No-13 階級の消滅と国家の死滅

 

※ ここに掲載してある文章は、日本共産党発行の「月刊学習」誌に、1970年代、3年以上に渡って掲載されたものの転載です。管理人によるオリジナルでは有りません。
トップページを参照のこと。

    

 

(今月の学習ポイント)

階級は、一定の歴史的諸条件のもとで消滅するものであること、そしてこのような諸条件とはなにかと言うこと、を学ぶのが第一の重点です。
次に、国家は、無政府主義者たちが主張するように「今日明日にも」これを廃止しようとしても廃止することのできないものであるけれども、しかし国家も又、一定の歴史的諸条件が整うならば、不要なものとなり、自ずから死滅してゆくものだ、と言うことを学ぶのが第二の重点です。
これらのことは、いずれも遠い先の時代のことで、夢のような話だと思う人が有るかも知れませんが、このような人類社会の歴史的発展についての見通しを持つことは、今日の実践活動の方針を正しく定める為にも大切なことなのです。

前々回には「階級はどのようにして生まれたか」について、前回には「国家はどのようにして生まれたか」について述べました。階級も国家も人類の社会にそもそも初めから存在したものでは無くて、人類の社会の発展の途上で、一定の歴史的条件のもとで生まれたのでした。このようにして生まれた階級と国家は、やがてまた、消滅し死滅します。
「やがてまた」と書きましたが、これは言うまでも無く、「いつでも我々が好む時に」と言う意味では無く、「一定の歴史的条件が成熟した時に」と言う意味です。
それで今回は、ではどのような歴史的条件のもとで階級は消滅し、国家は死滅するのか、と言うことについて述べることにします。

1、階級の消滅について

前々回に述べたように、階級が生まれたのは、すなわち、原始共産主義社会と言う階級の無い社会の中に奴隷と奴隷主が生まれて、奴隷制社会と言う最初の階級社会が成立したのは、原始共産主義社会のなかで生産力の水準が少しずつ上昇して、余剰生産物が生じるようになり、私有財産が発生した、と言うことの結果でした。簡単に言ってしまえば、生産力の発展が基本条件となって、階級が生まれたのです。
ところが、このようにして生まれた階級がやがて消滅すると言うその基本条件も又、生産力が発展することに有ります。
このように言うと、生産力の発展と言う同じ条件が、一方では階級を生み出し、他方では階級を消滅させると言うことになり、何か辻褄の合わないことを主張しているかのように思われるかも知れません。
だが、決して辻褄の合わないことを主張しているのではないのです。と言うのは、階級を生み出す場合の生産力の発展と、階級を消滅させる場合の生産力の発展とは、その発展の水準が非常に違っているからです。この違いを、以下に詳しく述べることにしましょう。

前々回に述べたように原始共産主義社会では、生産力が非常に低い発展段階に有った為に、全ての人が力一杯に労働しても、それによって全ての人がやっと生活していけるだけだと言う状態に有ったので、生産物は平等に分配するほかなく、従って労働しないで生きてゆける人間が存在する余地はなく、階級は存在しなかったのでした。
ところが、生産力の水準がやや上昇してくると、一人の人間が力いっぱい労働すれば、その人がかつかつ生きて行くのに必要な物資よりも幾らか多くのものを生産することが出来るようになり、私有財産が発生するとともに、新しい生産関係、つまり生産手段を私有し、こうして他人の労働の生産物を搾取することによって生活する人間が存在する条件が生まれたのでした。これが階級が生まれる歴史的・経済的条件で有った訳です。

※ 管理人註
「前々回」つまりcontents-11 は紛失して有りません。階級の無い原始共産制から、人類が初めて階級に分裂する契機と過程が述べられていたであろう部分の空白は、本当に残念です。

