No-11 対立物の統一の法則(2)

3、対立物の相互移行

前回には二つの運動観・発展観が有る、ということから話を始めました。
第一の運動観(運動の見方)は、運動・変化をただ量的変化としてだけ捉える見方であり、これでは本当の意味の発展(古いものの消滅と新しいものの出現としての変化)を捉える事ができませんし、又、変化・発展の原動力が変化・発展するものの外に求められるので、結局、自然(物質)の全体がどうして変化発展するのかという問いに対して、神様でも持ち出してくるより仕方が無くなり、観念論に陥ってしまう、ということを述べました。
これに対して第二の、すなわち弁証法的な運動観・発展観は、なによりも先ず、物質の運動を自己運動、すなわち外から力が働いて起こる運動ではなく、自分自身で行う運動として捉えるのだということ、したがってこの運動の原因は物質(自然と社会)の内部に求められなければならず、このような態度で研究した結果見出された物質の運動・発展の原因(源泉、原動力)は物質そのものの内部にある(発見される)対立物の統一であると主張するのだ、ということを述べました。

続いて、対立物の統一というのは、一つの自分・現象の中に互いに対立した、互いに排除し合う傾向・要因・力・性質などが見出され、これらの対立物は互いに対立し、排除しあっておりながら、しかもお互いに相手なしに一方だけでは存在できず、常に相手側の存在を前提として自分の方も存在できる、とい言う仕方で結びついており、このようにして一つの事物・現象の中に統一されておりながら、しかもまさに統一されているからこそ又互いに闘争してもいるのだ、ということを意味する、ということを述べました。 ―― このような意味で対立物の統一が、前に述べたように、自然や社会のあらゆる事物・現象の運動・発展の源泉・原動力なのであります。
今回は先ず、そのことについてさらに詳しく述べましょう。

或る事物や現象の発展の原動力になっているのが、具体的に言って、どのような対立物の統一であるか、とい言うことは、それぞれの事物や現象について具体的に研究して初めて分かることです。例えば、資本主義社会においては資本家階級と労働者階級という二大階級が対立物であって、この二大階級が資本主義という一つの社会体制内に統一されている、ということは、マルクスやエンゲルスが彼ら以前の経済学や社会主義思想の成果を受け継ぎながら、自らの研究を続けることによって明らかにしたことであります。
それぞれの事物や現象について具体的に研究しないならば、何と何がその事物・現象の中で統一されている対立物であるかを決めることはできません。そして、このような具体的研究とは、自然科学並びに社会科学の領域に属する研究です。マルクス主義の世界観が科学的世界観と言われているように、科学的研究を抜きにして「対立物の統一」という言葉だけを覚えていても、それは空虚なことばになってしまい、何の役にも立ちません。私が以下に説明することも、既に科学者たちの研究によって明らかにされていることを踏まえて述べるのであって、ただ頭の中だけで勝手に考えだしたことではないのです。

さて、まず人間の身体について考えてみましょう。ここに萩原千也という一人の生きた人間の身体が有ります。これは一定の物質の塊です。だが、萩原千也の身体を形作っている物質は常に変化しています。爪や髪の毛のように、伸びすぎれば切り取られる身体の部分も有ります。
身体の他の部分に繋がっている限り、それは生きた身体の一部分ですが、切り取られてしまえば、もはや生きた身体ではなく、死んだものになります。これは目に見える分かりやすい例として挙げたまでのことで、爪や髪の毛に限らず、生きた身体を構成している物質は、消化・吸収・排泄などの作用によって、身体の一部分では無かった物質が身体の一部分に転化され、又、身体の一部分であった物質がそうではなくなるというように、時々刻々に変化しているのです。
そしてそのことによって、生きた身体に属する物質と、それに属しない死んだ物質とが入れ替わっているのです。だから、萩原千也という一人の人間の身体が生きているということは、不断に行われている生から死への、又は死から生への転化を通して、しかもこの身体が(多少は太ったり痩せたりすることはあるが、大体において)同じような状態に保たれている、ということに他なりません。

