やスローガンの文字面で無く諸政党が実際何を行っているか、内閣や、政府の役人が「行政」と称して何を行っているかと言うことも、これらに対して労働組合や市民団体やさまざまの協会・連合会などの諸組織がどのような反対又は賛成の要求または牽制の動きをしているかと言うことも、全てがいずれかの階級の利害関係に基づいてまさにこの行動をとり、あの行動に反対しているのであって、全てが階級闘争としての性格を持っている、と言う意味なのです。

重要なことは、以上のことを一般的に承認することでは無くて、政治闘争におけるそれぞれの党は・集団の主張や行動が、どの階級のどのような利害関係・関心に基づいているかを具体的に知ることです。それを知らなければ、表面上の美しい言葉、全国民の為にと称して特定の階級又は一階級内の一分派の利益を図る偽りの政策に、お人よしの大衆は騙され続けることになるのです。 このことをレーニンは次のように指摘しています。

「人々が、あらゆる道徳的、宗教的、政治的、社会的な空文句や声明や約束の陰にあれこれの階級の利害を見つけだすことを学ばないうちは彼らはいつでも政治上の欺瞞と自己欺瞞との愚かしい犠牲者であったし、今後も又常にそうであろう」(「マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分」)と。

今日私たちは、政府・自民党が独占資本・大企業と癒着しており、またアメリカ帝国王義に従属しており、それらの利益を擁護するための政治をおこなっている、ということを自分でよく知っていると思っています。
実際に、自民党がおこなっている企業ぐるみの選挙だとか、国際通貨問題などにかんして政府がとる政策をみれば、こうしたことがあまりにも歴然としているので、そんなことはよくわかっている、欺瞞や自己欺瞞に陥ることなんかあるものか、と思っている人が多いかも知れません。しかし、はたして十分に知っているだろうか、知っているつもりでも、表面に現われているものだけを知っているだけで、まだまだ知り方が足りないのではないか、と反省してみることが必要でありましょう

実際に、表面に現われているものは、「氷山の一角」ということばがあるように、隠れているものよりもずっと少ないのであり、また、現実の歴史ははやい速度で動いており、そのなかには複雑な動揺やからみあいがあるので、半年前にそうであったことが今ではそうでなかったり、同じ政策が違った意味をもち、違った集団によって支持されるといったこともおこるのですから、政府や各政党・経済団体などのやっていることを、つねに階級的見地から分析して、どの政策がどの階級または階級内のどの分派の利益によって推進されているのかを具体的に明らかにし、これを自分だけでなく、国民大衆のなかに暴露してゆくことが必要なのです。

だが、こうしたことができる力量を身につけるということは、なかなか大変なことです。しかし幸いなことに、今日私たちは自分ひとりでこういったことをやろうとしているのではなく、多くの仲間を持っています。ひとりでは覚束ないことでも、仲間と一緒に討論することによって明らかにすることが出来るし、それによって不足していた力量をのばすこともできます。 ―― ―― こうしたことを思うにつけても、マルクスから学ぶことはとりわけて大切だと思います。

と言うのは、マルクスはかれ自らが体験した同時代の歴史について、それを階級的見地から分析した非常にみごとな模範を幾つか残していてくれるからです。現実の政治闘争を階級的見地から分析するというのは、なるほどこういう具合にやるのか、と膝を打って感心する誠に見事な分析が示されています。
そしてマルクスは、自分でこのような分析をおこなうことを通じて、そこから一般的な結論をひきだし、史的唯物論の理論と方法を一歩一歩と築き上げていったのです。マルクスの模範を学ぶには、その著書を読まなければなりませんが、ここではその為の手引きという意味で、入門講座としてできる範囲で、マルクスの階級的分析のやり方をできるだけ具体的に述べてみたいと思います。

    

 

2、マルクスの模範から学ぼう。二月革命の歴史を実例として

マルクスは、1850年に『フランスにおける階級闘争』を、1852年12月から1852年3月までに『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』を書いて、これらの著作で、1848年2月にパリで武装蜂起が起こって、オルレアン王朝のルイ・フィリップの政権が倒されてから、1851年 12月2日にルイ・ボナパルト(有名なナポレオン・ボナパルトの甥、のちにナポレオン三世と称した) のクーデターが行われるまでのフランスの歴史を分析しました。

