No- 2 弁証法的唯物論とはどんな哲学か(2)

 

※ ここに掲載してある文章は、日本共産党発行の「月刊学習」誌に、1970年代、3年以上に渡って掲載されたものの転載です。管理人によるオリジナルでは有りません。
トップページを参照のこと。

    

 

1、唯物論と観念論

「弁証法的唯物論は労働者階級の哲学だ」と言うことを前回に聞きましたが、なぜそうなのかと言うことが、どうも未だ納得できないんです。

もっともです。そのことは未だ話しておりませんからね。それを納得がゆくように話すには弁証法的唯物論の中身を明らかにしなければなりません。今回は弁証法的唯物論の中身に少しずつふれながら、そのことを話して行きましょう。

先ず労働者階級とはどのような階級か、と言うことから考えましょう。誰でもが知っているように、それは先ず第一に労働する人々、直接生産に携わっている人々の階級です。もっとも、このことは労働者に限ったことでは有りません。奴隷制社会の奴隷も、封建制社会の農民も、同じように、働く人々、直接に生産に携わる人々の階級でした。ただ頭の中だけで考えることと、身体を動かして働くことが、全然別のことだと言うことは、これらの階級の人々にとっては、当たり前のこと、あまりにも分かり切ったことです。実際に何かを生産しようとすれば、身体を動かして働かなければなりません。食べるものが欲しい、着る物が欲しいと頭の中で考えるだけでは、それらのものは手に入りません。考えたり、欲しいと口で言ったりするだけで食べ物が出てくるのは、おとぎ話の中の魔法のテーブル掛けだけのことです。

ところが、労働して何かを生産するということは、なにも無いところから(無から)何かを生み出すということでは有りません。魚を採るには、海や川の中に魚がいる(存在する)と言うことが必要です。
麦や米を生産するには、麦や米の種が有り(存在する)ことが必要です。さらに、魚を採る網や土地を耕す鋤や鍬のような道具は必要です。そして、これらの道具を作ることも重要な生産ですが、その為にはやはりそれぞれの材料があらかじめ存在していることが必要です。
このように、労働する為には、労働を加える相手(労働対象)と、それを使って労働する道具(労働手段)とが存在していることが必要です。

決まり切ったことですね。哲学と言うのはそういう決まり切ったことをぐだぐだ言う必要があるのですか。

体労働と知的労働の分離 、唯物論と観念論の起源

もう少し我慢して聞いて下さい。いま述べたことは、確かに決まり切ったことです。奴隷でも農民でも労働者でも、自分で労働する人、直接に生産に携わっている人々は、自分の生活体験を通してこのことを知っており、それを忘れることは決して有りません。
ところがこの決まり切ったことを、忘れてしまったり、知っていてもことさらにごまかそうとしたりする人達がいます。それは自分で肉体労働をしない人達、直接に生産活動に従事しない人達です。

奴隷制社会の奴隷主や封建社会の地主の中には、自分では何も労働しないで、ただ命令さえしていれば、欲しいものが手に入り、やって欲しいことを他人(奴隷・下僕など)がやってくれる、と言う生活をしている人達がいました。こういう人達は肉体労働が持っている本当の意味を知らないで、それを卑しい身分の人達のやる卑しい仕事だと考えました。
彼らにとっては、頭の中で欲しいと考えて命令することが直ちにその実現に繋がっていたので、頭で考えたこと(観念)が全てに優先すると言うひっくり返った考え方が生まれ、物を生産するには労働対象や労働手段が必要だと言う、あの決まり切ったことが忘れられてしまったのです。

