No-28 チンパンジーの「思考」(Column-1)

質問に答えて

サルの思考について

当講座「入門講座弁証法的唯物論-16」の「認幾の段階」の説明について質問があります。

チンパンジーやオランウータンの実験についての記載があります。
チンパンジーが天井から吊るされたバナナを取るのに、箱を二つ積み重ねてその上に乗って取ること、二本の棒を繋いで叩き落とすことは、「思考」の結果で あると説明されています。これは有名な実験ですが、これにはパブロフの有名な反論があることもご存知と思います。 結論からいえばこれは思考の結果などではなく、探求反射と試行錯誤の結果ということです。
その証拠として、バナナが床の上で「檻(おり)」から遠くにある場合でも、箱を二つ積み重ねて試みますし、棒の横に穴があいていると、二本の棒を「く」の字型につないで試みることで分かります。 この点について説明して頂けると有りがたいのですが。

Answer

こう言う問題はもう一度実験をやればどちらかに結着がつくと言った問題ではなく、実験の結果をどう考えるかという問題なので、異論が有りうるし、それを判断することはなかなか難しい問題です。私は、パヴロフの解釈の方に無理があると思うのです。

まず、チンパンジーに思考ができるとしても、それは、思考するのに都合のよい条件のもとでだけだ、ということを考慮する必要があります。
人間ですらも、ひじょうに強い刺激のもとでは、茫然自失して、まともにものを考えられなくなる、ということがあります。 まして猿は、条件が悪ければ、思考できないのは当たり前と言えましょう。
例えば棒を使ってバナナを取ることを知っている(過去に何度もやったことのある)チンパンジー(個体)でも、バナナが近くに(手をのばしてもほんの僅かだけ届かない所に)ある場合には、手を伸ばして取ろうとするむだな努力を続けて、棒を使おうとしない、という事例があるようです。
これは感覚的刺激が強すぎる為に、思考が妨げられているのだと解釈できます。(この事例についても、他の解釈もできるでしょうが)。

棒を二本繋ぐことは、道具を作ることであって、道具を使うことよりもずっと難しいので、猿にとっては、非常に条件の良い場合にしか解決できません。棒の横に穴があいているというような、紛らわしい(正しい解決をさまたげる)条件がある場合にチンパンジーが棒を「く」の字型に繋ぐからといって、それは、まぎらわしい条件によって正しい解決が妨げられたことを意味するだけで、猿が思考しない、ということの証明にはならないと思いま す。

次に、ある一つのやり方でうまくいった場合に、別の場合にも同じやり方をやってみるということは思考の一つの特徴です。
数学が中程度にできる中学生くらいの少年が、一つの問題が、或るやり方で解けた場合に、次の問題(それはまえの問題に似ているけれども、同じ解き方では解けなくて、少し解き方を変えなければならない)についても、まったく同じやり方をして失敗する、ということはよく有ります。
この場合に、数学がひどくできない少年は、同じやり方をやってみることすらできないし、よくできる少年は、問題の違いを見抜いて、最初からその問題に適した解き方をするでしょう。

だが中くらいの能力のものは、同じやり方を試みて失敗した後に始めて、二つの問題の違いがどこにあるかを考えるのです、これは、思考が普通にたどる道です。数学をよく知っている者がみていれば、この少年は思考しないで、前の間題の解決を機械的に適用しているようにみえるかもしれませんが、しかしこの少年としては思考しているのであって、ただ、二つの問題の外見上の類似に妨げられて、その違いをあらかじめ分析することができない為に、 かれの思考が誤った方向に進められているに過ぎません。

猿が、箱を積み重ねてバナナを取った経験をもつ場合に、床の上の遠くにバナナがある場合にも箱を積む、ということがあっても、人間から みればおかしなことだけれど、この場合に猿は、水平距離と垂直距離との違いを分析できないで、まえの場合と同じ方法を用いて失敗しただけのことです。
これを人間の思考水準からみて、猿は反目的的な行動をしており、思考していないというのは、間違いだと思います。