これらの著作は、まさに自分が体験した同時代の歴史を取り扱ったものであり、階級的分析の模範をしめしているものですが、残念なことには、百年以上もまえの外国の歴史を取り扱ったものなので、この講座の読者にはそこで分析されている歴史的事実に馴染みが薄く、その点で分かり難いだろうと思われます。この分かり難さを取りのぞく努力をしながら、読者の皆さんと一緒にマルクスの模範から学びとる試みをやってみたいと思います。

(注) 以下の叙述では、『フランスにおける階級闘争』を『階』と、『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』を『ブ』と、簡単に略号でしめすことにします。

ここで取り扱われている時期は『階』の二で「こうした歴史的騒擾の苦悩のなかで、こうした革命的情熱、希望、失望の劇的干満のなかで、フランス社会のいろいろな階級は、かれらの発展の時期を、以前は半世紀を単位として数えたものを、いまでは数週間を単位として数えなければならなかった」と述べているように、歴史が非常にはやい速度で進展し、諸階級の成長も、それらの間の力関係も、めまぐるしく変わっていった時期でした。

『ブ』の一でマルクスは、この四年間をさらに「二月の時期。1848年5月4日から1849年5月28日まで立憲共和制の制定または憲法制定国民議会の時期。1849年2月28日から1851年12月2日までの、立憲共和制または立法国民議会の時期」の三つに分けています。

二月革命で倒されたオルレアン王朝(1830年の7月革命で成立したので、「7月王政」ともいわれる)のもとで「フランスを支配したものは、フランスのブルジョアジーでなくて、その一分派であり、銀行家、取引所王、鉄道王、炭鉱・鉄鋼・森林の所有者、彼らと結ぶ一部の地主 ―― ―― いわゆる金融貴族」でした。
「商業、工業、農業、海運業など、産業ブルジョアジーの利益は、この制度のもとではたえず脅かされ、損害をこうむるほかはなかった」(『階』の一)のです。

従って、産業ブルジョアジーからプロレタリアートまでの諸階級がこの王政に不満を持っていた訳ですが、この不満の爆発をはやめた要因としてマルクスは「二つの経済的な世界的事件」を指摘しています。

その第一は、1845-46年のジャガイモ病と不作によって1847年に物価騰貴がおこり、「人民の最低生活物資を得るための闘争」が燃え上がったことです。ランドル県では飢えた労働者や村の住民が投機業者の穀物倉庫を襲い、人民と軍隊とのあいだに流血の衝突が起こったばかりでなく、事件の参加者のうち三名が死刑の、多数のものが懲役や禁固の判決をうけました。
その第二はイギリスで全般的な商工業恐慌が起こつたことです。
「この恐慌の余波が大陸でまだ完全に収まらなかったときに、二月革命が勃発した」のでした。

このような状態のもとで人民の武装蜂起が起こり、七月王政が倒れて臨時政府ができたのですが、「臨時政府は、七月王座を協力して倒したものの、その利害開係は相敵対していた種々の階級の妥協以外のものでは有り得なかった」(『階』の一)のであり、商工業的ブルジョアジーの自由主義的な集団の政治的見解を代表していて、温和な選挙法の改正によって革命を回避し、七月王政を維持しようとしていた王朝的反政府派も、「共和主義的ブルジョアジーも、民主主義的=共和主義的小ブルジヲアジーも、社会=民主主義的労働者も、すべて二月政府内に臨時の地位を得た」(『ブ』の一)のでした。

政府内に多数を占めたブルジョアジーの代表者たちは共和制を宣言することを躊躇っていたのですが、社会主義的共和主義者であった自然科学者のラスバーユが市庁にゆき、「パリのプロレタリアートを代表して、臨時政府に共和制を宣言するように命令し」、「もしこの人民の命令が二時間以内に執行されないときは、自分は20万人の人間の先頭に立って引き返してくるであろう、と告げた」ことによって、この二時間の期限が切れないうちに共和制の宣言が発せられたのでした。
マルクスは「そのときは、戦いに倒れた人々の屍は未だ冷え切っておらず、バリケードはまだ取り払われておらず、労働者も武装を解いていなかった」(『階』の一)と指摘しています。