奴隷主や地主でも、その全てが只遊んで暮らしていた訳では有りません。彼らの中の或るものは、生産計画を建てたり、奴隷や農民の労働を監督したりすることを仕事にしていましたし、又或る者は、奴隷や農民を支配してゆく為に必要なこと(ある種の宗教的儀式や政治)に携わっていました。
だがこれらの仕事は、肉体労働と言うよりはむしろ知的労働と言う性格を持っていました。階級社会では知的労働は支配階級に、肉体労働は被支配階級に、と言うように分離する傾向が顕著に現れます。
このようにして主として知的労働に携わっていた支配階級に属する人々は、自分たち自身が肉体労働を卑しいものと考えたばかりでなく、被支配階級に属する人々にも、知的労働の方が肉体労働よりも尊いものであり、従ってまた、知的労働に携わっている人々は主として肉体労働に携わっている自分たちよりも「偉い」人達だ、と思い込ませるように仕向けました。
被支配階級に属する人々が支配階級に属する人々を、自分たちよりも「偉い」人達だと思い込んでいるということは、支配階級がその階級支配を続けてゆくのに大変都合の良いことだからです

こうして彼らは知的労働の対象である観念が、肉体労働の対象である物質よりも優れたものだと自分で考えたばかりでなく、被支配階級にもそういう考えを押しつけようとしました。観念が全てを支配していると考え、又その考えを押し付けようとしたので、物を生産するには労働対象や労働手段があらかじめ存在していなければならないと言う、あの決まり切ったことを忘れてしまったか、または知っていてもことさらに誤魔化そうとしたのです。

なるほどね。だが例えば、設計したり計画を建てたりする人の方が単純労働をする人よりも「偉い」人だ、と言う考えは今も有りますよ。それは間違っているのですか。

肉体的な力を持つ人ならば誰でもがやれる単純労働と、それをやるためには一定の学習期間や練習期間を必要をする複雑労働との区別は、どんな社会にも確かに有ります。だが単純労働と複雑労働のの違いは、それによって生産される商品の価値に関係します(このことは経済学の問題ですから、経済学で学習して下さい)。けれども、「尊い ―― 卑しい」、「偉い ―― 偉くない」と言う違いでは有りません。労働は人間が生存し、社会が存立してゆく為に必要なものであり、その意味ではどんな労働でも尊いのです。
それを階級社会では先に述べたように、尊い労働(知的労働)と卑しい労働(肉体労働)とが有る、と言うように捻じ曲げてしまう。そのことが間違っているのです。

その点は分かりました。だがそのことが哲学とどういう関係が有るのですか。

大変に深い関係が有るのです。前回に、一口に哲学と言っても色々の哲学が有る、と言うことを申しました。この色々な哲学を大きく分けると、唯物論観念論と言う二つに区別することができます。
唯物論は先に述べた、直接に生産に携わっている人々が持っているあの決まり切った考えから出発して、それを徹底させ、首尾一貫した体系に仕上げたものです。
これに反して観念論は、遊んで暮らしたり知的労働に携わっている支配階級の人々の、観念が全てに優先する、観念が物質を支配する、と言う考えから出発して、これを徹底させ、首尾一貫した体系に仕上げようとしたものです。

2、唯物論

先ず唯物論から詳しく説明しましょう。
生産をするには労働対象や労働手段が先ず存在していなければならないと言うのが、生産に携わる人達ならば誰でもが知っている決まり切ったことでした。この労働対象や労働手段と言うのは、人間がそれについて考えたから存在するようになった等と言ったものではなく、人間が考えようが考えまいが、そんなことには関係なしに存在しているものです。こういうものを物質と言います。
先ず物質が存在しており、物質が存在しておればこそ労働することが出来る ―― ―― これが肉体労働をしている人達がその生活体験を通して知っていることであり、彼らの世界観の基礎をなしている考えです。唯物論はこの考えから出発します。

