No-17 認識と言葉

1、伝達の手段としてのことば

既にこの講座の第六回に、労働における共同作業の必要からことばが生まれた、ということを述べておきました。共同作業をするには、これに参加する人たちが、お互いになにをどうしようとしているかという意志を伝え合う必要が有る訳です。
ことばはこのことの必要から生まれたのですから、ことばは何よりも先ず、ある人が他の人に自分の意識内容(認識でも感情でも意志でもよい)を伝達する(伝える)為の手段です。

感性段階の伝達

伝達するに当たってもっとも単純な手段で間に合うのは、感情でしょう。赤ん坊の泣き声は既に感情を伝達する手段としての働きを持っています。
腹のへっているとき、身体のどこかが痛いとき、小便でぬれて不愉快なときなどに、赤ん坊は泣きますが、母親はその泣き声で赤ん坊の感情を知ることができます。

お互いにことばの通じない(つまり、違った母国語を話す)外国人同士のあいだでも、感情は伝えあうことができます。これは音声だけでなく、顔の表情や身振りをいる場合が多いということにもよりますが、声の抑揚だけでも、相手が怒っているのか、喜んでいるのか、悲しんでいるのかということぐらいは、だいたいわかります。
だが、認識や意志となると、その外国語を学んで知っているのでない限り、外国人の言ううことはわかりません。つまり、これらの場合にことばが伝達の手段となり得る為には、そのことばを話す人と聞く人とが、同じ民族語を理解する人たちであることが必要なのです。

人間は全て言葉を使用する動物であるのに、世界の人類が現在使用していることばの種類の極めて多いということは、ことばが人類という動物の種に本能的に属しているものではなく、歴史的社会的に形成されたものであること。また、ことばが生まれ、発展してきた人類の過去において、人類の共同生活が地域的にかなり限られた範囲内でしかおこなわれておらず、今日のように地球上の全体に及ぶような経済的・文化的交流がおこなわれるようになったのは比較的新しいできごとだということを示しています。

さて、前回に、認識には感性的段階と理性的段階とがある、ということを述べました。
感性的段階における認識にも、認識内容の伝達ということがあります。その伝達の手段が比較的よく知られているのは、ミツバチの場合です。
フォン・フリッシュという人の研究によると、その伝達の手段は一種のダンスだというのです。
すなわち、巣からかなり遠くに蜜のある大量の花を一匹のミツバチが見つけると、このミツバチは巣に飛びかえり、垂直方向からある角度だけ傾いた方向で8の字を空中に描くようなダンスをするのです。
すると、これを見ていた多数のミツバチが、どっと飛び立って、発見された大量の花のある地域へとまっすぐに飛んでゆく、というのです。 この場合に、最初に大量の花を見つけたミツバチはもう一度その場所へ戻ってはゆかない、つまり、そのミツパチが他のミツバチを案内してゆくのではないのです。 だから、大量の花のある場所がどこであるかということ(感性的段階における認識の内容)が、発見したミツバチから他のミツバチに伝達された訳です。

この伝達の手段である一種のダンスは、その8の字を描く速さで巣から花までの距離をしめし、垂直方向との角度で、巣から花への方向をしめすのだ、といわれています。
方向をしめすのに太陽光線の方向との角度を用いるということは、ミツバチに限らず多くの種の動物に見られます。
ミツバチの目は偏光に敏感なので、曇天の日でも太陽の方向がわかるのだ、ということです。

最初に大量の花を見つけたミツバチは、この位地を前述のように一種のダンスによって他のミツバチに伝える訳ですが、しかしそのことができるためには、巣に飛びかえって例のダンスをやるまで、花の位地を記憶していなければならない筈です。
このような記憶がミツバチのどのような器官によって、またどのような仕方でおこなわれるのか、それはまだ分かっていません。
しかし、人間ならば、例えば、距離は2.8キロメートル、方向は太陽に向かって右へ45 度、などといった具合に数量化したうえで記憶するほかないでしょうが、ミツバチにそのような数量化の能力があるとはとても考えられませんから、その記憶の方法は、伝達の方法である例のダンスとなんらかの仕方で密接に関係のある方法であろうと推定されます。