階級分裂の基礎となった、生産力の増大、余剰生産物、私有財産の発生の契機となった大きな要因として「農業の発明」が有ったでしょう。
人類はその歴史の大部分を狩猟(初期は死肉漁りなど)・採取で生きてきました。農業或いは牧畜等を覚えたのは、つい1万年前程のことです。
狩猟・採取は、その成果(生産力)も低く、運に左右されます。そして重要なことですが保存が利きません。運よく大猟が有ったとしてもそれを取って置き、不猟に備えると言うことがし難いのです。
このような状況の下で、一部特定の人間が生産物を搾取し、私有財産を築く等と言うことは考えられません。長老的な存在は居たかも知れませんが、それはあくまでも同じ構成員の範囲でのことです。

最終氷河期が明け、地上が森林や緑で覆われる約1万年前頃、人類は農業と牧畜を覚えます。それによって人類は初めて、運任せの食糧確保から、同時に飢餓との隣合わせから基本的に解放されることになります。又一定の土地に定住し集落のようなものを築くようにもなります。
人口が急激に増加し始めるのもこの頃からです。

同時に農業と牧畜は、食糧の貯蔵の可能性をもたらします。
穀物は乾燥させて保存できますし、牧畜は文字通り獲物を生きたまま保存することです。

生産力の増大と安定性、そして貯蔵は、余った生産物を力の強い者が独り占めする可能性を与えます。
実際の階級分化の過程はそれぞれ複雑な経過を辿ったでしょうが、その可能性の基礎となったものは以上のような事情だったのでしょう。

農業の発明から僅か5000年後には、エジプトであのピラミッドを築く程の本源的蓄積と、それを強制させるだけの権力を持つ奴隷主階級、及び奴隷階級が生じた訳です。

しかし今述べたような生産力の発展水準は、社会全体の労働の生産物が、社会の構成員の全体が乏しい生活をしてゆくのに必要なものを、ほんの僅か超える程度にやっと達した、と言うことに他なりません。
だからこのような状態のもとでは、大多数の社会の構成員は、全ての、もしくは殆ど全ての時間を肉体的労働の為に費やさなければならなかったのです。生産力の発展水準はやや高くなったとは言うものの、相対的に見れば、まだまだ低かったのです。
従って、一部の人間たちが肉体労働から解放されて、労働の指揮・監督や、更に国家が成立した後には、軍隊の指揮、税金の徴収、裁判などの国家的業務に携わるようになり、更に又一部の人々が科学や芸術などに専門的に携わることが出来るようになったとは言うものの、この程度の生産力の発展段階に有っては、このような業務に携わることのできる人間は、社会の全構成員の中での、ほんの一部分に過ぎなかったのです。

このようにして、社会は、専ら肉体労働に携わる大部分の人間と、直接的・生産的労働から解放された一部の人間とに分裂せざるを得なかったのですが、とりわけ国家が成立して以後、後者が国家権力を握ることになったので、一部分の人間たちが経済的にばかりでなく政治的にも支配的な位置に立つことになり、社会は支配階級と被支配階級とにハッキリと分裂したのでした。
奴隷制社会から封建制社会へ、更に資本主義社会へと、生産関係及びそれに照応する上部構造が変化し発展しましたが、そしてこのような発展の基礎にはやはり生産力の水準の上昇が有ったのですが、しかしそれにもかかわらず、一部分の人間だけが肉体労働から解放されるにすぎないと言う状態が無くなるまでには至らず、従って社会が対立する階級へと分裂すると言う状態も無くなりませんでした。

エンゲルスは『空想から科学へ』の第三章でこのことを説明して「搾取階級と被搾取階級、支配階級と被支配階級に社会が分裂したのは、これまでは生産の発展が貧弱だったことの必然的な結果であった」と述べ、更に「分業の法則が階級分化の基礎をなすのである」と言っています。ここで「分業の法則」と言っているその「分業とは、肉体労働と精神労働との分業のことです。
さてそれでは、階級が消滅する為の基本的条件は何でしょうか。エンゲルスは引き続き次のように述べています。