試行錯誤(トライ・アンド・エラー)というのは、例えば、戸棚に十個の引き出しがあって、そのどれかに宝石が入っているのだが、どの一つに入っているかについてはなんの手がかりもないという場合に、片っ端から引き出しをこじあけてゆく、というようなやり方のことです。
この場合に、宝石はそんなに度々出し入れするものではないから、丁度開けやすい位置の引き出しにではなく、高い位置とか低い位置とかにむしろ入れてあるだろうと考えて、そんな位置の引き出しから先にこじ開けるとすれば、仮にその予想が間違っていて、七番目とか八番目とかに開けた引き出しにやっと宝石を見つけたとしても、それは単なる試行錯誤では有りません。

猿が箱に乗ってバナナを取るのに必要な思考とは、バナナの位置(高さ)と手を伸ばした場合の自分の身長とに差があることを知ること(分析)、部屋の隅にある箱をその位置から切り離して移動できるものとして捉えること(分析)、および、箱を動かす前に、バナナの下に移動された箱とその上に乗った自分の身長とを表象して(思い浮かべて)、それをバナナの位置と比較すること(総合)です。もちろん私は、いま人間のことばで語っているけ れども、猿がこれをやるとすれば、現物の与えられている条件のなかで、それを見ながら具体的に思考する訳です。

具体的思考として前記のことがチンパンジーにできるかどうか、箱に乗ってバナナを取る場合に実際にそういう分析と総合をやっているかど うか、これが問題の焦点ですが、私は自分でこれらの実験をやっている訳ではなく、実験者の報告を文章で読むだけですが、チンパンジーが箱を動かしてその上に乗るまでの行動の記述をよむと、どうも単なる試行錯誤をやっているのだとは思えないのです。
前述の片っ端から引き出しを開けてゆくやり方とは違うように思われるのです。

―― 失敗の例も重要です。
別の猿が箱の上に寝そべっていたときには、箱をバナナの下に持って行くことができないで、飛び上がってバナナを取ろうとする努力をムダに続けていた、という報告をみると、部屋の隅に箱だけがある場合に可能な分析が、箱の上に他の猿がいると不可能になる、と捉えることができれば、その猿を箱の上から追っ払って、箱をバナナの下に持って行ったでしょう。
―― このように、ある条件のもとでは解決不可能になるということも、単なる試行錯誤をやっているのではないことの裏側からの証拠になると思うのです。

パヴロフは、ケーラーが、猿の行動を記述するのに、"ちょっと立ちどまり、ゆっくり考え"などというあまりにも人間的な表現を使い、また解決は「洞察」によってもたらされる、などというのを"神秘的なものに心を引き付けられている"といって非難しているのですが、この非難は正当だと思い ます。
だが、人間以外の動物が「思考する」という場合に、私たち(唯物論者)はなにか神秘的な能力について語っているのではないのです。具体的な状況のなかで、ある目的(例えば、エサをとること)を達成する為に、ある程度の分析と総合を行うかどうかを問題にしているのです。

また、弁証法的唯物論の見地から言いますと、発展には、連続と不連続の二面が有ります。
人間以外の動物には、例え初歩的な段階のものにせよ、一切の分析と総合の能力が無く人間にだけその能力があると言うならば、不連続だけを言うことになり、却って人間の「思考能力」を神秘化することになりましょう。
分析と総合の能力が人間以外の動物にもあることを認め、そこには程度の差(量的差異)だけでなく、人間のみに特有の概念的思考(言葉を媒介とする抽象的思考)が有ること(質的差異、飛躍)を認めるのが、弁証法的に正しいこの問題の解決の仕方だと考えます。

以上が私の見解ですが、あなたがこの見解に不満で、バグロフの見解の方が正しいとされる理由が有れば、それを聞かせて頂きたいと思います。
(萩原千也)

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