No-18 概念の形成と発展

 

※ ここに掲載してある文章は、日本共産党発行の「月刊学習」誌に、1970年代、3年以上に渡って掲載されたものの転載です。管理人によるオリジナルでは有りません。
トップページを参照のこと。

    

 

1、ことばと概念 

前々回(第16回)に、思考には具体的思考と抽象的思考とがあるということを述べました。
具体的思考とは、事物から成り立っている個別的かつ具体的な状況があって(例えば棚の上に箱が乗っていてその箱の中に必要なものが入っているのだけれども、棚が高くて手が届かないという状況があって)、その状況のなかである目的を達成するにはどうすればよいか(前の例でいえば、箱を棚から下ろすにはどうすればよいか)、を考える場合の思考です。

これに対して、抽象的思考とは、「高い所にあるものを取るにはどうすればよいか」というように一般的に問題が与えられている場合に、これについて答えを見いだそうとする思考です。
抽象的思考の場合には、問題そのものが既に言葉によって与えられます。と言うのは、事物は常に個別的具体的事物で有りますが、言葉は一般的なものを表すことができるからです。
そしてこのように言葉によって表された一般的な問題を解決するためには、思考も又、言葉を用いて行われるので、抽象的思考は常にことばと結び付いています。

それで前回(第17回)には、認識とことばについて述べました。それぞれの民族が持っている民族語のなかには、過去の人類が行ってきた抽衆的思考の成果が含まれているということ、現在のわれわれはことばを用いて思考することによって、過去の人類が行ってきたさまざまな思考活動のお蔭をこうむっているのだ、ということを述べました。

ところで、抽象的思考は又概念的思考とも呼ばれます。言葉を用いて思考するということは、概念を用いて思考するということでもあるからです。では、ことばと概念とは同じなのでしょうか。そうでは有りません。
ことばと概念とは非常に密接に結び付いていて、言葉なしに概念を表すことはできないのです(例えばある記号を用いて概念を表すこと ―― ―― 地図の上で▲で山を表すように ―― ―― が有りますが、このような記号はなんらかのことばの代用をしているに過ぎないのです)。
けれども、しかしことばと概念とは全く同じでは有りません。それでまずその違いについて述べましょう。

そもそも概念とはなんでしょうか。 ―― ―― われわれを取り巻いている世界のさまざまな事物・現象は、幾つかの性質を持っています(質と性質との違いについては、この講座の12回を見てください)。
これらの性質を、難しいことばで「徴表」といいます。
例えば、水とガソリンとは両方とも無色透明の液体で、目で見ただけでは区別がつきません。しかしガソリンは火をつければ燃えるし、特有のにおいをもっています。
水は火をつけても燃えないし、なんのにおいも有りません。この場合に「無色透明の液体である」という徴表は水とガソリンに共通の徴表であり、「燃える」、「特有のにおいをもつ」という二つの徴表は、水とガソリンとを区別し、ガソリンだけに属する徴表です。

次に、徴表には本質的徴表と非本質的徴表とがあります。例えば、酒は「アルコールを含む飲み物」であって、アルコールを含まない飲み物(ジュース、サイダーなど)は酒ではないし、またアルコールを含んでいても飲めないものは酒では有りません。
「アルコールを含む」、「飲み物である」という二つの徴表は、酒には必ず属しており、そしてこれらの一方または両方が属しないものは酒では有りません。
このようにある事物に必ず属しており、それが欠けていればもはやその事物では無いような徴表を、その事物の「本質的徴表」といいます。

これに対して、酒にはその種類によって色やにおいの違いがあり、またアルコールの含有量の多いものも少ないものもあります。特定の色やにおいを持つという徴表や、アルコールの含有量が例えば10パーセントであるという徴表などは、それがあってもなくても、酒であることに変わりは有りません。
このように、ある事物に属していてもいなくても、その事物がそれであることに変わりがない徴表を、その事物の「非本質的徴表」といいます。
―― ―― さてそこで、概念とは、それぞれの事物・現象に属する全ての本質的徴表をひとまとめにして反映したもののことです。