働く人々は物質に働きかけてこれを作り変えると言うその生産活動を通して、さまざまなことを学びます。例えば農耕労働に従事する人々は、種を蒔くには何月頃がよいか、どのように土地を耕せばよいか、どの程度に水が必要か、肥料は何がよいか、などと言うことを知っています。
だが今日では誰でもが知っているこれらのことも、人類がそもそもの始めから知っていた訳では有りません。大昔の人類が初めて一定の土地に定着して農業を営むようになった頃には、野原に火をつけて焼き払い、その後に棒で穴をあけて種をその中に入れ、上に土を被せておく、と言う原始的な農業のやり方しか知りませんでした。
だがそうした原始的な生産活動を続ける中で、例えばただ穴をあけるだけでなく、回りの土をほじくり返して柔らかくしておいた方が、作物が良く成長すると言うことを知るようになって来たのです。

「種子を蒔く前に土地を耕した方が良い」と言うことは、人間の頭の中に生まれた一つの観念です。だがこのような観念は、人間の頭の中に突然に湧き出てくるものではなく、土地(これは物質です)と、あわ、ひえ、麦などの作物(これも物質です)に働きかけると言う農業労働を通して、物質の形態の変化(作物が良く育つかどうか、収穫が多いか少ないか、などと言うこと)から人間が学びとったものなのです。つまり物質が先ず先に有って、物質に働きかけることによって人間の頭の中にさまざまの観念が生まれるのです。

このことをまとめると次のようになります。
「何よりも先ず、物質が存在している。物質が元のものであり、観念は後から生まれたものである」 ―― ―― これが唯物論の根本的な主張です。
唯物論の根本的な主張を理解すると同時に、それが直接に生産に従事する人々の素朴な世界観から真っ直ぐに出てくるものだと言うことを理解して欲しいと思います。

なるほどね。「物質」だの「観念」だのと、ことばは難しいけど大体分かったような気がします。

日常生活であまり使い慣れていない言葉が出てくるということが、哲学の学習を困難にする一つの原因になっています。これは有る程度迄は避けられないことなのです。馴染みの薄い言葉でも、使っている間にだんだんと馴染みが出来てくるものです。言葉と言うものは元来、そのようにして覚える(慣れる)より仕方のないものです。

    

 

3、観念論と宗教

さて今度は観念論について話しましょう。
観念が全てに優先する、観念が物質を支配する、と言うのが遊んで暮らしていたり知的労働に従事していたりする支配階級の人々の、逆立ちした考え方でした。
ある種の正しい観念が、人間が生産活動を、さらに広く一般に何らかの実践活動を行うに当たって、その導きになり、実践活動を成功させるのに必要なものだ、と言うことは事実です。例えば「種子を蒔く前に土地を耕した方が良い」と言う観念は、農業生産を発展させるのに必要な、正しい観念でした。だがこのような観念は、先に述べたように、人間が物質に働きかけることを通して、物質の変化から人間が学びとったものなのです。ところが正しい観念がどのようにして生まれるかを忘れてしまい、観念が物質に先だって存在するかのように考えるところに、観念論の出発点が有ります。

先ず初めに観念が有って、この観念から物質が、人間をも含めた全自然界が生まれる ―― ―― このように考えると、この最初に有る観念は非常に強力な偉大なものに違い有りません。この偉大な「観念」に、「神」とか「仏」とか言う名前を付け、それが自然界を作った、と言うように説明するのが、さまざまな宗教が説いている「世界創造の神話」です。
宗教には、キリスト教、仏教、イスラム教など、さまざまな宗教が有り、その教えは色々な点で違っています。しかし、観念的(又は精神的)なものが世界の原理であり、これが全世界(人間をも含めた)を支配しており、人間は神とか仏とか呼ばれるこの観念的(精神的)なものを信じ、その力にすがって生きてゆかねばならない、と説いている点では全ての宗教が一致しています。 宗教は全て観念論的なのです。