―― ―― 「だが、このように諸階級の区分がある種の歴史的な根拠を持っているとしても、それはただある一定の期間、一定の歴史的諸条件に対してだけである。それは生産の不十分のことに基づいていたのである。それは現代の生産力の十分な発達によって一掃されるであろう。
そして実際、社会的諸階級の廃止は一つの歴史的発展段階を前提するのであって、この段階では、あれこれの特定の支配階級(奴隷主、封建的地主、資本家など)の存立だけでなく、支配階級一般の存立が、従って階級差別そのものの存立が時代錯誤になっており、古臭くなっているのである。つまりそれは生産の高度な発展を前提するのであって、この発展度のもとでは一つの特別な社会階級による生産手段と生産物の領有は、従ってまたその階級による政治的支配や文化の独占や精神的指導の領有も、ただ余計なものになるだけでなく、経済的にも政治的にも精神的にも発展の障害になってしまうのである。今ではもうこう言う点に到達しているのである」と。

ここに述べられていることを要約して言えば、階級が消滅する為の基本的条件は、特定の階級による生産手段の私有と、政治的、精神的支配が不必要であるばかりでなく、社会のより以上の発展にとって妨げになるまでに生産力の発展水準が高くなることだ、と言うのであります。
確かにその通りなのですが、エンゲルスがここで述べていることは、あくまでも、階級が消滅する為の基本的条件だけについてである、と言うことに注意を促しておく必要が有ると思います。今引用した文章の最後でエンゲルスは「今ではもうこう言う点に到達している」と述べています。

確かに、資本主義的生産関係が成立して以来、社会の生産力はこれまでのどの時代とも比較にならない早いテンポで発展しましたし、エンゲルスの時代以後、更に大きく発展しました。だが今日の世界において、未だ階級は消滅していません。何故でしょうか。

生産力が高度に発展することは確かに階級が消滅する為の基本条件なのですが、しかしこのことだけによって直ちに階級が消滅する訳ではなく、何よりも先ず生産関係が変わらなければなりません。
更に社会主義的生産関係のもとで教育・文化が普及することによって、社会の全ての人が精神労働に従事することが出来るまでにその知的水準を高めなければなりません。
具体的に考えてみれば分かることですが、例えば工場の中で技師と労働者との区別が無くなり、現在の状態では技師がやっている仕事を工場内で働いている人たちが交代でやることが出来るようになる為には、工場内で働いている全ての人が現在では技師だけしか持っていない専門的知識を身につけていなければなりません。
他の分野の仕事についても同様で、全ての人が高度の知的水準に達していて初めて、個人が分業に奴隷的に従属することが無くなり、交代制(当番制)によってあらゆる人が精神労働に携わることが出来るようになる訳です。
他方、社会主義的生産関係のもとでは、科学、技術の大きな発展によって、全労働時間の中で肉体労働が占める割合は減少し、又肉体労働そのものの性格も変化するでしょう。

しかしこれは決して夢のような話では無いのであって、革命によって生産関係が変化し、人間が生産手段を社会的に共有するようになり、又生産力の発展によって労働時間が短くなり、全ての人が高度の教育を受ける時間の余裕を持つようになれば、誰でもが交代で精神労働に従事できるような知的水準に達することは、決して難しいことではないでしょう。
エンゲルスはこのような社会の発展の大筋を遠望しながら、その基本条件が生産力の発展に有ることを述べ。そして生産手段の社会的領有、すなわち社会主義革命へと話を進めています。だがこの講座では、革命について述べることは次回に譲って、次に国家の死滅について述べることにします。

    

 