ミツバチがおこなう前述のダンスは、昆虫の研究者たちによってミツバチの「ダンス言語」と呼ばれています。これは、人間の場合に認識内容を伝達する手段がことば(言語)であるということからの類推によってそう呼ばれている訳ですが、それはあくまでも、人間におけることばと同じような機能(すなわち伝達の手段であるということ)を果たすということを意味するにすぎません。

ミツバチの「ダンス言語」に似たものに「身振り言語」というものがあります。これは聾唖者の場合とか、ことばの通じない外国人同士の場合とかに用いられますが、大変に不自由なものです。
筆者自身も外国のホテルで「食堂はどこにあるか」と言うことを聞くのに身振り言語を使った経験がありますが、やっとのことで通じたとはいうものの、苦労しました。この程度のことには役立つとはいうものの、もっと複雑なことを尋ねる場合にはとても役立ちません。
それと比較すると、普通のことば(「音声言語」)がどんなに便利なものであり、またいかに発達したものであるかがよくわかります。

音声言語の契機

ことば(音声言語)が労働における共同作業の必要から生まれたものであるということを、チンパンジーを使って実験的に確かめようとする試みをした人があります。それはW・H・ハンターというアメリカの心理学者です。

かれは、腹のへった2匹のチンパンジーを同じおりのなかに入れ、おりの外に重い台をおき、そのうえにバナナなどチンパンジーのすきな食物をおきました。
台には二本の綱がつけてあり、その綱の他の端はおりのなかに入れてあります。台は、手を伸ばしても届かない遠さにあり、また、一匹のチンパンジーが網を引いたのでは動かないが、二匹が力を合わせて綱を引けばやっと動く程度の重さにしてあります。
ハンターは、こういう特殊な状況をつくって、二匹のチンパンジーが共同作業をせざるを得ないように強制し、その共同作業がどのようにおこなわれるかを観察したのでした。

―― ―― チンパンジーは腹がへっているので、餌を取ろうとして手を伸ばしたり、綱を引っぱってみたりするが、だめなので諦めたり、ますます腹がへってくるのでまた綱を引っぱってみたりして、むだに時間を経過させるのでした。
だが、一匹が綱を引いているときに他の一匹はねそペっていたりして、なかなか共同作業はおこなわれませんでした。
しかしむだな努力が何回もおこなわれたのち、一匹のチンパンジーが一本の綱をもち、他の一匹に身振りでお前も引っぱれと指図をしたのでした。
そこで二匹のチンパンジーが綱を引くのですが、それでも力を入れるタイミングが合わなくて、なかなか台は動きませんでした。

その結果、ハンターの報告するところによれば、一匹のチンパンジーが鋭い叫び声をあげた、そしてその叫び声を合図にして2匹が力を合わせて綱を引き、台を動かし、手を伸ばして餌がとれるところまで台を引き寄せることに成功した、というのです。 ―― ―― この場合に、チンパンジーがあげた鋭い叫び声というのは、「引け」とか「よいしょ」とかいう日本語と同じ意味をもったことばだと理解してよいでしょう。
共同作業の必要がチンパンジーにことばを発させたのです。

この実験はあまりにも人為的につくられた条件のなかでおこなわれているので、オーストラロビテクスから原始人へと進化する過程でことばが生まれる場合の状態をそのまま再現しているとはいえませんが、しかし両手で綱を引っぱっているというような、身振りで相手に意志を伝達する余裕のないときに、しかも相手にある意志を伝達する必要がどうしてもあるときに、その伝達が音声によって行われたと言うことは、興味の有ることだと思われます。
原始人へと進化する過程で身振り言語が音声言語へと変わる契機は、おそらくこのようなことだったのだろうと思われるのです。

2、ことばの発達と抽象的思考の発達

声言語の恣意性と語義の転化

ところで、身振り言語の場合には、表されるものとこれを表す身振りとが、何らかの形で類似性を持つことが必要です。
例えば、食堂を表わそうとすれば、手で机や皿のかたちをして見せるとか、皿からなにかをとってロへもってゆき、口でそれを噛む動作をしてみせる等々。
だが、音声言語の場合には、表わされるものとこれを表す音声とのあいだに何らかの必然的な結びつきが無いのがその特徴です。
だから同じもの、例えば樹木を、日本人は「キ」という音声で、イギリス人は「トゥリー」という音声で、フランス人は「アルブル」という音声で表わす、等々のことがおこるのです。