だが、直接普通選挙がおこなわれて、5月4日に成立した憲法制定国民議会では、ブルジョア共和主義者が多数を占めていました。どうしてそういう結果になったのでしょうか。
前述のような経過で成立した共和制とはそもそもなんであったかを、マルクスはこう性格づけています。

「どの党派も、その共和制を自己流に解釈した。共和制は、プロレタリアートが武器を手にしてたたかいとったものであったから、プロレタリアートはそれに自分の刻印を押し、それを社会的共和制だと宣言した。
こうして、近代の革命の一般的内容が暗示されたのであるが、.........他方、力を合わせて二月革命をおこなったその他すべての分子の要求は、政府内で獅子の分け前を受け取ったことで承認された。.........革新を求める願いがこれほど熱情的な一万で、古いしきたりがこれほど根づよくはびこっていたこと、全社会がこれほど表面的に調和しているように見える一方で、社会の諸分子がこれほど深く疎隔していたことは、かつてなかった。
パリのプロレタリアートが、自分たちのまえに開けた偉大な展望にまだうっとりと見とれていて、社会問題について大まじめな討議にふけっていたあいだに、社会の古い諸勢力は結合し、集合し、我に返り、そして思いがけない支柱を国民の大多数者のあいだに見いだしていた。それは7月王政の柵が倒れたあとで、みな一時に政治の舞台になだれこんできた農民と小ブルジョアである」(『ブ』の一)と。

では、なぜ農民と小ブルジョアが古い諸勢力の支柱になったのでしょうか。マルクスはこう書いています。

「フランスの労働者階級は.........まだかれら自身の革命を遂行する能力を欠いていた。産業ブルジョアジーの支配のもとで産業プロレタリアートは、始めて、自己の革命を国民的革命へとたかめることのできる広大な国民的存在となる。.........フランスの工業は、大陸のその他の国ぐにの工業よりも発達しており、フランスのブルジョアジーは、その他の国ぐにのブルジョアジーよりも、より革命的に発達している。
ところが二月革命をみれば、それは直接には金融貴族に攻撃を向けたものではなかったか? 

この事実は、産業ブルジョアジーがフランスを支配していなかったことを証明したものである。.........フランスのプロレタリアートは、革命の瞬間に、パリでは事実上の権力と影響力をもち、その為にかれらのもつ手段以上の行動に駆り立てられるにしても、フランスのその他の地方では、プロレタリアートは個々の分散する工業中心地に寄せ集められ、圧倒的多数の農民や小ブルジョアジーのあいだに混じって、殆ど影を没している」(『階』の一)。

他方、「分割地農民(自分の土地を持つ農民)はおびただしい大衆である。その成員たちは似たり寄ったりの事情のもとで生活していながら、お互いのあいだで多面的な関係を結ぶということがない。
彼らの生産様式(生産のやり方)は、彼らを互いに連絡させないで、互いに孤立させる。.........どの農家も、殆ど皆自給自足していて、自分の消費する品物の大部分を直接自分で生産しており、従って、その生活資料を社会との交易によって得るよりも、むしろ自然との交換から得ている(商品生産と商品交換の発展水準がまだ非常に低かったことを言っているのです。

.........数百万の家族が、かれらをその生活様式、利害、教養の点で他の諸階級から区別し、それと反目させるような経済的生存諸条件のもとで生活している限りで、かれらは一つの階級をつくっている。分割地農民たちのあいだに単なる局地的な結びつきしかなく、利害の同一性ということから、かれらのあいだにどんな共同関係も、全国的結合も、政治組織も生まれてこない限りで、かれらは階級をつくっていない。だから、かれらは、議会を通じてであれ、国民公会を通じてであれ、自分の階級的利益を自分の名まえで主張する能力がない。かれらは、自分で自分を代表することができず、誰かに代表してもらわなければならない」(『ブ』の七)。

