No-15 ブルジョア民主主義革命と社会主義革命

 

※ ここに掲載してある文章は、日本共産党発行の「月刊学習」誌に、1970年代、3年以上に渡って掲載されたものの転載です。管理人によるオリジナルでは有りません。
トップページを参照のこと。

    

 

(この章の学習ポイント)

革命の性格とは何のことか、ブルジョア民主主義革命とプロレタリア社会主義革命との性格はそれぞれ何であるか(以上、1)。
プロレタリア社会主義革命はブルジョア民主主義革命とは違った、どんな特徴を持っているか(以上、2) ―― ―― を理解することが、学習の重点です。
なおこれに合わせて、1では、或る革命における指導的階級と、同盟者としてこれに参加する諸階級・諸階層がどのようなものであるかと言うこと、又3では、革命の道がどのようであるかと言うことが、その革命が行われる社会の客観的情勢、すなわち諸階級の具体的な相互関係や歴史的・社会的な諸条件によって決まると言うことを学びとって下さい。

1、革命の性格について

前回には、先ず、社会革命とは、生産関係の交代とそれに伴う上部構造の変化とを言うのだと言うこと、人類の社会の基本的発展は社会革命を通じて行われると言うことを述べました。
次に、国家権力が一つの階級の手から他の階級の手に移ることを政治革命と言うこと、そして政治革命こそが革命の第一の主要な、基本的な標識であると言うことを述べました。

「ブルジョア民主主義革命」とか「プロレタリア社会主義革命」とか言う規定は、第一に、どの階級の手からどの階級の手へと国家権力が移るのかと言うことを、第二に、この政治革命をキー・ポイントとする社会革命によって、どのような生産関係とそれに照応する上部構造とが作られるのかと言うことを表している規定です。
すなわちブルジョア民主主義革命とは、政治革命としては封建地主階級の手から資本家階級の手へと国家権力が移る革命であり、そして資本主義的生産関係とこの生産関係に照応した上部構造を形成し発展させる革命であり、またプロレタリア社会主義革命とは、政治革命としては資本家階級の手から労働者階級の手へと国家権力が移る革命であり、そして社会主義的生産関係とこれに照応した上部構造を形成し発展させる革命です。
―― ―― 以上に述べたことから分かるように「ブルジョア民主主義革命」と「プロレタリア社会主義革命」と言う規定は、その革命によってどのような社会的矛盾が解決され、どのような新しい社会制度が建設されるかと言う、その革命の客観的内容を言い表し、その革命の性格を規定しているのです。

ところで、革命の性格はどのような階級がその革命を遂行するかと言うことと深く結び付いていますが、しかしそうだからと言って、どのような階級がその革命を遂行するかと言うことが革命の性格だけによって決まるのでは有りません。
前回は先ず基本的な事柄を明らかにする為に、社会革命と政治革命について述べるに当たって、基本的な二階級の闘争として、問題を単純化して述べました。しかし現実の社会における階級関係は遥かに複雑であり、革命を巡って行われる階級闘争を具体的に捉えるには、もっと視野を広くして、それぞれの社会のそれぞれの時代における諸階級・諸階層の間の複雑な対立と闘争を正確に理解することが必要です。
このような見地から、或る革命を遂行する社会的勢力とその革命の性格との関係を考えてみましょう。

例えば「ブルジョア民主義革命」と言う場合に、先に述べたこの革命の性格から、直ちに、この革命を遂行する者がブルジョアジーであるとか、まして、ブルジョアジーだけであるとか言う結論が出てくる訳では決して有りません。ブルジョア民主主義革命を遂行いするのがどのような社会的勢力であるかと言うことは、どのような歴史的。社会的条件のもとでこの革命が行われるかと言うことの分析を抜きにしては、捉えられません。

実際に歴史を調べてみれば分かるように、ブルジョアジーがこの階級だけの力でブルジョア民主主義革命を遂行したと言う実例は無いのです。
例えばイギリスでは、1642年に国内戦争が起こり、1649年にいわゆる第一革命が遂行されますが、この革命で兵士として先頭に当たったのは主に農民であり、エンゲルスが『空想から科学へ』の英語版の序文で言っているように、「若しもこの自営農民(ヨーマンリー)と都市の平民分子のおかげが無かったならば、ブルジョアジーだけでは決してこの戦いを最後の最後まで戦い抜くことは無かっただろう」と言った状態でした。
又フランス大革命も、それを遂行したのは、ブルジョアジーだけではなく、農民・小ブルジョアジー・プロレタリアートの諸階級でした。 ―― ―― このことは、「ブルジョア民主主義革命」と言う言葉を、ブルジョア階級だけの力で行われる民主主義革命と言う意味に理解してはいけないことを教えています。