このような表わされるものとこれを表わす音声との結びつきの任意性(または、恣意性)がしかしながら、音声言語に特有の発展の可能性をひらいた、ということに注目したいと思います。それは、どの国語にもみられる語義の転化の可能性です。
ある音声がその音声によって表わされるものと必然的に結びついていないからこそ、同一の音声からなる語が表わすものが時代によって変化してゆき、その語の意味(語義)が多様化し、本来の語義(語源的な語義)のほかに、幾つかの派生的な語義をもつようになるのです。
そしてついには、どれが本来の語義であったのか、特別な研究をしなければわからないような場合さえ生まれます。

例えば「カミ」という音声は、日本語では、頭にはえる毛(髪)を表わすと同時に、上下という場合の上の方向を、川の水源に近い方向を、高い所を、位の高い人(例えば、天皇や役所の長官)を、そして超自然的な力をもつ霊(神)を表わします。
「グート」という音声はドイツ語では、所有地や農場を、財貨や商品を、宝物や財産を、善を、(形容詞としては)良い・有能な・親切な・役に立つ・利益の多い・確実な等々を表わします。
また、「ダス・ヘヒステ・グート」(最高のグート)というように組み合わせて使われる場合には、最高善を表わすとともに、神をも表わすのです。
このような表わされるものの転化の可能性は、身振り言語については考えられないことです。

頭の毛を指させば、髪を表わすことはできましょう。だがその同じ身振りで、位の高い人や神を表わす可能性はないでしょう。
いま述べた音声言語の特徴は、本来は伝達の手段として生まれた言葉が、同時に思考の手段に、いや手段と言うような外的なものではなく、むしろ思考そのものだと言って良いほど思考と密着したものになっていった、ということを抜きにしては考えられないことです。

もう一度整理して述べましょう。伝達の手段としてのことばをパヴロフは「第二信号系」と名づけました。これは第一信号系としての感覚に対応する命名です。
例えば、山路を歩いていて、クマが近づいてくる足音を聞いたり、クマの姿を見たりしたとします。 これはどちらも感覚(聴覚または視覚)ですが、これらの感覚はこの場合に、「危険がせまっている」ということの信号の働きをします。
感覚がこのような信号の働きをするということは、人間にも他の動物にも共通のことです。

だが人間は、このような場合に、一緒に歩いている仲間がいたとすれば、「クマがいるぞ」と言うでしょう。 このことばを聞いた人は、(クマの足音を聞かなかったとしても)同様に「危険がせまっている」ということを知ります。つまり、「クマがいるぞ」ということばは、そのことばを聞いた人にとって、クマの足音を聞くこと(感覚)の代用になる訳であり、感覚が危険の切迫の信号だとすれば、この信号(=感覚)の信号という働きをする訳です。
このような意味でバヴロフはことばを第二信号系とよんだのです。

だが、ことばはどんな場合にも完全に感覚の代用になる訳では有りません。
クマを見た人は、それがクマであるということだけでなく、その大きさとか、攻撃的な姿勢をとっているか、ただ通りすぎてゆくだけなのかということなどを、同時に感覚しています。
だが「クマだ!」ということばは、けっしてその感覚内容のすべてを相手に伝えはしないのです。「大きなクマだ!」とか「ものすごいクマだ!」といったとしても、結局同じことで、大きさの程度や物凄さの具体的状態は伝達されないのですから、ことばは感覚の不完全な代用品に過ぎないのです。
だがこの不完全な代用品に過ぎないということばのもつ弱点が、逆にことばの長所へと転化します。 それは、「クマだ!」という同じことばが、前のクマと大きさその他がちがうクマの場合にも使えるということであり、この講座の第七回に既に述べておいたように、ことばとそれが表わす対象との関係は一対多の関係である、ということであり、ことばを持つことによって人間の意識は対象を(感覚のように個別的にではなく)一般化して反映することができるようになった、ということなのです。