では小ブルジョアはどうだったでしょうか。さきに述べたように、二月革命の直前にイギリスで全般的な商工業恐慌が起こったのでした。その結果、外国市場で商売ができなくなったフランスの工場主や大商人は国内商業に活路を求めました。
「かれらが大きな店を開いたので、その競争の為に、小商人や小店主は大量的に没落した。だからパリのブルジョアジーのこの部分に無数の破産が生じたのであり、だからまたかれらが二月に革命的行動をとった」(『階』の一).........のでした。二月革命における小ブルジョアの闘争は、「卸売商人や銀行家や工場主に対する.........闘争、一言でいえば破産に対する闘争」だったのです。ところが二月革命以後に、 臨時政府の公共事業大臣であった、ブルジョア共和主義者のマリは、国民作業場をつくって、革命によって街頭に投げ出された十万の労働者をこれに収容しました。それは、はでな名前にもかかわらず「労働者を23スーの労賃で、退屈で単調で非生産的な土木事業に使用すること以外のものではなかった」し、また臨時政府は、これをつくることによって労働者の分裂をはかろうと考えていたのでした。かれらの考えは見当外れであり、それは決して労働者階級の力を弱めることにはならなかったのですが、しかし臨時政府が悪賢くも、国民作業場は小ブルジョア社会主義者で臨時政府の閣員でもあったルイ・ブランが考えだしたものだという噂を広めたので、内容的には誠につまらないものであるこの国民作業場が「半ば素朴な、半ば故意の混同と、人為的につくられたフランスやヨーロッパの世論によると」、「社会主義の最初の実現ということになり」、ブルジョアや小ブルジョアの癪の種になったのです。
「国民作業場は、その内容によってではないが、その名称によって、ブルジョア的産業、ブルジョア的信用、ブルジョア的共和制に対する、プロレタリアートの抗議を具現したものであった。だからブルジョアジーの全憎悪がそれに注がれたのであった。

.........同時に、小ブルジョアのすべての不快と不満も共同の標的、国民作業場に向けられた。かれらはかれら自身の状態が日ましに耐えがたくなってゆく一万で、プロレタリアの怠け者が食い潰してゆく金額を、心から怒りにもえて勘定した。見せかけだけの仕事に対する国家の年金、これが社会主義なのだ!こうかれらはぶつくさと言った。
国民作業場、リユクサンプールの長広舌、労働者のパリ行進 ―― ―― これらのうち にかれらは自分たちの悲惨の原因を求めた。そして、救いもなく破産の淵に臨んでいる小ブルジョアほどに、共産主義者のいわゆる陰謀なるものに、熱狂的な反対をしたものはなかった」(『階』の一)とマルクスは述べています。

このような状態にあったので、「全フランス、少なくともフランス人の大多数を、同一の利害、同一の見解等々を持った市民」とみる旧式の共和主義者の「人民崇拝」の期待に反して、直接普通選挙はその信じられていた魔力を発揮せず、「選挙の結果は現実の人民を、すなわち、人民が分裂している種々の階級の代表者を明るみに出した」(『階』の一)のです。
五月四日に召集された憲法制定国民議会では、既に述べたように、ブルジョア共和主義者が多数を占めていました。直接普通選挙を通じてフランス国民が承認した共和制は、「パリのプロレタリアートが臨時政府に押し付けた共和制、すなわち社会的諸制度をもった共和制ではなく」、「ブルジョア秩序の政治的再建であり、ブルジョア社会の政治的再確立であるところの共和制、一言でいえば、ブルジョア共和制」(『階』の一)だったのです。七月王政のもとではブルジョアジーの一分派である金融貴族がフランスを支配していたのですが、今やそれに代わって、「人民の名においてブルジョアジーの全体が支配することになる」(『ブ』の一)と国民議会は宣言したのです。