2、国家の死滅について

前回に述べたように、国家もまた、一定の歴史的諸条件のもとで生まれたのでした。それは、簡単にまとめて言うならば、社会が支配階級と被支配階級とに分裂した後に、被支配階級の反抗が強くなったことによって階級対立が激化し、もはやそれぞれの奴隷主が自分の力だけでは奴隷の反抗を抑えて行くことが出来なくなり、彼らの支配を維持して搾取を続けて行く為には恒常的な武装力を必要とするようになった、と言う歴史的条件のもとで生まれたのでした。
だから国家の持つこの武装力 ―― 常備軍 ―― は、必要に応じて全人民が武装すると言うことによって成立した(国家の成立以前の)種族連合の軍隊とは、根本的に性格の違ったものでした。

又、前回には書き漏らしたことですが、名目的に「公共性」を掲げて国家と言う「公的」権力が成立すると、この権力を維持する為に必要な経費を租税として全人民から取り立てるようになり、「公的」権力を運用し、租税を取り立てる為に官吏が生まれます。
国家が国家たる所以は、このようにして生まれた常備軍や官吏が人民(大多数の被支配階級)を支配することを目的とするものであり、従って人民から遊離していることに有ります。このことを特徴づけてエンゲルスは、前回も引用したように、「社会から生まれながら社会の上に立ち、社会に対しますます外的なものとなって行くこの権力が、国家である」と述べたのでした。

国家が、或る階級が他の階級を支配する為の機関である、と言うことを説明してエンゲルスは、『空想から科学へ』ではこう述べています。
―― ―― 「階級対立のうちに運動してきた従来の社会は国家を必要とした。言いかえればその時々の搾取階級が自分の外的な生産条件を維持する為の組織、従って特に、被搾取階級を既存の生産様式によって与えられた抑圧条件(奴隷制、農奴制又は隷農制、賃労働制)の中に無理やりに抑えつけておく為の組織を必要とした。国家は社会全体の公式の代表者であり、目に見える一つの団体に全社会を総括したものであった。
しかし国家がこのようなものであったのは、ただ、それ自体がその時代に全社会を代表していた階級の国家であった限りでのことだった。すなわち、古代では奴隷を所有する公民の、中世では封建貴族の、現代ではブルジョアジーの国家である」と。

さてそこで、以上のことを理解するならば、国家が無くなると言うことは、或る階級が他の階級を支配する為の機関(組織)が無くなることであり、人民から遊離しているような強制力が無くなることだ、と言うことが分かるでしょう。
そこで、このようなものが無くなるのはどのような歴史的諸条件のもとでのことか、と言うことを明らかにすることが必要です。

国家を無くする為の第一歩が、先の引用文でエンゲルスが述べているような、被支配階級を与えられた抑圧条件の中に無理やりに抑えつけておく為の組織としての国家権力を打倒することで有るのは、分かり易いことであります。
資本主義社会に生きている我々について具体的に言えば、ブルジョアジーの国家権力を打倒することが必要です。この打倒はプロレタリア社会主義革命によって行われます(この革命については、次回以後に詳しく述べます)。
だが、この革命によって古い国家権力が倒されても一挙に国家そのものが無くなる訳では有りません。けれども、それは以前の国家と違った性質の国家です。レーニンは、そのような段階における国家を「もはやことばの本来の意味での国家では無い国家」と呼んでいます。ではそれはどのような国家でしょうか。

それがなお「国家」と言われるのは、そこにはまだ軍隊や官吏が存在しており、一定の強制の機構が存在しているからです。しかしそれが「もはやことばの本来の意味での国家ではない」と言われるのは、この強制の機構がもはや人民から遊離しておらず、逆に人民に直結しているからなのです。何故かと言えば、それは、少数者(搾取する支配階級)が多数者(搾取される被支配階級)を抑圧する為の、武装力を持った強制の機構(本来の意味での国家)を打倒することによって成立するのであり、多数者(人民)の利益を守り、搾取の無い社会を作り出すことを目的とする国家ですから、この国家の権力は人民大衆と直結せざるを得ず、人民大衆と直結すること、人民大衆自身がこの権力の担い手であることによってのみ維持される国家であるからです。