恣意性と一般化・抽象化

話し手はことばによって自分の感覚内容のすべてを相手に伝達しようとしているのですが、聞き手は感覚の代用品としての言葉の不完全さによって、話し手が伝達しようとしたものの全てを受け取ることが出来ません。 だがこのことの中に既に、一般的なものを表すという言葉の本性が潜在的に内在しているのです。
言葉を使い始めた原始人は、おそらく始めのうちはことばを具体的個別的なものを表わす手段として使ったでしょうが、ことばを使うことが度重なる間に、何世代も何十世代もかかってのことでしょうが、だんだんと一般的なものに係わることに、抽象的に思考することに習熟して行ったに違い有りません。

具体的、個別的なものについての思考から一般的抽象的な思考への発展というこの方向は、未開的種族のことばと文化的民族のことばとを比較することによって、その痕跡を発見することができます。
ある未開種族のことばには、「足」と言う単一の語がなくて、その代わりに「人間の足」、「犬の足」、「カラスの足」、などを表わすそれぞれ別の語がある、ということです。

確かに、人間と犬とカラスとでは、足の形は随分違っています。 感覚内容にできるだけ近い代用品という意味では、未開種族のことばの方が優れているでしょう。
だがこのような言葉の具体性は、逆に抽象的思考の未発達なことに照応するものであり、形に捉われず(つまり感覚内容に密着せず)、それが動物の身体のなかのどのような部分であるかと言うことの共通性に注目することが出来れば、「足」という単一の語が生まれる筈であり、今日の文化的諸民族の言葉は全てこのような具体的個別性から一般的共通性へという発達の道をたどって形成されてきたものと考えられます。
つまり、このような単純な語の中にも、過去の人類がおこなってきた思考の発展の成果が内在されているのです。

次に、日本語で「ムラサキ」という音声で表わされたのは、多年生草本で夏に白い花を開くある植物の種でした。
この植物の根が紫色をしており、この根から紫色の染料がとれることから、のちには「ムラサキ」という音声でこの染料で染めた色を意味するようになりました。
このような語義の転化の例は、どの国語にも多くあります。語義の転化は、多くの場合に、「ムラサキ」の例のように、具体的な物を意味する語が、色とかその他の性質を意味する語になるという方向の転化をするようです。

人間が高度の抽象的思考を行う為には、抽象的な語義を持つ語が必要であり、そのような語があらかじめ出来上がっていた訳ではないので、具体的なものを表す語を用いて(すなわち転用して)抽衆的思考がおこなわれ、そのようなことが度重なることによって本来の具体的なものを表す語義が失われてゆき、抽象的なものを専ら表わす語へと転化していった ―― ―― また、このような抽象的な語義をもつ語が形成されたことが、人間に抽象的思考のより高い可能性を与え、これが現実性へと転化していったものと考えられます。

「ムラサキ」という語の場合はこのような転化が比較的新しくおこなわれたので、今日のわれわれがその事実をつきとめることができるのですが、多くの語についてはそのもとの語義(語源)を尋ね当てることは必ずしも可能では有りません。
だが、抽象名詞や形容詞で古くから使われているものは、今日その語源がもはや分からないにしても、やはり同じような方向の語義の転化をへたものと考えられます。
さきに「本来は伝達の手段として生まれたことばが同時に思考の手段に、いや手段と言うような外的なものではなく、むしろ思考そのものだといって良いほど思考と密着したものになっていった」と述べたのは、上述のように、抽象的思考がおこなわれることによって語義の転化がおこり、抽象的な語義をもつ語が形成されることによって抽象的思考が発展すると言う、言葉と思考の発展の相互媒介の事実を述べたかったに他なりません。

なお、上述の、同一の音声をもつ語の語義が具体的なものから抽象的なものへの方向をとって発展したという主張は、例えば「カミ」という音声が高いところや上の方向を抽象的に表わす語になったのちに、再び、位の高い人(天皇や役所の長官)という具体的なものを表わす語義をもつように再転化するという可能性を排除するものでは有りません。