概念は言葉によって表されます。また、言葉なしには表すことができません。
例えば「未成年者は酒を飲んではいけない」という場合に、それは「アルコールを含む」、「飲み物である」という本質的徴表を持つもの全てを飲んではいけないということであって、この場合の 「サケ」という語は、日本酒でもビールでもウイスキーでも全ての酒(酒一般)を表しています。
つまりこの場合には「サケ」という語は概念を表しているのです。
そしてこのような概念を表すためには、「サケ」という語を(或いはなにか、その言い換えに当たることばを)用いない訳には行きません。入れ物(とっくり、コップなど)に入れた酒を指差したとしても、それはその入れ物に入っている特定の(個別的な)酒を表すだけで、酒の概念を表すことはできません。

しかしまた、ことばは常に概念を表す訳では有りません。「昨日友だちの家で飲んだ酒はうまかった」という場合には、咋日飲んだある特定の酒のことを思い浮かべていっているのであって、酒一般のことをいっているのではないのですから、この場合の「昨日友だちの家で飲んだ酒」という句は、表象を表しているのであって概念を表しているのでは有りません(概念と表象との違いについては、この講座の第8回を見てください)。
このように概念はことばと深く結び付いていますが、しかし「概念=ことば」ではないのです。

前回に述べておいたように、ことばは共同作業の必要から、意識内容を伝達する手段として生まれました。 そして言葉を使いはじめた原始人は、おそらく始めのうちはことぱを具体的個別的なものを表す手段として使ったのです。だから、ことばの発生と概念の成立とは同時では有りません。
今日でこそ、大多数の語は概念と結び付いていて、前の例のようにただ「サケ」とだけいえばそれは概念をあらわし、表象を表すためには「昨日友だちの家で飲んだ酒」というように長い表現を使わなければならないのですが、概念がまだ成立する以前の原始人のことばは、逆に、短い表現が感覚または表象を表したのだと思います。

ところが、やはり前回述べておいたように、ことばが感覚の不完全な代用品に過ぎないという欠点が逆に長所に転換して、ことばが一般的なものを表すようになり、このことが同時に、一般的なもの・抽象的なものを思考する能力を持つように人間の意識を発展させたのだと思われます。 ―― ―― いま述べているところに「おそらく」とか「思われます」とかいう言い方がでてくるのは、約百万年前と考えられる人類の誕生とそれに近い時代のことを、確実にこうだったといい切るだけの証拠は、残念ながらわれわれの手もとにはないからです。

    

 

2、概念の形成

概念がどのようにして形成されるか、という問題は非常に難しい問題です。
この問題を考えるには、日常的概念と科学的概念とに分けて考える必要があります。 科学的概念が形成されたのは比較的新しいことなので、こちらの方がまだわかりやすいのですが、日常的概念の形成はきわめて古いことなのでこうだと断定することは非常に難しいのです。
まず始めに、概念の形成についての間違った説明の仕方を紹介しておきます。

―― ―― これは、例えば、ウマ、ヒツジ、サル、トラというような動物をそれぞれ比較し、その持っている性質(徴表)を分析すると、それらの一つまたは幾つかにだけある性質(例えば「ヒズメがある」という性質はウマとヒツジには属するが、他の二つには属しない)と、それらのすべてに属する性質(例えば「温血であること」、「胎生であること」、「メスに乳腺があること」など)を区別することが出来る。
この前の性質をみな捨てて、あとの性質だけをすべて数えあげ、これらの性質をひとまとめにして捉えると、「哺乳類」という概念が得られる、というのです。

これは、簡単につづめていえば、比較・分析・捨象(共通でない性質を捨てること)・抽象(共通の性質を抜き出すこと)・概括(抽象したものをひとまとめにすること)によって概念が形成される、という主張です。
前の節で述べたように、本質的徹表を探し出せば良い訳ですが、哺乳類にとってなにが本質的徴表であるかはいきなりわかることではないので、このように比較・分析・捨象・抽象という手つづきをへて、最後に取りだされた性質を本質的徴表とみなして概括すれば、概念が形成される、という訳なのです。