観念論哲学は宗教の兄弟です。宗教が説いているのと基本的には同じ内容のことを、宗教よりももっと理屈っぽく言葉で述べなおしたものが観念論哲学です。
観念論哲学にも色々有って、或るものは「神」と言うことばをそのまま使っていますが、他のものは「神」と言う言葉を避けて「イデア」だとか「モナド」だとか「世界精神」「宇宙霊魂」「絶対理念」など、さまざまの違った言葉を使っています。
このような難しい言葉を使い、込み入った議論をひねくり回すことによって「観念的(精神的)なものが元のものであり、これから物質的世界が出来てきた」と言うことを主張しているのです。しかし、既に述べたように、この主張がそもそも逆立ちしたものなので、込み入った議論をくっ付ければくっ付ける程、観念論哲学は分かり難いものになってしまいます。
大多数の素直な考え方をする人々にとって、観念論がチンプンカンプンなものに思われるのは、こういう訳で、もっともなことなのです。

哲学の話を聞いている積りでいたら、突然宗教の話が出てきたので分かり難くなりました。宗教は、金持ちも貧乏人も、全ての人を救うと言っているでしょう。それだのに、宗教は支配階級の考えから出てきたものなのですか。

宗教の起源

そう言う質問が出たので、宗教がどのように生まれたかについて、簡単に話しましょう。原始時代には未だ階級は有りませんでした。人々は、海岸で魚や貝を採ったり、山野で狩りをしてけだものを獲ったり、或いは原始的な農業を営んだりして生きていました。 生産力が非常に低かったので、自然に対する人間の力は極めて弱かったのです。
自然は一方では人間にその生活の糧を与えてくれるものでしたが、他方では嵐や洪水によって人間を打ちのめす恐ろしいものでした。人間の自然に対するこの恐怖が、自然の背後に何か超自然的な恐ろしい力が隠されているという幻想的な観念を生み出す原因になりました。
こうして人々は、山の神、風の神、水の神などを考えるようになり、これらの神に祈るようになりましたが、これが原始的な宗教であり、観念論的な世界観の始まりでした。

生産力がもっと高くなると、階級の分化が起こり、奴隷制社会が成立しました。この社会では少数の奴隷主が多数の奴隷を支配してゆく為に、国家が生まれました。
この時代から、地上の支配者(国王その他)が、原始時代からあった素朴な宗教的観念を作り変えて、階級支配を維持し強化する為にこれを利用するようになりました。すなわち、国王は神であるとか、神の子孫であるとか、神に選ばれた者であるとか言うことによって、地上の支配者を天上の支配者(神)に結び付け、神(超自然的な力)に対する人々の恐れを利用して、国王やそれに連なる支配階級を恐れさせ、被支配階級を精神的に支配し、その反抗を未然に防ごうとしたのです。

時代が移り社会制度が変わることによって、宗教もその教えの内容を色々変化させます。この世は苦しみの世界であるが、死後に楽しみの世界(天国)が有ると説き、更に天国の門は金持ちよりも貧乏人の方が入りやすい、と説く宗教さえ有ります。
このような宗教はこの世に生きている限りは貧しさに耐え、支配階級の支配に甘んじて生きよと教えるものであり、そのことによって被支配階級の反抗を抑え、支配階級の利益に奉仕しているのです。「信じなさい。そうすれば全ての人が救われます」と言う教えの背後に、支配階級の利益に奉仕すると言う宗教の社会的役割が隠されているのです。

なお先に述べたように、観念が物質に優先し、観念が物質を支配する、と主張する点では観念論哲学と宗教とは全く一致しています。「心の持ち方で不幸も幸福になる」とか「意思によって全てが決定される」とかいうような考えへと人々を導くことによって、階級支配と言う厳然とした事実から被支配階級の目をそらさせ、現存する社会での階級支配の維持・強化に奉仕すると言う点で、観念論哲学は宗教を同じ社会的役割を果たしているのです。

観念論哲学と宗教が兄弟だ、と言うことは分かりました。では唯物論哲学の兄弟はなんですか。

4、科学的世界観としての弁証法的唯物論

観念論哲学と宗教とが、観念(精神)が物質に先だって存在すると言う同じ考え方から出発しており、又支配階級の利益に奉仕すると言う同じ社会的役割を果たしているという点で、非常に似たものだ、近い関係に有るものだ、と言うことを人間同士の関係に例えて「兄弟だ」と言う言葉を使ったのです。こういう例えのことばは分かり易いけれども必ずしも正確では有りません。だから「兄弟」と言う言葉にあまりこだわらないで欲しいのです。