※ 管理人註
他の動物にも鳴き声の変化などによる、幾種類かの意思伝達のバリエーションが確認されています。ニホンザルなどの研究では30種類程のバリエーションが有ると言われていますし、パタスモンキーについても研究されています。
それらの「ことば」と比較しての、人間の音声言語の特徴として上記「恣意性」とともに「二重分節」が挙げられます。つまり人間の言葉は、

  1. 音節の組み合わせで無数の単語が得られ、
  2. その単語の組み合わせで無限の表現が得られる訳です。

分節を持たないニホンザルなどは、生得的に身に付けている30程の鳴き声のパターン以上の表現バリエーションを持ち得ません。

3、現代人の現実的な認識過程

前回に、現在の人類(われわれ)には、純粋な感性的認識というものはない、それは、感覚器官だけを頼りにして外界を反映している場合にも、言葉が結びついてくるからだ、ということを述べました。
さきに述べたように、「足」というような簡単な語でさえも、過去の人類がおこなってきた抽象的思考の成果を含んでいるのです。ムカデをみて足がたくさんあることを認識する場合にも、ムカデのあのツメのような形の物を「足」と言う言葉を媒介として捉えている限り、そこには既に過去の人類が行った抽象的思考の成果が入りこんできているのであつて、ただの感性的認識ではないのです。

更に、ことば(それぞれの民族語)は、多くの語を持つばかりでなく、シンタックス(結語法)をもつています。
シンタックスのことはあとまわしにして、多くの語にまず注目しましょう。これらの語は、互いに無関係では有りません。
例えば、「サクラ」、「植物」、「生物」という三つの語の関係とか、また、「サクラ」、「馬肉」、「まわし者」という三つの語の関係など。

前者は、単に語の関係であるだけでなく、それらの語によって表わされる対象の関係と照応していて、したがってまた、これらの語を英語やドイツ語に翻訳した場合にも見いだされる関係です。
後者は、日本語で「サクラ」と言う音声が、同時に「馬肉」をも、「売り手とぐるになって買い手のふりをするまわし者」をも表わすという、日本語に特有の関係です。
後者の関係を学ぶことは、たんにことばを学ぶことにすぎませんが、前者の関係を学ぶことは、ことばの学習を通して実在的対象の関係をも学ぶことです。

現実の諸対象の相違、類似、包含(例えば、「植物」という語で表わされる対象の集合は「生物」という語で表わされる対象の集合に包含される〔部分集合である〕)、内属(例えば「甘い」という語で表わされる性質は、「砂糖」という語で表わされる対象に内属している)などの関係を知らなければ、それらの対象を表わす語を正しく使うことができないし、それらの語を正しく使えるということは、それらの語によって表わされている対象についての正しい認識をある程度もつていることを示しています。
例えば、ビンに「工業用アルコール」と書いたラベルを貼り付けておくということは、そのビンの内容物にはメチルアルコールが含まれており、飲んではいけないということを、その語を読む人が知るだろうと期待している訳です。

このような期待は、それぞれの語が孤立していないで、他の語とのあいだの複雑な連関の網の目をなしているという事実のうえになりたつのであり、また、語を学ぶことはこのような連関を学ぶことであるという事実のうえに活動の成果をそのなかに内臓していることを意味します。

現代人の認識がことばを用いての認識であるということは、したがって、過去の人類の認識活動の成果によって媒介された認識だ、ということを意味します。
実際にわれわれは、ある物の名称がなんであるかを知ることによって、その物についての多くの知識を一度に得ることができるのです。
ただしそうはいっても、一つの語、例えば「階級」という語からどれだけの知識を、語と語との連関をたどることによって引きだせるかということは、それぞれの人によって違うでしょう。
それは、その人が「階級」という語と他の語とが結びついている網をどの程度正確にかつ詳しくつかんでいるか、換言すれば、社会科学を、しかもどのような(マルクス主義的な、または、ブルジョア的な)社会科学をどの程度まで自分のものにしているか、ということに依存しています。
だから、二人の人が同じ法律案をよんだとしても、その認識内容は、その二人の人が過去に学んで身につけている知識が異なれば、非常に違ったもので有り得るのです。

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