更に又、エンゲルスは『空想から科学へ』の本文で、フランス大革命について「パリの無産大衆は.........ブルジョア革命を、ブルジョアジーに対立してさえも、勝利に導くことが出来た」と述べていますが、ブルジョア民主主義革命を行うのに「ブルジョアジーに対立して」と言う事態が何故起こるのでしょうか。
それはブルジョア階級が存在する場合には、例え未だ階級として未成熟であったにしてもプロレタリア階級も又既に存在していて、両階級の間の階級的利害関係の対立は避けがたいのでブルジョア階級が二面性を持つからです。

すなわち彼らは、資本主義的生産関係の発展を目指して、一方ではこれを妨げる封建的諸制度を除去する為に封建地主階級と戦わざるを得ないけいれども、他方では労働者階級の勢力の増大を恐れ、これを抑えようとするので、或る程度の譲歩を封建地主階級から勝ち取りさえすれば、徹底的にこれと戦うことを止めて妥協する傾向を持っています。
だから封建地主階級に対して一切の妥協をせず、ブルジョア民主主義革命を徹底的に遂行する為に、無産大衆がブルジョアジーに対立するに至ると言うことが起こるのです。

封建勢力に対するブルジョアジーの妥協的態度は、その社会が世界史的に見て後進的であり、先進的な国々では既に資本家対労働者の階級対立が激化していると言う場合には、一層強くなります。と言うのは、このような後進的社会のブルジョアジーは、外国の例を見て、プロレタリアートの階級的な力の増大を強く恐れているので、初めから封建地主階級と徹底して戦う姿勢を持たず、ただ封建的制限の若干の緩和を願っているに過ぎないからです。
従ってこのような国では、プロレタリア階級がブルジョア民主主義革命の先頭に立ち、この革命を指導すると同時に、封建制度によって政治的にも経済的にも抑圧され、甚だしい苦しみに落とし込まれている農民やその他の諸階級・諸階層を革命的勢力として組織し、このような勢力によってブルジョア民主主義革命を遂行しなければなりません。

それぞれの革命には、その革命を遂行する指導的階級が有り、又、同盟者としてその革命に参加する諸階級・諸階層が有ります。どのような諸階級・諸階層が同盟者を形成するかと言うことは、革命の性格だけによって決まるのではなく、その社会の客観的情勢、歴史的・社会的条件によって決まる複雑な問題です。
レーニンは『民主主義革命における社会民主党の二つの戦術』において、「プロレタリアートが民主主義の為の勝利の闘士になり得るのは、農民大衆がプロレタリアートの革命闘争に合流する場合だけである」と述べています。これは同盟軍の重要性を強調した言葉ですが、1905年のロシアの客観的情勢を念頭に置いて述べているので、「農民大衆」だけを挙げています。決して常にそうだと言っている訳ではないのであって、客観的情勢が異なれば、農民大衆以外にもブルジョア民主主義革命の同盟者となる諸階級・諸階層が有る訳です。
同盟者をどのように組織するかを客観的情勢を科学的かつ具体的に分析して、正しく決定することは、革命を勝利させる為に極めて重要なことです。

革命の性格は、初めに述べたように、その革命によって何が変革されるかと言う革命の客観的内容を示すものですから、どのような階級が指導的階級になり、どのような諸階級・諸階層が同盟者としてこれに参加するのかと言うことによって、革命の性格が変化する訳では有りません。けれども、どのような社会的勢力が革命的勢力として革命を遂行するかと言うことは、その革命が徹底したものになるかどうかということに大いに関係します。
プロレタリアートはブルジョア民主主義革命を徹底的に行うことに、強い関心を持っています。この革命は、その性格から言って当然、資本主義的な社会=経済体制の枠を超えない革命ですが、しかしレーニンが言っているように、「ブルジョア革命が、完全で、断固たるもので有ればある程、それが首尾一貫したもので有ればある程、社会主義を目指すプロレタリアートのブルジョアジーとの闘争は、それだけ確かなものとなるだろう」からです。