さてあなたの質問を唯物論哲学と非常に深い関係を持っているものは何か、と言う意味に理解して答えるとすれば、それは科学です。
科学は自然科学も社会科学も、自然や社会をありのままに捉えて、自然現象や社会現象の中から法則を発見し、これらの法則を人間の実践的目的に役立たせることをその本来の任務としているものです。

自然は弁証法的唯物論の試金石

先に農業生産を例にして述べたように、人間は農業労働と言う実践を通して自然に働きかけることによって、例えば「種子を蒔く前に土地を耕した方が良い」と言う知識を得たのでした。このような知識が多数集められ、整理されることによって、又、或る知識を得たり、確かめたりする為に特別に計画された実践(つまり実験)が行われることによって、幾つかの自然法則が発見され、自然についての知識が体系化されて、自然科学が成立し、発展してきたのでした。
だから自然科学は、何よりも先ず物質(この場合には自然)が存在していて、人間はこの物質に働きかけることによって、物質についてのさまざまな観念を獲得する、と言う唯物論哲学の根本原則に従って自然を研究しているものです。

だがそうは言っても、長い歴史の間には、神が自然に法則を与えたのだと言うような観念論的に逆立ちした立場から自然を研究しようとした自然科学者たちがいたことも事実です。
だがこういう観念論的な立場は自然科学の発展を妨げました。又、神が人間を作ったという宗教の教えに反するからという理由で、生物進化論と言う正しい科学的理論に多くの人々が攻撃を加えた、と言う時期も有りました。
だがこういう攻撃は長続きせず、結局科学者ばかりでなく一般の人々が生物進化論を認めるようになりました。
自然科学の領域では、唯物論哲学の勝利は今や決定的になった、と言えます。

戦いの場は今、社会で

だが社会の領域では未だそうなっていません。
社会が歴史的に発展すると言うこと、原始共同体から奴隷制へ、封建制へ、資本主義へと社会が発展してきて、今や資本主義から社会主義、共産主義への発展が行われつつあるのだと言うこと ―― ―― これはマルクス主義の社会科学が史的唯物論に基づいて主張していることですが、この主張を認めまいとする社会科学者たちが資本主義国には大勢います。
彼らは資本主義を擁護しようとして、次々に観念論哲学に基づく社会科学の新説・珍説をひねり出しています。
今や唯物論と観念論との闘争は専ら社会科学の領域で激しく戦われています。だがこの場合にも、勝負は既についていると言って良いのです。観念論的な社会科学は「科学」と言う名に値しないものに、エセ科学になり下がっています。
マルクス主義哲学者、科学者の任務は社会科学におけるこの観念論に最後の止めを刺すことに有ります。

さて以上述べて来たように、科学は一般に自然科学も社会科学も、唯物論哲学の基礎の上に立つ場合にだけ、科学としての正しい発展の道を歩むことが出来ます。又唯物論哲学は、既に述べたように、直接的生産者たちの考えを真っ直ぐに受け継ぎ、一貫させることをその出発点としたのでしたが、同じ考え方に従って発展してきた自然科学と社会科学の豊富な成果を自己の中に取り入れることによって、唯物論哲学も又その内容を充実し、観念論の側からのさまざまな攻撃を反撃して、唯物論哲学として発展してきました。
科学の発展が若しも仮に無かったとしたら、弁証法的唯物論のような発展した形態の唯物論は存在しなかったでしょう。唯物論哲学が二千年以上に渡って発展したその結果、その最高の発展段階として生まれた弁証法的唯物論は、従ってまた「科学的世界観」とも呼ばれているのです。

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://y-ok.com/mt-tb.cgi/3

コメントする

ウェブページ