人間の身体に限らず、一般に物質の塊であって、一つのまとまりをなしているとみなすことのできるものを「系」(システム)と言います。大きなものでは、太陽系、銀河系等もそれぞれ一つの系であり、又、ある位置から意図がぶら下がっていてその先に重りが付いていてゆれている場合には、この糸と重りとが「振り子」と呼ばれる一つの系をなしているのです。
ところで、ある系が生きているという場合(一匹の動物、一本の植物がそれぞれ一つの系をなしているのです)には、さきに人間の身体について述べたと同じように、その系を構成している物質が絶えず入れ替わっていて、その系以外の物質(その生物の環境を構成している死んだ物質)が系の中に取り入れられ、又系を構成している生きた物質が系の外に出されます。生は死でなく、死は生でないのですから、生と死は互いに排除し合う要因、すなわち対立物ですが、しかもある系が生きているということは、その系を構成している物質の一部分(全体では無く)が不断に、生から死へ、又死から生へという転化(生と死との相互転化)を行っているということによってのみ保たれているのです。  ――  このようなことを、「対立物の相互移行」(又は相互転化)と言います。

今までは生物の一個体について考察して来たのですが、個体としての生物は前述のようにその系の部分的な「生と死の相互移行」を続けてゆくうちに、いつかはその系が全体として生から死へと移行する時期がやってきます。つまりその生物が死ぬわけです。
だが、例えば犬とか馬とかいう種を全体としてみれば、それぞれの個体が死んでゆくだけでなく、他方では別の個体が生まれており、個体は死んでも種は保たれています。すなわち、生物の種も又、生物個体の「生と死の相互移行」を通して保たれているのです。

だがこのような種の保存ということも、絶対的なものでは決してなく、自然史的な長い時間の中で見れば、犬や馬のような哺乳類は未だ存在せず、大型の爬虫類が地球上を支配していた時代があり、さらに古くは、三葉虫やアンモナイトのような節足動物や軟体動物しか存在しない時代もあったのでした。
このような古生物学が明らかにしている事実からみれば、古い種の死滅(生から死への転化)と新しい種の出現(無生(=死)から生への転化)を通して生物の進化が行われてきたことが分かります。
元来「死」という言葉は、既に一度生命を持っていたものが生命を失うことを意味するので、まだ生命を持たないもの(すなわち無生物)を「死」という言葉で表すのは、言葉遣いとしては正しくないのですが、ここでは「死」という言葉を「生」の対立概念を表す言葉として、すなわち、(無生=死)という意味に使うことを許してもらうならば、次のように言うことが出来ます。
生物の進化は、生物の種の「生と死の相互関係」を通して行われてきたのです、と。

さらに時代を遡れば、地球上に未だいかなる生物も存在しなかった時代に至ります。
そもそも最初の生物は地球上にどのようにして出現したのでしょうか。古くは、他の天体から胞子のようなものが地球上に移ってきた、という仮説もあったのですが、このような仮説が認めがたいものであることは今日では明らかです。だからどうしても、地球上で無生物から生物が生まれたということを認めなければならない訳であり、そしてこのこと、すなわち、まだ生命を持たない高分子の有機化合物からの生物への移行過程は、オパーリン博士やその他の人々の研究によって次第次第に解明されてきています。

(管理人注  ――  現在、宇宙起源のアミノ酸の存在なども含めて、幅広く議論されています。しかし仮に宇宙起源であったとしても、結局はその一番の始まりは、化学進化による無生物からの生命生成を説明する必要がある訳で、その事情は、場所がどこであっても同じことです。なお、2912年現在、生命誕生のメカニズムについて、相当詳細な記述が出来るまでに研究が進んでいます)