だが、この説明はさか立ちしています。というのは、このような説明をする人(例えば、ジョン・ロック[1632-1704]と言うイギリスの哲学者)は、既に「哺乳類」と言う概念を知っていて、従って又哺乳類の本質的徴表がなんであるかも知っているのです。
だからはじめに、比較される動物として、ウマ、ヒツジ、サル、トラと並べることができたのです。なぜここにカエルとかナマズとかを並べなかったのでしょうか。
それは、カエルやナマズは哺乳数の本質的徴表を持っていないことをあらかじめ知っているからです。このように「哺乳類」と言う概念を予め前提としておいたうえで、この概念の形成を説明するのでは、説明になりません。
この概念が形成される前には、カエルやナマズを除けて、ウマやヒツジやサルやトラだけを比較するということには考えつかない筈なのですから。

では、どんな説明が可能なのでしょうか。頭のなかで考えただけでうまい説明が見つかる筈はないのです。
レーニンは 『哲学ノート』(国民文庫版、〔上〕323ページ)に、

  • 個々の科学の歴史
  • 児童の精神発達の歴史
  • 動物の精神発達の歴史
  • 言語の歴史 注意せよ
  • +心理学
  • +感覚器官の生理学

これが、そこから認識論と弁証法がつくらるべき知識の領域である。

と書いています。
概念の形成の問題もこれらの知識領域から得られた具体的データに基づいて考えなければならないのです。
言語の歴史は、概念の形成過程を知るのに大切な資料ですが、原始人の言語がそのまま録音されて残っている訳ではないので、手がかりになる材料が非常に得にくいのです。
それで、現在地球上に残存している未開人の言語に手がかりを求めるか、または、こども特に幼児のことばに手がかりを求めるほか有りません。
ここでは、児童心理学者たちの研究に材料を求めて、概念の形成の問題に光をあててみましょう。

ピアジェ(スイスの心理学者)は、自分の長女が1歳1ヶ月のときに、部屋の窓の外を通過する列車を指さして「チュチュ」といい、列車が通るごとにそれをくり返したが、しかしその数日あとで、別の窓から見えた自動車、馬車、歩いている人に向かって「チュチュ」といい、また、父親であるピアジェが、「いないいない ―― ばあ」をしたときにも「チュチュ」といったと述べていますまた別の観察者の報告によれば、ある一歳8ヶ月の幼児は、ビロードのおもちゃの犬を「ヴァー」と呼んでいたが、そのあとで、生きた猫と母親の毛皮の外套を同じように「ヴァー」と呼んだ、ということです。
このような観察事実は、ある特定のものを指示するために使われていた幼児語が、それと同じ特徴をもつ他のものを指示する為にも使われるようになってゆく過程を示しています。

すなわち、ピアジスの長女の場合には、窓の外を通過する列車という特定のものを指示する「チュチュ」という語が、彼女の視野に現われたり梢えたりするという同一の特徴をもつ他のものをも指示するようになったのであり、二番目の幼児の場合には、おもちやの犬という特定のものを指示する「ヴァー」という語が、手ざわりのよい長い毛という同一の特徴をもつ他のものを指示するようになったのです。

これらの場合に幼児は、一つの特徴にもとづいて、「窓の外を通過する列車、自動車、馬車、歩いている人、いないない ―― ばあをする父親」を、また「おもちゃの犬、生きた猫、毛皮の外套」を一つのグループにまとめて、それを他のものから区別しているのです。
このような幼児の思考によって形成された事物のグループは、たまたまその幼児にとって、強い印象であった、ある特徴に基づいて形成されたもので、主観的であり、崩れやすいものです。

それらのグループに入れられた諸事物相互のあいだには、客観的な共通性は無く、その幼児の印象にとってだけある共通性を持っているのです。
だからそのようなグループは、ハッキリした方向付け無しに広がってゆきます。
ヴィゴツキー(ソビエトの心理学者)は、このような思考を「複合的思考(コンプレックス思考)」と呼んでいます。それはこどもの成長過程で、いろいろな違った形態をとって現われます。

いろいろな色や形や大きさの物体を多数与えておいて、その中から一つの見本を取り出してこどもに与え、それの仲間になる物体を選び出させる、という実験をすると、あるこどもは同じ色のものを、あるこどもは同じ形のものを、あるこどもは同じ大きさのものを選び出してグループをつくります。
だがまた、それぞれ違った形や色をしたものばかりを選び出して一グループをつくりあげる場合もあるのです。