私はマルクスの二つの著作から、かれが三つの時期に分けたその第一の時期の叙述を要約して述べるだけで予定のページ数を終わってしまいました。憲法制定国民議会でブルジョアジーの全体を代表するかのように現われたブルジョア共和主義者が実は本当にブルジョアジーの全体を代表するものではなかったことを暴露して没落してゆく第二の時期と、それに代わって議会の多数派になる秩序党(正統王朝派とオルレアン派の二大分派からなるブルジ∋アジーの二大利益集団)が、君主制の復活を名目的に掲げて互いに争いながら、他の諸階級に対してははブルジョアジーとして一致協力し、しかしそれにもかかわらず執行権力を握る大統領のルイ.ボナパルトと衝突て次第にその力を後退させてゆく第三の時期との叙述において、マルクスの分析はますます冴え、階級闘争の動的過程が鮮やかに描きだされるのですが、残念ながらそれをここに述べることはできません。

ただ一つだけどうしても述べておかなければならないのは、第一の時期について述べているなかで既にマルクスが、二月革命後にパリのプロレタリアートがその階級的利益を社会そのものの革命的利益として貫徹できなかったことに関連して、こう述べていることです。

「革命の進行によって、プロレタリアートとブルジョアジーの中間にいる国民大衆、つまり農民と小ブルジョアが、ブルジョア秩序に反対し、資本の支配に反対して立ち上がり、かれらが、その前衛闘士であるプロレタリアに味方せざるを得なくなるまでは、フランスの労働者は一歩も前進することはできず、ブルジョア秩序を髪の毛一本程も損なうことはできなかったのである」(『階』の一)。

マルクスは諸階級の基本的性格をはっきり押さえながら、しかもこれを一色に塗りつぶさず、具体的な歴史的状況のなかでそれぞれの階級がどのような動きを示すかを捉えています。なによりもまず、このような現代史の捉え方を学び取りたいものです。

下層のブルジョアと無産者を基盤とするジャコバン派の支配は、封建制の一掃と民主主義を徹底させ、祖国防衛戦争に勝利するなどの成果を挙げましたが、恐怖政治への反対が高まり、1794年7月に倒されて、上層のブルジョアジーが権力を握り、1795年には新憲法にもとづいて5人の執政官からなる執政官政府を樹立しました。執政官政府のもとでは、財産による制限選挙を復活し、民主勢力にたいするテロ支配をおこないました。
このような執政官政府は次第に腐敗し、民衆のあいだばかりでなく、ブルジョアジーのあいだでも信頼を失い、いっそう強力な権力を臨むブルジョアジーの支援をうけて、1799年11月、ナポレオンは軍隊を率いて両院を解散し、5人の執政官の権力を剥奪し、彼を首班とする3人の執政官が権力を握りました。これがナポレオンのクーデターです。

そのあと一切の権力は第一執政官のナポレオンに集中し、1802年にナポレオンは終身執政官になり、1804年には皇帝になりました。こうしてナポレオンのもとで、果てしない征服戦争が続きました。
他方、フランス大革命後も、貧富の対立はそのまま残ったうえ、同職組合などの特権や教会の慈善施設が廃止された為、その対立はいっそう厳しいものになりました。
封建的束縛が除かれて、所有の自由が確立されましたが、小ブルジョアや小農民は大資本と大土地所有者の側からの競争に押しつぶされ、かれらにとっては、所有の自由はわずかばかりの財産を売り払う自由になってしまいました。
資本主義的な産業の発達の為には、労働者階級の窮乏と貧困が欠くことのできない条件になりました。金銭ががますます社会をつなぐ唯一の鎖になり、犯罪の数が年ごとに増加しました。これまではこっそりと隠されていたいろいろなブルジョア的な悪徳がいまを盛りと咲きほこり、商業はますます「詐欺」になっていきました。暴力的な抑圧の代わりに買収が現れ、剣の代わりに貨幣が権力の支えなりました。

「要するに、啓蒙思想家たちの素晴らしい約束に比べて、『理性の勝利』によって作りだされた社会的および政治的諸制度は、苦い幻滅を与える戯画であることが証明された」と『空想から科学へ』ではまとめられています。
そして、それに続けて「ただこの幻滅を確認する人びとがまだ欠けていたが、これらの人びとは世妃が改まるとともに現れた」と述べられています。「この幻滅を確認」した人びとが、まえにも述べたサン・シモン、フーリエ、オーエンの三人の偉大な空想家たちなのです。
次回にこれらの空想的社会主義者たちの思規について述べることにします。

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