そして「生」と「死(=無生)」という対立物の移行の問題は、この場合にのみ「相互移行」では無くて「無生から生」へという一方的移行になります。何故かならば、まだ無生物だけしか地球上に存在しなかった時代に、生と死(=無生)という対立物は存在しなかったのですから。

そうだとすると、最初の生物が出現してから後の発展は、生と死という対立物の闘争に沿って行われた、ということが出来ても、無生物から生物への発展を引き起こす原動力となった対立物の闘争は、何と何との闘争だったのか、という疑問が生まれます。一般的に言えば、その場合に行われていたのは化学的運動形態における物質の運動ですから、そこには「化合と分解」という対立物の統一と闘争が有ったのだ、と言えます。だが、この答えはあまりに一般的すぎるのであって、化合と分解という化学的変化における対立物の闘争が、どのような条件のもとにどのような形態をとって無生物から生物への最初の発展の原動力となったのかという問題は、もっと具体的に明らかにされなければなりません。
それは、さきに述べたように、科学的研究によって明らかにされるべき問題です。オパーリン博士たちの生命の起源に関する研究がさらに進むことによって、この問題は具体的に解明されるで有りましょう。

さて、生命という現象を例として以上に述べてきたことは、要約すれば、生命現象の中には、生から死への、又死から生へのという対立物の相反する方向への移行が、すなわち対立物の相互移行が見出されるということ、又、生命を持つ系(すなわち生物)の発展の過程にも同じ相互移行が見出される、ということです。

このような対立物の相互移行ということは、無生物の世界にもさまざまの形で見出されます。一例を挙げれば、微視的な過程において、大きなエネルギーを持つガンマー線が一対の電子と陽電子とに転化し、又電子と陽電子がぶつかるとガンマー線に転化する、ということが知られています。
ガンマー線は電磁波の一種ですから、質量(重さ)を持ちません。電子と陽電子はともに小さいけれども質量(重さ)を持っています。(水素原子の約1800分の1)。従って上述の転嫁は、質量のあるものと無いものという顕著な対立物の相互移行が行われることを示すものです。

だが無生物の世界では、物質のどの存在形態がより古いものであり、どの存在形態がより新しいものであるかということが、天文学や天体に関する微視物理学的考察によって解明されかけてきているとは言うものの、まだ明確でないことが多いのです。
だから、ガンマー線と電子および陽電子との相互転化というような例について、現在の状態ではこれが可逆的変化(往復運動)であることは明らかですが、極めて長い自然の歴史の中でどちらの転化が先ず最初に行われたか、というようなことについては、今日の科学の水準では未だ何も言うことができません。

社会現象の領域では対立物の相互転化は一層容易に見つけ出すことが出来ます。例えば、階級社会において革命が起これば、それまでの被支配階級が支配階級になり、支配階級が被支配階級になります。
階級闘争の力関係の変化を反映して法律が変われば、不法なものと合法なものとの相互移行が起こります。例えば、以前には労働組合を作ることが不法行為として弾圧されたものが、労働組合法が制定された後は、労働組合の結成を妨げる経営者の行為が不当労働行為として罰せられるようになった、などのことはその例です。

今までいろいろ例を挙げてきたのは、前々回に述べたように、原理とか法則とかいうものは研究の出発点では無くて、研究の結論なのですから、これらの自然や社会についての研究から原理や法則が抽象されるのであって、その逆ではない、ということを示したかったからです。
勿論短い紙数の中で「対立物の統一の法則」が導き出されるまでのさまざまな研究を述べつくすことはとてもできません。だから今まで挙げた幾つかの例は、勿論不十分なものであって、以上に述べたことだけから「対立物の統一の法則」が導き出せる訳ではありません。しかし、事実についての研究が先にあって、その結果として法則が出てくるのだということを幾らかでも実地に示したいと思ってこのような述べ方をしてみました。