前の場合には、与えられた見本に、こどもが認めたある特徴が核になって、同じ特徴を持つものが同一のグループに入れられるのに対して、あとの場合には、見本として与えられたものに備わっているさまざまな特徴を補うような特徴を持つものが選び出されて、一つのコレクションがつくられるのです。
前の場合には類似にもとづく連合が働いているのに対して、あとの場合には対照にもとづく連合が働いていて、父親、母親、兄、弟、姉、妹から一家族が形成され、コップ、うけ皿、さじから一組の食器が形成されるように、違った特徴をもつ事物の一組が作り上げられるのです。

更にヴィゴツキーが「連鎖的複合」と呼んでいる場合があります。
前と同じ実験で、こどもは、与えられた見本が三角形の物体だとすると、まず三角形のものを選んでゆくが、途中で、たまたま青い三角形の物体を選んだとすると、こんどはそれに(始めに与えられた見本は青色でないにもかかわらず)青い物体を(形の相違にかまわず)つけ加えてゆき、また途中で、青い半円形の物体を選んだとすると、こんどは(色の相違にかまわず)円形や半円形の物体をつけ加えてゆく、というのです。

連鎖的複合の特徴は、最初に与えられた見本が一貫してグループの核をなす必要がなく、途中で次々に基準になる特徴が移ってゆき、この連鎖の個々の環を通じて意味が移動する、ということにあります。
ヴィゴツキーは「連鎖的複合を複合的思考のもっとも純粋な形態とみることができる」と述べています。

さて、こどもの思考と原始人の思考とを全く同じと考えることはできません。
こどもが思考する場面は主として遊びですが、原始人は生命の危険に常に脅かされているような実生活の場面で思考することを強いられているのですし、又、子供は既に完成された言葉を持つ大人の世界に取り巻かれて、常にその影響の元にあるのに、原始人は極めて未完成な言葉を用いて思考したに違いないからです。
だが、前述のような児童心理学の提供してくれる資料は、人類の歴史上で概念が形成されるにいたる過程に多くの示唆を与えてくれます。

幼児は自己中心的であり、自分に対して強い印衆を与える特徴にだけ注意を向けているようです。
なにが強い印象を与えるかということは、原始人の場合は幼児の場合と非常に違っていたに違い有りませんが、しかし原始人の場合にもその生活維持に深いかかわりをもつような事物の特徴(それは必ずしもその事物の本質的徴表とは限らない)が強い印象を与えたに違いなく、そのような強い印象を与える特徴に基づく事物のグループがが同じ語で呼ばれたことでしょう。その限りでは、原始人のことばも自己中心的(または、人間中心的)であり、主観的であることを免れなかったと思われます。

だが、主観的印衆によって同一のグループに組み分けされた諸事物は、必ずしも客観的に同じ性質を持っている訳では無いから、実生活上でこれを同一に扱おうとすれば、その試みは事物の客観的性質の抵抗を受けて、失敗せざるを得ません。
おそらく原始人は、さまざまの複合的思考を行いながら、実践上で事物の客観的性質による抵抗に出会い、多くの失敗を通して、主観的印象に基づく事物のグループ分けを改め、次第次第に、客観的性質に基づく事物のグループ分けに近づいていったものと思われます。 その際に、連鎖的複合は、前回に述べた語義の転化の元になったと思われます。

そして、客観的性質にもとづく(あるいは少なくともそれに近い)事物のグループが同じ語で呼ばれる場合には、それだけ思考がより多く客観性を持つ訳であり、客観性をもつ思考によって実践が導かれる場合には、それだけ実践上の失敗が少ない訳ですから、連鎖的複合のなかから、比較的客観性の程度の高い、すなわち事物の本質的徴表にもとづくグループをある語が指示するような場合が、淘汰の結果残されてゆく、という結果になったのではないでしょうか。