だが、このように人民大衆と直結しているにしても、なおそれが国家である、すなわち一定の強制の機構であると言うことは、なぜ必要なのでしょうか。それは、何のために誰を強制する機構なのでしょうか。
この機構の目的は社会の発展段階を追って変化します。

先ず、古い国家権力が打倒されたのちには、かっての支配階級であった少数者は、再び以前のような支配的地位を回復しようとして、さまざまな形態での策動を企むでありましょう。このような企みに対しては、教育や説得によってその企みを捨てさせることが最も望ましい訳ですが、相手は決して甘くない訳ですから、厳重な警戒が必要です。
国家の総意に基づく、人民大衆と直結している国家が存在しないならば、不幸にして不法な暴力的手段による反革命の行動が行われた場合に、これを規制することはできません。強制の機構である国家が必要なのは先ずこの為にです。

―― ―― しかしこの場合にも、既に本来の意味の国家では無い国家は、多数者が少数者の暴力的な反革命行動を警戒し、不幸にしてその行動が起こった場合にそれを規制することを目的とするのですから、少数者が多数者を搾取する為に日常的にこれを抑圧することを目的とする本来の国家よりも、ずっと容易にその目的を達成できる筈であり、従ってまた、後者のように凶暴、残忍で有ることを必要としないのです。

さて次に、国内に暴力に訴える反革命分子がもはや存在しないと言う状態に達した場合に、本来の国家では無い国家の任務は何でしょうか。
外国からの侵略の危険が存在する限りでは、国土と人民を防衛する任務が残るでしょう。そして、国内的任務について言うならば、各個人が生産物の分配に関する権利を持つ限りでは、やはりまだ何らかの強制の機構が必要なのです。
共産主義の第一段階(社会主義の段階、とも言われる)では、生産力が全ての人々の消費に対する要求を完全に満たしてなお余りが有る、と言う迄に高い水準にまだ達していないので、人々は、能力に応じて働く義務を持ち、労働の質と量に応じて生産物の分配を受ける権利を持ちます。
このような権利が有ると言うことは、それを侵すものに対して権利を持つものが守られて初めて意味を持つのであり、従って権利が存在する限りはこれを守る強制力が必要なのです。

だがしかし、社会は、従って又人間も、発展し続けます。レーニンはこう書いています。
―― ―― 「資本主義的奴隷制から解放された人間は、.........共同生活の根本準則を守ることに、暴力も無く、強制も無く、隷属も無く、国家と呼ばれる強制の為の特殊な強制機構なしに、これらの準則を守ることに、徐々に慣れて行くであろう」(『国家と革命』第五章の二)と。この場合にも、基本条件をなすものは生産力の発展です。
労働時間が短縮し、1で述べたことに関係しますが、全ての人が交代で精神労働にも肉体労働にも携わるようになることによって、労働は楽しいものとなり、人々はもはや義務としてではなく、それぞれが自己の能力に応じて自発的に労働するようになります。又、生産物は一層豊富になり、各人がその必要に応じて生産物の分配を受けるようになり、社会は共産主義の高度の段階を実現するのです。

―― ―― 勿論、こうした段階へと一足飛びに移れるものではなく、取り分け人間が強制を受けなくても自発的に労働し、共同生活の準則を守るようになると言うことは、慣れること、第二の天性と言われる習慣が形成されることによるのですから、当然、かなりの時間を必要とします。だが人々がだんだんとそのような習慣を形成して行くことによって、「社会的諸関係への国家権力の干渉は、一つの分野から他の分野へと次々に余計なものになって行き、やがてひとりでに眠り込んでしまう」(エンゲルス)のです。

国家は、無政府主義者が主張するように意図的に廃止できるものではなく、人々が新しい習慣を形成し、権利も義務も存在しない社会状態が作り出されることによって、「人に対する統治に代わって、物の管理と生産過程の指導とが現れ」国家は死滅するのです。
「国家は死滅する」と言う表現は、その過程の漸次性と自然成長性とを表しています。

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