そこで不十分な例の挙げ方ですけれども、以上に述べた幾つかの実例から、事物・現象の変化・発展の中には、対立物の相互移行が見出されるということが分かってもらえただろうと思います。
ところで、この「対立物の相互移行」ということを、又「対立物の統一」という言葉でも言い表しているのです。ですから「対立物の統一の法則」という場合に、それは二つのこと(勿論この二つは別々に切り離されているのではないけれども)を表しております。

4、「対立物の統一の法則」における「統一」の二つの意味

前回からこれまでに述べてきたことをまとめて、対立物の法則を出来るだけ簡単な言葉で、定式の形で述べてみましょう。

「対立物の統一の法則」とは、第一にあらゆる事物・現象のうちには、互いに排除し合う傾向・要因・力・性質などが必ず見出されるということ、そしてこれらの対立する傾向・要因・力・性質などは、互いに排除しあっておりながら、しかもその一方は他方を自己の前提としており、お互いに相手なしには存在できない、という形で一つの事物・現象の中に結びついて存在しており、このように統一されているまさにその故に又互いに闘争しているということを、第二に、このような対立物の闘争がこの対立物を自らのうちに含んでいる事物・現象発展の原因・源泉・原動力であり、そしてこの闘争が激化して行く過程で、対立物の相互移行が起こり、その事物・現象は古いものの消滅と新しいものの出現という形をとって発展するということを示す法則であります。

なおここで一言付け加えておきますが「矛盾」という言葉は「対立物の統一」という言葉と同じ意味です。あらゆる客観的実在(自然と社会)は全て発展過程のうちにあるのですから、この法則はあらゆる客観的実在に当てはまり、又、客観的実在の人間の意識内への反映である認識・思考にも当てはまる普遍的な法則です。
又、ある事物や現象の発展過程のどの一部分をとってみても、そこには必ず前述の意味での「対立物の統一」(すなわち矛盾)が見出されますl。その意味でも又この法則は普遍的な法則なのです。

前回からだいぶいろんなことを教えられてきたけど「統一」ということがどうもよくわからない。われわれは「統一戦線」なんていう場合に「統一」という言葉をよく使っているんでね。資本主義社会という一つの社会形態の中には資本家と労働者という二つの階級が有る、一方なしには他方が有り得ない、そこまでは分かるんだけど、それを「統一」と言われると労働者と資本家とが一緒になって、団結して何かをやってゆく、まあ労使協調路線と言うか、何だかそんな感じが出てきてピンとこないんですがねぇ。

そういう感じで受け取られては大変です。労使協調路線とは正反対のことを言っているのだから。
確かに「統一と団結」という場合の「統一」と、「対立物の統一」という場合の「統一」とは、意味が違います。「統一と団結」という場合には、より大きな、根本的な利害関係の対立している相手が別に有って、この相手(本来の敵)と強力に闘う為に、味方の陣営の中にも部分的な利害関係の対立やこれに基づく意見の対立が有っても、このような対立によって仲間割れするようなことなく、協力して本来の敵と戦う為に力を結集しよう、ということを呼びかけている訳です。だからこの場合の「統一」は「協力」を、より大きな目的の為に部分的な意見の対立を調整することを意味しています。
だが「対立物の統一」という場合には、対立物であることが強調されている訳で、前に述べたように、対立物が一つの事物・現象の中に結びついて存在している(これがこの場合の「統一」という言葉の第一の意味です)からこそ、必然的に又両者のあいだに闘争が起こるのであり、したがって資本主義社会においては労使間の階級闘争は避けられないのであり、第二に、この闘争は激化して行くものであり、その結果、対立物の相互移行が起こる、すなわち、資本主義社会では階級闘争が激化して行くことによって革命がおこり、被支配階級であった労働者階級が支配階級になり、その指導権のもとに社会主義社会の建設が行われるようになる、ということを言っているのです。
だから「対立物の統一」という言葉は「協力」では無くて「闘争」と切り離せない深い結びつきを持っているのです。
労働者階級と資本家階級とが互いに相手側なしには存在できないということは、労働者階級の側から言えば、生産手段を持っていないからこそ賃金を払って雇ってくれる資本家が存在しなければ賃金労働者では有り得ない、ということなのであって、直接生産者である労働者が生産手段を持たないという資本主義社会の中でのみそうなのですから、そこから出てくるのは、労働者と資本家は持ちつ持たれつだ、という労使協調路線では無く、労働者階級が自らの手に生産手段を奪い返し(とは言っても今や生産手段は鍬やハンマーのような個人的所有に適する小規模なものではないから)、これを社会的所有とするような社会主義社会を建設しなければならない、ということなのです。