    

 

2、社会主義革命の特徴

プロレタリア社会主義革命がどのような性格を持つ革命であるかについては、既に1で述べました。この性格からプロレタリア社会主義革命は幾つかの重要な特徴を持ちます。次にその主要なものについて述べましょう。

この革命は、社会革命としては、社会主義的生産関係とこれに照応した上部構造とを形成し発展させる革命です。この社会主義的生産関係が持つ特徴によって、プロレタリア社会主義革命が持つ特徴も決まってくるのです。
原始共産主義社会が崩壊して奴隷制社会が出現して以来、人類の社会は階級対立の有る社会、人間による人間の搾取の行われる社会になりました。
奴隷制的生産関係から封建制的生産関係へ、更に資本主義的生産関係へと生産関係の移行が行われましたがこれらの生産関係は全て、或る階級が主要な(又は全ての)生産手段を所有し、このことをテコにして他の階級を支配し、搾取することを可能にする生産関係でした。

ところが社会主義的生産関係は、生産手段の私有を廃止し、これを社会的に所有する生産関係です。このことによって、一部の人間による他の人間の搾取は不可能になります。
又この講座の第13回に述べたように、社会主義的生産関係のもとで教育・文化が普及し、生産力の水準が一層上昇することによって、肉体労働と精神労働との分離が無くなり、階級対立ばかりでなく、階級の区別そのものが無くなって行きます。プロレタリア社会主義革命は、人類の将来に対してこのような大きな発展の展望を開く革命です。
人類の社会の基本的発展は社会革命を通じて行われる、と言うことは既に前回に述べましたが、権力の座に有る階級を替え、搾取の形態を変えたに過ぎないブルジョア民主主義革命に比べて、階級的支配と搾取を無くし、階級そのものの消滅への道を開く社会主義革命は、人類社会の遥かに根本的な変革であり、人類の歴史的発展における遥かに大きな飛躍を意味するものです。

次に、資本主義的生産関係は封建制社会の内部で部分的に形成されることが可能でした。今述べたように、封建的生産関係も資本主義的生産関係も、搾取を可能にする生産関係ですから、資本家階級は、自分自身が封建地主階級の支配と搾取を受けながら、同時に、労働者階級を支配し搾取することが可能でした。
だから実際に、ブルジョアジーは歴史上でこのような中間的階級として生まれたのです。そして資本主義的生産関係が多かれ少なかれ発達した後に、封建制社会の持つ様々な制限が資本主義的生産関係のより以上の発展にとっての重大な障害になった時に初めて、ブルジョアジーは、農民、小ブルジョアジー、プロレタリアート等と一緒になって、封建的制限・束縛の廃止を要求して立ちあがり、封建地主階級と戦うようになったのです。
だから、ブルジョア民主主義革命は常に、資本主義的生産関係が有る程度まで発展した後に始まったのでした。

ところが搾取の無い社会主義的生産関係は搾取に基づく資本主義社会の中で、自然成長的に形成されることは有りません。
従って、資本主義的生産関係が有る程度迄発達した後にブルジョア民主主義革命が始まるのとは反対に、社会主義革命は社会主義的生産関係がまだ存在しない状態で始まらざるを得ないのです。

確かに、資本主義が独占資本主義の段階に入ると、巨大な独占資本や国有企業によって、原料生産から製品の加工、販売までが何千万と言う住民を相手に大規模に行われるようになり、生産の社会化が著しく進みます。
特に独占資本主義が、国家の力と独占資本の力を単一の国家機構に結び付けた、国家独占資本主義へ転化すると、生産の社会化は一層進み、社会主義の物質的前提条件が成熟します。
しかし、主要な生産手段は依然として独占資本の手に有り、そのことは生産の社会的性格との矛盾をますます大きくします。
労働者階級が権力を握り、独占資本の生産手段を社会化することによって初めて、この国家独占資本主義の機構を、社会主義的生産関係の建設の拠点に転化することが出来るのです。