既に概念が形成されており、その概念を表す大人の言葉に囲まれている子供の場合には、僅か数年の成長過程で複合的思考から概念的思考への歩みが実現されるのですが、原始人がこの歩みを歩むにはおそらく何百、何千世代と言う長い年月がかかったことでしょう。 未開人の思考にはそのような過去の複合的思考の痕跡が残されています。
いずれにせよ、人類は複合的思考の段階を通って、初歩的な概念を形成するに至り、概念的思考を行うなかで、より高度の概念を形成して、今日に至ったものと考えられます。

概念の形成過程は極めて複雑な過程で有ったに違い有りません。

3、科学的概念の形成と発展

ひとロに科学的概念といっても、性格の違ういろいろな科学的概念があって、その形成過程も様々です。
ここでは、日常的概念にその源があって、それが科学的概念へと形成しなおされる場合についてだけ述べます。

「力」という概念について考えてみましょう。「あの人は力もちだ」、「板道を車を引いて上がるには強い力がいる」 ―― ―― このようにいわれる場合の「力」という日常的概念は、腕や脚や腰などの筋肉の緊張感と結び付いています。
ある物体に力を加えるにはその物体に直接に人間が身体の一部を触れるか、または棒で押したり綱をつけて引っぱったりする場合のように、媒体(力の作用を伝える物体)を通して筋肉の働きを相手の物体に伝えなければならない、というのが日常的概念としての「力」です。

ところが、ニュートンは、熟したリンゴは綱がついていないのになぜ地上に落ちるのか、月は等速度直線運動をして地球から無限の彼方へと飛び去ってゆかないで、なぜ地環のまわりを円運動を続けるのか、等々の問題を考えて、離れた二つの物体のあいだには距離の二乗に反比例し、それらの物体の質量(重さ)の積に比例する万有引力が働いていると考えました。
「万有引力」という場合の「力」は、媒体がなくても遠い距離を隔てて作用するものと考えられています。

この場合には、日常的概念としての「力」から、筋肉の緊張感というような徴表が取り除けられて、「力」とはその作用をうける物体に加速度を生じる(静止している物体に働けばこれを運動させ、運動している物体に働けばその速さを変化させたり、運動方向を変化させたりする)という徴表だけが取りだされて、日常的概念としての「力」が科学的概念(この場合にはニーユートン力学的概念)としての「力」に発展させられているのです。 このような力は、遠隔作用をする力といわれます。
万有引力は二つのはなれた物体のあいだに、媒体がなくても作用すると考えられたからです。

ところが自然科学の発展は更に「カ」という概念をつくり変えました。
帯電した二つの物体のあいだには引力または斥力が働きますが、この場合には、帯電した物体のまわりに電場が生じ、電気的引力(または斥力〕はこの電場を媒介として働く、と考えられるようになりました。
そしてこの考え方を押し及ぼして、万有引力も、物体が存在するとそのまわりに重力場が生じ、この重力場を媒介として二つの離れた物体のあいだに引力が働くのだと考えられるようになったのです。

「力」とは遠隔作用をするものではなく、その回りに生じる場を通して働く(日常的な言い方をすれば、場が棒や網の代わりをして力を相手に伝える)と考えられるようになり、再び「力」は近接作用しかしない(ただし「場」という新しい概念と結び付いて)ものだというように「力」の概念が改められたのです。
「核力」(原子核のなかで陽子や中性子を結び付けている非常に強い力)の場も中間子の場によって作用する力だと説明されていますが、こういう場合の「力」と言う概念は更に分かり難いものです。

管理人註
※ 重力場は、アインシュタインの一般的相対性原理
※ 力について
世界には4つの基本的な力が有るとされ、全ての現象はその4つの力で説明されます。核力=「強い力」はその一つです。
その「強い力」を含め、「弱い力」「電磁気力」「重力」とが有ります。又その力にはそれぞれの力を担う特定の粒子が存在し、その粒子の交換によってそれぞれの力が発揮されるとされています。
現在、重力を担う粒子=グラヴィトンだけが実際に発見されておらず、世界中の物理学者がその発見・証明に血道をあげています。

このように科学的概念は科学の発展に次々に作り変えられてゆきます。
「国家」という概念がマルクス主義的社会科学によってそれ以前のものからどうつくり変えられたか、ということを研究すると、科学的概念の発展を理解するのに有益なのですが、それを説明するにはかなり長く述べなければなりません。

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