味方の陣営の中では部分的な利害関係や意見の対立が有ってもそれを調整して協力するのだと言われましたね。本来の敵と強力に闘うにはそれが必要だと。そのことは確かにそうだと思うんだけれど、その場合に、どこまでが味方の陣営に属するか、ということは何によって決まるのですか。又、部分的な対立でもそれはやはり対立であり、こうした対立物が一つの陣営に含まれている(その限りで、対立物が統一されている)という場合にも、さきの話だと、必ず闘争が起こることになるでしょう。どうして部分的な対立ならばそれを調整することが出来るのでしょうか。

ある社会が革命に直面している場合に、どの階級・階層迄が味方の(すなわち革命の)陣営に属するかという問題は、こうありたいとか、こうなって欲しいとか言う主観的願望によって決まる(若しそう考えれば観念論!)問題では無くて、その社会の経済的発展段階及び国家権力の構造を客観的にかつ科学的に分析し研究することによって決まる問題です。このような問題が、革命政党の綱領問題と呼ばれるものです。
我が国の当面する革命についてのこの問題は、「日本共産党綱領」(1961年、第八回大会決定)によって明らかにされています。

次に出されている質問に答えるには、敵対的矛盾と非敵対的矛盾、主要な矛盾と副次的な矛盾の区別について述べなければなりません。
敵対的矛盾と非敵対的矛盾との区別は、社会生活についてのみ現れてくる区別であって、ある階級が他の階級を搾取し、抑圧し、支配している場合に生じる矛盾が敵対的矛盾です。又、外国の勢力が他の民族を搾取・抑圧・支配している場合(帝国主義と植民地・従属国との関係)にも、敵対的矛盾が生じます。敵対的矛盾は、階級闘争・民族独立闘争による以外には解決の仕方が有りません。
他方、搾取・抑圧・支配の関係に無くてもさまざまの階級・階層・人間の集団のあいだに矛盾が生じますが、これは非敵対的矛盾であり、その解決は主として言論による闘争によって解決されます。相互に批判と自己批判を行うことによって、短期間には解決が見出せない場合にも、粘り強くその努力が続けられるべきなのです。
先に「部分的な意見の対立を調整する」と言ったのはこの意味で言ったのであって、調整とはこの場合に決して理論闘争抜きの妥協的ななれあいのことを言ったのではありません。

次に、主要な矛盾というのは、多くの矛盾が同時に存在しているときに、特にその一つの矛盾が他の矛盾に影響を及ぼしていて、この一つの矛盾を解決しなければ他の矛盾の解決が不可能だ、という場合に、その矛盾(要になっている矛盾)のことです。
何が主要な矛盾であるかを決めるには、やはり当面している問題の全体を科学的に研究しなければなりません。主要な矛盾に対して、その他の矛盾を副次的な矛盾と呼びます。副次的な矛盾に関して対立している集団と集団との間では、主要な矛盾が何であるかについて意見の一致が見られるならば、まず主要な矛盾を解決するために協力し、副次的な矛盾に関して生じる闘争は後日に伸ばしておこう、ということで合意することが出来ます。
抗日戦争の時期における中国での国共合作は、このような意味で行われたものだと考えられます。

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