このことから当然出てくる次の特徴は、プロレタリア社会主義革命は政治革命から始まる、と言うことです。
プロレタリアートとその同盟者の手に国家権力が握られてから後に、この社会主義的な権力の指導のもとに、社会主義的生産関係を形成・発展させ、社会主義的計画経済を実現すると言う、社会革命の過程が始まるのです。当然のことですが、これはかなり長い年月を必要とする過程で有って、この事業は「社会主義建設」と呼ばれます。

これに反してブルジョア民主主義革命は、資本主義的生産関係が既に有る程度まで発達した後に政治革命が行われるので、政治革命によって封建地主階級の特権が奪われ、種々の封建的制限・束縛が廃止されるならば、資本主義的生産関係のより一層の発展の為の条件は整う訳であり、従ってブルジョア民主主義革命は政治革命によって事実上終わるのです。

3、革命の道

では革命はどのような道をたどって遂行されるのでしょうか。 ―― ―― この問題については、その道筋は極めて多様で有る、と言うことが強調されなければなりません。同じ性格を持つ革命でも、それぞれの国の社会的条件、取り分け階級間の力関係やそれぞれの階級がおかれている具体的条件の違いによって、又その革命が行われる時期の歴史的条件の違いによって、革命の道は違ったものにならざるを得ません。
レーニンは、「それぞれの国では、革命は別々の道をたどるものである。そして、この道は非常に様々で有るから革命は一年遅れることも、二年遅れることも有り得る。世界革命はどこでも、あらゆる国で、同一の道をたどると言うようにスムースにやれるものではない」(全ロシア中央執行委員会......合同会議での報告)と、既に1918年に述べています。

この革命の道の多様性と言うことの中には、平和的手段によって革命を実現する特道が含まれているのだと言うことを、特に指摘しておきたいと思います。と言うのは、革命と言えばそれは必ず暴力的に行われるものだと言うように、自分で勝手に思い込んだ上で、革命をやると主張する政党は暴力政党だと言って決めつける幼稚な反共宣伝と闘うのに必要だと思うからです。
エンゲルスは既に1847年に『共産主義の原理』で「私的所有の廃止は、平和的な方法で可能だろうか」と自ら問いを発し、「平和的に行われうることは望ましいことであろう。そして共産主義者は疑いも無く決してそう言うことに反対しないだろう」と述べました。マルクス主義者はこのようにずっと前から、社会主義への平和的移行を願ってきたし、またその可能性が有る場合にはこれを実践上で追求してきました。

もともとマルクス主義者は、古典的思想家たちの理論を社会発展の基本法則を明らかにした偉大な思想的遺産として尊重すると同時に、唯物論者として客観的実現の変化・発展を正しく認識し、革命的見地からこれを分析して、マルクス主義の理論を創造的に発展させて行かなければなりません。
今日の世界情勢は社会主義革命を平和的な方法によって実現する可能性をかっての時代よりも大きくしているのです。

1960年の「共産党・労働者党代表者会議の声明」は次のように述べています。「労働者階級とその前衛であるマルクス・レーニン主義党は、平和な方法で社会主義革命をやり遂げようとしている。......現在の条件のもとでは、一連の資本主義諸国で、前衛部隊に導かれる労働者階級は、労働者の統一戦線及び人民戦線、その他のあらゆる形態の色々の政党や社会団体の協定や政治的協力に基づいて、人民の大多数を統一し、内戦なしに国家権力を握り、基本的な生産手段を人民の手に移すことのできる可能性を持っている」と。
この命題は、前述のような、マルクス主義の理論の創造的発展の一つであるとみなすことが出来ます。

以上は社会発展の一般的理論としての史的唯物論に含まれる範囲内で革命について述べたものです。
我が国の当面する革命の性格がなんであるか、またその道がどのようなものであるかは、史的唯物論の原則に導かれながら、我が国の政治的・経済的・文化的諸情勢を科学的にかつ革命的見地から分析して、又過去の革命運動の経験を具体的に評価し概括して、その上で初めて決定できるものであって、ただ史的唯物論だけから導き出せるものでは有りません。
当面する日本革命の性格及びその道については、日本共産党綱領並びに党大会の決定などの文献について学習しなくてはならないのであって、この史的唯物論についての入門講座で「例えば我が国では.........」と言うような形で言及すると、却って舌足らずの叙述になってしまう恐れがあるので、あえて触れませんでした。
この講座とは別に、しっかりと学習していただきたいと思います。

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